”沖縄の星”上原康恒・協栄ジム14 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

1976年10月、後輩の具志堅用高選手が世界王者になった以降、上原康恒選手は日本タイトル防衛とノンタイトル戦を繰り返す。決まりそうで決まらない世界再挑戦。

世間では”後輩”具志堅選手の世界タイトル防衛記録ばかりが騒がれ、全く目立ちませんでしたが、上原選手も先輩の意地を見せ具志堅選手と張り合うように、オール日本人選手相手に7連続KOを続けます。

7連続KO中の1979年7月、日本タイトル防衛戦で対戦したのが5位・池原良孝(金子)選手。沖縄出身のサウスポー。ランク入り前の選手紹介では「サウスポーの上にやりにくスタイルで、上位の選手が対戦してくれない」と、紹介されています。アッ、ランキング入れちゃったの大竹マネジャーですね。(~~)今でもよく言います。「あれはやりにくいよ~」(~~)

試合は7、9回と上原選手がダウンを奪いましたがKOするまではいかず、選評も散々。世界はいまだし?先代金平会長も「世界はもうちょっと様子を見てから」と渋い顔。

上原選手、「”世界、世界”と先走って、つい力みすぎ。KOを狙いすぎてしまった」「一から出直します」

”この年10月で30才。出直しの余裕などないはず”とまで書かれていますから、かなりきついですよね。この時WBAランキング7位。

上原選手この後日本タイトル2度の防衛を重ねます。ブレーザー・大久保(大阪帝拳・故人)選手との7度目の防衛戦、5回KO勝ちが80年3月2日。大久保選手引退後はトレーナーとして、辰吉丈一郎選手とのコンビで有名になりましたね。

さて上原選手、この時WBA世界ランキングは1位。そして世界タイトル挑戦は、試合3週間前に突然決まります。8月2日デトロイト。 「康恒連絡付かないなぁ」「どうしちゃったんだ」「誰か知らないか?」「困ったなぁ~」「捜索願だすか」(~~)先生方は皆ユニークでした。携帯電話もない時代です。

上原選手、本人不在で発表された世界戦の”新聞記事を読んで”ジムに現れました。少し早い夏休みだったのか、「秘密の特訓してたのよ」。真相はよくわかりません。(~~)

しかし、急仕上げのトレーニングが始まりました。何か”ロッキー”みたいな感じでしょうか。ホントに急だったので、当時上原選手を担当していた上甲先生、パスポートが間に合わず試合に同行出来ませんでした。(~~)

「見送りなんか、誰も来なかった」状況で、試合地デトロイトへ出発。試合は米・デトロイトでの3大世界タイトルマッチの一つとして行われました。メインはピピノ・クエバス(メキシコ)にヒットマン・ハーンズが挑戦したWBA世界ウェルター級タイトルマッチ。歴史的な試合ですね。

上原選手の試合は一番最後、2万人の大観衆が帰り始めた頃行われました。試合は淡々としたペースで進みますが、前半5回が終わったところで先代金平会長は、「康恒君の好きなようにやってみたら」と一言。

もう一人リングサイドからアドバイスをおくった方がいました。現夫人の美穂さん(当時は婚約中)で、飛行機を乗り継ぎ、英語もしゃべれないのに一人で試合前日、デトロイトのホテルまで応援に駆けつけていたのです。

「康恒~。何やってんだ、ぶっ飛ばしてこい」(~~)ジョー・ルイス・アリーナに大きく響き渡ったこの一言に、上原選手は燃えました。

続く・・・。