シンデレラ・ボーイ西城正三・協栄ジムの歴史Ⅷ | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

日本人選手として海外で初めて世界タイトルを奪取した西城正三選手。メインの経験もなく、全くの無名から渡米後わずか9ヶ月での偉業達成、凱旋帰国した西城選手は”シンデレラ・ボーイ”と呼ばれました。

3年前、無一文でアメリカへ渡った西城選手は、ラウル・ロハス(米)から世界タイトルを奪ってからの3年間で、6度のタイトル戦とノン・タイトル戦8試合を行っています。

手にしたファイトマネーが、2億とも3億とも言われています。当時、プロ野球ジャイアンツのスーパースター・長嶋茂雄選手の年俸が4千万円。この7年分を僅か14試合で西城選手は稼いだ訳です。

引退後、手元にある財産までが掲載されていますが、まず、目黒の完成したばかりの自宅は、時価3千5百万円以上。近くの賃貸マンションが、やはり3千万円以上。このマンションから上がってくる家賃が、1ヶ月に40万円。

これだけで、2、3家族は充分に暮らして行ける金額。鹿島臨海工業地帯に所有する200坪の土地が、時価にして2千万円をはるかに超え、車も外車ポンティアックとニッサン・スカイラインを所有。それに加えて、数千万円の貯金とあります。

いかに人気者であったかがわかる数字ですね。まさにシンデレラ・ボーイ。現代では、野球選手の年俸はビックリするほど高くなり、サッカー選手ももの凄い。これに迫るのは亀田選手くらいしかいないのでは・・・。

亀田選手には、野球選手に負けないくらい稼いでほしいものです、ボクシング人気復興の為にも。

西城選手の世界タイトル挑戦時からコーチを務めたのが、スタンレー・イトウ氏です。イトウ先生を評して西城選手はこう語っています。「ボクシングだけでなく、全てをまかせられる人」

当時のボクシング界で一番気が強く、ガッツがあると言われている西城選手が全幅の信頼をおいていたのがイトウ先生でした。

イトウ先生は、なくなられたエディ・タウンゼント氏とは大の仲良しで、西城選手の最後の試合、対アントニオ・ゴメス戦では一緒にセコンドを務めました。

1971年8月号のゴング誌には、”SS時代”の到来と出ています。WBAのフェザー級王者に君臨する西城正三選手と、WBC世界フェザー級王者の柴田国明(ヨネクラ)選手の事です。

フェザー級王座を日本が独占していた時代があったこと、知らないファンの方も多いのではないでしょうか。当然のように二人の対決が待たれましたが、これは実現せずそれぞれ王座を明け渡してしまいました。

フェザー級王座を失った後、ハワイでS・フェザー級タイトルを獲得した柴田国明選手をコーチしたのはイトウ先生でした。その後、エディさんが柴田選手のコーチにつきます。

協栄ジムでは、早くから若手選手、トレーナーをハワイ、ロスに送り込み修行させていました。結果、アメリカに住み着いてしまった人もたくさんいます。

藤田 忍 選手は、約3年間ハワイにいたそうです。歴史あるイトウ先生宅の合宿所には、ファイティング原田選手、ガッツ・石松選手等の世界王者から無名選手まで、最大16名がいたことがあるそうです。

元祖”ベンケイ”のベンケイ・藤倉選手(故人)の実弟、藤倉 明 選手もアマからプロ転向しハワイでデビューしましたが、「ボクシングなんかやってる場合じゃない」(~~)と思い、いかにしてハワイに住み着くかを必死で考えたそうです。その努力の甲斐があり、今ではハワイ暮らし。いいですねぇ~。(~~)

写真は、元日本ミドル級王者・ベンケイ藤倉選手の雄姿。この当時かなりの人気がありました。現代の”浪速の弁慶”にはかないませんが(~~)

”ボクサーになってハワイへ行こう”先代金平会長が打ち出した、日本人ヘビー級選手育成計画です。デビュー前は、なんと毎月3万円の小遣いつき。全く夢のような話と、紹介されています。

デビューはハワイで、それまではハワイで練習させる。ハワイのサム・一の瀬プロモーターの了解を取り付け、北海道で35人の練習生(ヘビー級)を集め、旭川に道場も作ってしまったとか。

続く・・・。