亀田兄弟・協栄ジムの歴史Ⅴ | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

「ツージャブ」「ダッキング」「ボディストレート」先代金平会長の、シンプルな”アドバイス”。いつもこれだったような気が(~~)

世界チャンピオンを1人育てる事は、宝くじに当たるよりも難しい。こんな世界で、生涯8人の世界チャンピオンを誕生させた先代金平会長。その言葉と共に足跡を振り返る。

”本当の努力とは”「みんな努力という言葉を間単に使い過ぎるよ。ボクに言わせてもらえば、実りのある努力だけが本当の努力であって、いくら努力したといっても、それが実らないものだったら努力じゃないね」

「確かにみんな努力はしていると思う。しかし、それが本当の努力だったら、もっともっと、みんな実りあるものにしていると思う。ところが、努力しているわりに実りがないじゃないか。それは本当の意味での努力をしてないからだよ」

”ビッグ・マネジャー”先代金平会長が好んで使った言葉です。

「何も儲かっているからといってビッグ・マネジャーというわけじゃない。自分の選手の試合交渉は全部自分でやる。場合によっては自分から外国へも飛んで行く。言葉なんか問題じゃない。自分の選手のプラスになることだったら骨惜しみせず、体を運んで直接交渉する。それがビッグ・マネジャーの条件じゃないかね」

かなり流行っていた、トンカツ屋さん”とんきん”を売り払って地味な生活と別れを告げ、海老原選手、山神トレーナーと共に質屋通いをしながらの”金平ジム”の船出。

海老原、西城両選手の活躍等により、大手企業”協栄物産”の後援を受け、名称を”協栄ジム”に改名。

「人はボクの事をツイていたという。まず海老原とめぐり合ったことがラッキーだったという。しかし、ツキだけで世界チャンピオンが作れると思ったら大間違い。結果だけを見てラッキーだという前に、そのラッキーを掴むまでの努力を知って欲しい」

ビジネス面は冷たく割り切っても、義理人情の厚さは人後に落ちない。同業者を敵に回す事があっても、決して憎まれない商売上手。

海老原選手がバンコクに乗り込んで、ポーン・キングピッチとのリターンマッチの時、エラワンホテルの自室に亡き恩師、故野口進会長の遺影が飾られていた。海老原がリングに向かう前、金平会長は遺影の前に立ち、しばし合掌していた。

写真は、左から先代金平会長、福田先生・F・Iジム会長、高橋マネジャー。

「自分の選手を常にPRする。誰にも親愛な友情を持って接する。この精神を持ち続け、ビジネスはビジネスと割り切って進めば必ずいい結果が生まれる。選手に儲けさせてやろうと努力する事が、結局は自分自身を儲けさせる事になる」

「何事をやるにも背水の陣を布く、決して手は抜かない。これがボクの信念だよ」

以上は、先代金平会長が4回戦の現役ボクサーだった頃から親交がある、元内外タイムス記者・中川幹朗氏が、プロレス&ボクシング誌1971年6月号に、”世界チャンピオンの育て方教えます”と題して投稿されている記事から、一部を引用させていただきました。

「人間すわってだまっていたんではカネになりはしない。その点、カネさんはえらいよ。何でも思ったことをやる行動力を持ってるからね。あれがあの人のツキを作っているんだよ」と、国民→パルンジム中村正美会長(故人)。

この中村会長のご子息、中村 隆 氏も協栄ジムでトレーナーとして活躍しました。写真左、中村先生。右は、堤先生。

今では白井・具志堅ジムでトレーナーを務める中村先生。現会長、具志堅選手とのミット打ち。

海老原選手との出会いが、先代金平会長の運命を変えた。「かわいい弟みたいな奴だった」海老原選手と。

先代金平会長の事を、ボクシング界の田中角栄と呼ぶ具志堅用高氏。ボクシング界の小沢一郎だと先代金平会長は自称。さて、どっちでしょうか。

続く・・・。