米倉健志・ボクサーの運、不運とは? | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

「ボクサーの運の良し悪しは、落ち目になったチャンピオンを、倒せるか倒せないかにあると思う。その点、うちの柴田国明は運の強い男だ」

ヨネクラジム米倉健志会長の言葉です。下写真は、塚原プロモーターとイトウ先生。米倉選手の世界挑戦交渉先ロスの試合会場、オリンピック前でのスナップ。

1960年5月、前年パスカル・ペレス(亜)の持つ世界フライ級タイトル挑戦に失敗し、バンタム級に転じていた米倉健志(興伸)選手は、世界バンタム級王者ジョー・ベセラ(メキシコ)挑戦の機会に恵まれます。

戦績75戦69勝(42KO)4敗2分、左パンチが強く、前年10月には対戦相手がKO負け後死亡するという事故もあり、”殺人パンチャー”の異名を取るベセラ。。

このベセラ、ガッツ・石松選手に王座を追われた、ロドルフォ・ゴンザレスとはいとこの間柄だったとか。

後楽園球場で行われた試合は、あいにくの雨天で3日間の延期。どちらも同じ条件とはいえ、この時代の選手は大変でしたね。白井義男選手も、計量終えて食事を取り終えたら雨が降り始め、すぐさまカッパを着て練習なんて事があったようです。

この試合、米倉選手はスピーディに動き回り勝負は判定へ、「セコンドの指示通り動けたし、最終ラウンドまで疲れも感じなかった」

レフェリーがメキシコ、ジャッジは日本、アメリカで2-1の判定負け。後半は、その殺人パンチから逃れる為、足を使い動き回った米倉選手。セコンドだけでなく、リングサイドの関係者までもが後半は「逃げろ、逃げろ」

結果、大魚を逃す事になってしまいました。米倉戦後、ベセラはノンタイトルで無名選手にKO負け。あっけなくタイトル返上して、引退してしまいました。強い選手に勝った後は、良くこういうケースがありますが・・・。

写真は、イトウ先生宅で合宿中の米倉健志選手。この辺りは、昔のままではないでしょうか。

冒頭の言葉ですが、柴田選手も運が強かったと思いますが、ガッツ・石松選手も運が強い。しかし、米倉会長も運が強いと思います。

柴田選手の世界S・フェザー級タイトル挑戦、最初はWBAでサム・一の瀬氏の秘蔵っ子ビラフロア。これは、リターンマッチで取り返されましたが、敗れた直後のWBC王者アルレドンド挑戦。石松選手のゴンザレス挑戦。

これは全て、ハワイのサム・一の瀬プロモーターが絡んで、チャンスが出来ています。この人間関係も運が強いと思います。両選手共、負けて直ぐに世界挑戦決まってしまったんですから・・・。(写真はジムでの、イトウ先生と一の瀬氏・右)

僅か1ヵ月半で、2人の世界チャンピオンのマネジャーになった米倉会長。この時期、エディ・タウンゼント氏がトレーナーとしてヨネクラジムにいた事も大きかったでしょう。

イトウ先生とタウンゼント氏は、大変仲がよい親友です。ハワイでのビラフロア戦ではイトウ先生がコーチし、バトンタッチでタウンゼント氏へと受け継がれました。柴田選手も、石松選手も試合1ヶ月前から、タウンゼント氏宅へ泊り込んでいたそうです。

そして、ジムオープン時から行動を共にした”奇跡のトレーナー”松本清志(故人)先生の存在も見逃せませんね。

米倉会長、世界チャンピオンになった川島郭志選手と松本好二選手を伴い、ハワイのイトウ先生を訪ねて、カカアコ・ジムへ来てくれた事があります。イトウ先生は、また再会できるのを楽しみに待っておられます。