亀田兄弟・協栄ジムのルーツⅡ | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

いよいよ今秋にも世界タイトル挑戦が決まった亀田興毅選手。ターゲットはWBC王者・ポンサクレックのようです。

亀田興毅選手がWBC王座にチャレンジなら、同門の坂田健史選手はWBA王者・R・パーラとのラバーマッチに挑むのか。

パーラVS亀田も見てみたいが、パーラVS坂田は、もう一度あってもいいんではないでしょうか。まだ進化してますよ、坂田選手も。

いずれにせよ二人が目指すのは、協栄ジム初の世界王者・海老原博幸氏が保持していた、世界フライ級タイトル。

海老原選手は、新人王東日本決勝で原田政彦(ファイテイング原田)選手に敗れて以後、31連勝(20KO)で世界タイトルを奪った。

127秒KOで世界王座を強奪した海老原選手でしたが、オプション契約によるバンコクでのポーン・キングピッチとのリターンマッチでは、判定負け。

「日本に帰りたくない」「どうしても飛行機に乗らなければいけないのなら、その飛行機が落ちてしまえばいい」

再起するに当たり、「アメリカでならば試合する。しかし、どうしても日本でやれというのなら、引退する」「このままで、おめおめと日本人の前に出ることはできない」と、金平会長に訴えます。

そして、1964年1月23日のポーン戦から僅か2ヶ月後の3月19日には本当にロスで再起戦をやっています。根性ありますね。

全くおとなしそうに見える海老原選手ですが、中学時代から喧嘩は負け知らず、短距離もマラソンもトップを譲らず、体育の成績はいつも「5」。白井義男選手が、パスカル・ペレス(亜)に敗れる試合を街頭テレビで見て、「オレが、ペレスをやっつけて世界チャンピオンになってやる」と、決心したのだとか。

続く第2戦の相手がアラクラン・トーレス(メキシコ)21才。この時までの戦績は、23勝(16KO)2敗。海老原選手対戦する直前の試合こそ判定勝利に終わっているが、それまで13連続KOを記録。

先代金平会長が尊敬していたロスのプロモーター、ジョージ・パーナサス氏が、「なんとしてもこいつを世界チャンピオンに育ててみせる!」と、言わしめていたホープで、ロスに住むメキシコ人のアイドル。

地元のトーレス有利と見られていたこの試合は、4月30日オリンピック・オーデトリアムでノンタイトル12回戦で行われ、海老原選手が大番狂わせの判定勝ちします。しかし、この判定に怒ったメキシコ人ファンは大暴れ、会場は大荒れとなりました。

この試合を前に海老原選手は相当の覚悟を持って練習を積み、スパーでは、同門のライト級上甲駿一選手の肋骨3本をへし折り、上甲選手は再起不能。以後、トレーナーへと転進する事に・・・。

この上甲選手、ライト級でパンチもあって打たれ強い選手で、12連続KOの日本記録を樹立(当時)することになる、後の東洋ウェルター級王者・ムサシ中野(笹崎)選手と2度引き分けている程です。

以来、海老原選手はトレーナーとなった上甲選手の面倒を良く見て、ミカドジム創設に当たっても、上甲トレーナーは海老原氏と行動を共にしています。

さて、強豪トーレスを下した海老原選手はようやく日本のリングに帰ってきます。しかし、「もしまた世界チャンピオンになったら、この相手とはやりたくない」と、考えるほど強かったトーレスと”世界タイトル挑戦者決定戦をやる事になる。試合は65年5月7日、再びロスと決まりました。

「いやだと思う相手とやらなくてはならないということは、精神的にもの凄いプレッシャーがかかるもの。でも決まった以上は逃げられない。

”よし!あいつがどんな練習をするかは判らない。でもオレは絶対それに負けないだけの練習をして、それでも負けるんなら、それは奴がオレより強いってことで、それはそれで仕方がないんだ”

そう思ったら気が軽くなって、前回の試合の彼を思い浮かべ、アウトボクシングしながらのカウンター戦法に精魂こめた。この試合で負ければ、もう世界のチャンスはないの覚悟でロスにのりこみました」

トーレスは第1戦以後、5連勝4連続KO中で絶好調。試合は、最初からトーレスが1発を狙い仕掛ける。

「1ラウンド終了間際、左ストレートがアゴに決まってダウンを奪った。”これなら勝てる”と自信がつき、そして7回、3度のダウンを与えて私はKO勝ちしたんです」

「”今度は大手を振って帰れる、飛行機よ絶対落ちてくれるな”私は、空の上でこう祈った」

「私の70戦ほどの戦歴の中で、生涯忘れることのできないトーレス戦の想い出です」(カッコ内は、1981年2月号・ボクシングマガジン誌掲載の海老原氏の手記から抜粋)

海老原選手が、あそこまで考えるほど強かったトーレス。このトーレスも69年、世界フライ級の王座に付いています。

この勝利で世界タイトル挑戦の権利を掴んだ海老原選手には、翌66年3月東京で世界フライ級王者・オラシオ・アカバロ(亜)へ挑戦するチャンスが与えられました。先代金平会長も、バンコクの失敗は繰り返したくなかったのでしょう。

ところが、試合1ヶ月前にして左拳骨折のアクシデント。試合は、3ヶ月延期され6月。場所も東京から一転、ブエノスアイレス開催となってしまったのでした。何でも会長不在中での、軽いスパーでのアクシデントだったとか・・・。

地球の反対側アルゼンチン・ブエノスアイレスでの試合は、7月15日に行われました。海老原選手は痛めた左拳を再び骨折。右手一本で、王者アカバロを追いかけ回したあげく、僅差の判定負け。

その後9ヶ月のブランクを余儀なくされ、再起戦は翌67年4月10日。暫く世界へのチャンスはないだろうと思っていた海老原選手に、朗報が届く。

ノンタイトルで世界王者をTKOで破り、再戦でのタイトルマッチが決まっていた田辺 清 (田辺)選手が、網膜剥離で突然の引退。ピンチヒッターとして海老原選手に声が掛かったのです。

そこで先代金平会長は、それまで田辺選手をコーチしていたエディ・タウンゼント氏に海老原選手のコーチを依頼します。2度目のブエノスアイレス遠征には、先代金平会長、山神淳夫トレーナーに加え、エディ・タウンゼントトレーナーも動向。

8月12日ブエノスアイレス、ルナパークは3万人の大観衆。掛け率は5-4でチャンピオンやや有利。挑戦者側の作戦は、前半から攻めまくって倒すしかない。悲壮な決意のもとで試合開始のゴング。

肝っ玉が据わっている海老原選手は、試合開始直後から打って出る。1ラウンドからポイントを奪う。2回も優勢。

そして6回。打ちまくるさなか左拳を骨折、またしても右手一本で戦わざるを得ない状況に・・・。

海老原選手はセコンドを落胆させまいとして、この事実を告げず戦い抜き、セコンドが異変にきずいたのは、11回を終えての事だそうです。

アルゼンチン人3人よるこの試合のスコアは、297-296、298-293、294-296のスプリット・デシジョン。1人は2ポイント海老原選手の勝ち、王者につけた2人の内、一人は僅か1ポイント差。

「私は、スポーツマンだから結果については何も言わない」試合後の海老原選手のコメントです。

海老原選手、ここで終わらず不死鳥のように甦り世界王者にカムバックするのはこの敗戦から1年半後の69年3月の事です。

続く。