プロレスの話題
怒らないでね!
突然はじめます。プロレスの話題???
●●昭和の日
「上田馬之助とうなぎを喰う」
今日は昭和プロレスの思い出
1 藤波さんと初めての対戦 凱旋帰国の4月
2 「男は馬之助」
3 馬之助とうなぎを喰った話
(昭和プロレスの部屋より、トラキチマツダさん)
4月も残り少なくなってしまいました。
「4月」といえば、上田馬之助です!
なぜ?
はい。藤波さんの激闘の中でも
印象に残る試合がたくさんあります。
なかでも、4月と言えば、もう、ジュニア時代の
大先輩・上田との試合です。(強引)
上田が国際プロレスで「まだら狼」になって、その後、新日本へ参戦したころは、
藤波さんはまだ若手であって、接点はなく、この凱旋帰国したジュニアチャンピ
オン時代に、なぜか、付け狙われることになります。シングル戦では、いつも流血
させられて、攻略しにくい選手でした。
特集 上田馬之助
1 藤波さんと初めての対戦
2 「男は馬之助」
3 馬之助とうなぎを喰った話(昭和プロレスの部屋より、トラキチマツダさんより)
このYouTube全盛の時代に、やたら長くて、盛だくさんですよん。(笑)
まあ、「昭和プロレス」で食いついてきた人は大丈夫じゃが、長いぞ、今日は。。
それでは、
1 藤波さんとの初めての対戦
藤波さんが上田とはじめて対戦したのは、
凱旋帰国の1978年4月のことでした。
実は、この年、ジュニアヘビー級のチャンピオンとして凱旋した藤波さんは、
そのきれいな試合ぶりから 反則がらみの汚い攻撃には、つまりラフには弱い
という風説がありました。
写真を一枚どうぞ、
これが、はじめての上田との試合後の藤波さんのです。大流血!
(★10月のチャボゲレロが初流血ではないですよ(3月にカネックとの流血戦もあったでしょ)しつこくてごめん)
藤波さんが日本プロレスに入門した1970年には、上田選手は中堅クラス、
馬場猪木大木吉村の4天王に続くクラスで、それこそ絡むことはありませんでした。
上田が国際プロレスで「まだら狼」になって、その後、新日本へ参戦したころは、藤波さんは
まだ若手であって、接点はなく、上田はタイガージェット・シンと組んで、ストロング小林の腕を折るなど
悪の限りを尽くしていました。
藤波さんは、この凱旋帰国したジュニアチャンピオン時代に、なぜか、付け狙われることになります。
シングル戦では、いつも流血させられて、攻略しにくい選手でした。
藤波さんとの、最初の出来事は、あのカネックの時、
凱旋帰国の1978年の「ビッグファイトシリーズ」の最終戦、3月30日。
国内初の選手権を控えて、おおいにもりあげてきた最終戦で、対戦相手の
カネックが、突然の敵前逃亡。詳しくは、別の項目「カネック敵前逃亡」を参照
このときに、騒然とした場内に、颯爽とリングに乱入して、藤波を挑発、
さらには急遽決まった強豪・イワンコロフにも攻撃をしかけ
(結果として藤波を援護?)短時間で勝負した藤波さんが
飛龍原爆固めを披露させるという、見事な試合だったのです。
とにかく、当時、上田は、藤波を理不尽に狙う嫌な奴だったんです!
そして、ついに、初のシングルが、次のシリーズの緒戦に組まれたのでした。
試合ファイルより
●藤波vs上田馬之助
「血の海で反則勝ち」
▼第1回マジソンスクエアガーデン・シリーズ予選トーナメント30分1本勝負
1978年(昭和53年)4月21日 東京・蔵前国技館
○藤波(4分2秒・反則勝ち)上田×
▼試合経過▼
試合開始前から、藤波に花束を投げつける上田。殺気だってラフファイト一本槍。
藤波は空中殺法を出す間もなく、大流血させられる。
血だるまの藤波を逆に担ぎ上げ、ロープに吊す反則。足を場外から引っ張って、
コーナーポストを利用しての股裂き攻撃。レフェリーはここで反則負けを宣した。
▼試合について▼
第1回のMSGシリーズ予選トーナメント第1試合がこの藤波vs上田。
テクニックと空中殺法の藤波か、インサイドワークの上田か、と注目されたが、
上田の狂乱ファイトで、藤波が大流血となった。
ラフに弱いといわれていた藤波だが、大流血にもめげず、果敢に上田を攻めて
互角の闘いであった。
このあと、メインでは、猪木が坂口と予選トーナメントで闘い、延長に次ぐ延長で、
最後は、猪木が、なんとかリングアウト勝ちをした。
このセミと、メインの取り合わせで、この日の蔵前は熱狂的なファンの喝采を受けた。
藤波の話「先輩であっても、先輩とは思いませんよ。ガーンと一発喰らわしてやる」
おまけですが、この4月のシリーズから、正式に「ドラゴン・スープレックスのテーマ」が
入場曲になりました。
有名なジャケット オリジナル作曲・演奏JOE
なお、このシリーズ(MSGシリーズ)では、5月26日高松でのシングル対決では、見事「エビ固め」という
昭和の技でまるめこんでフォール勝ちしています。
藤波さんと上田馬之助のシングル対戦は、全19戦で、藤波の14勝1敗4引き分けです。
もちろんフォール勝ち(エビ固め・逆さ押さえ込み)もありますが、
ほとんど反則勝ちですね。
2 男は馬之助
表紙はかわいい(^^;)が、中身が凄い!
もくじ
馬之助、相撲とりにあこがれる
馬之助、力道山にしごかれる
馬之助、いよいよデビューする
馬之助、まだら狼に変身する
馬之助の、アメリカ・プロレス事情
馬之助、猪木と馬場を目のカタキにする
馬之助、敵と味方を大いに語る
付録 対談 タイガージェットシン
上田自身が語る、相撲時代、プロレス入り、いわゆる自伝部分。
そして、当時の全日・新日の選手のめった斬り!
口絵写真には。闘いの写真はもちろん、あの「上田馬之助」の家族の写真や
「てんぐ」としてアメリカで闘っている写真。
「全盛期のブラッシーにサインをもらったときは嬉しかったよ」と語る馬之助。
日本プロレス時代から生きている上田ならではの、思い出話が、そのまま、日本
のプロレス史になってる。
それに、最後はタイガージェットシンとの対談。
「ハンセンは能なし。ブッチャーは黒い豚」と言いたい放題!
こんな面白い本がでていたんですねえ。
いまも、プロレスショップにあるかもしれません。
それと、この本の「こしまき」に
あった、このレコード!
コント赤信号(渡辺・小宮・石井)の歌う「男は馬之助」
なぎら健壱っていうから、そんじょそこらにある曲じゃあないですね。
いっぺん聴いてみたいですう!
と思ってたら、便利な世の中になりました。はいリンクします。
聴きたい人は、どうぞ!
負けるな、負けるな、うま~のすけっ♪
はい!。3本目は、なつかしいエピソードです。
うなぎといえば、うなぎさやかっていうかわいい女子選手もいますし、
うなぎを食べてると大臣の更迭を要求される(笑)世の中ですが、
そうではなくて、はい(笑)
※リンクは、うなぎ大臣を追求??する立憲女ではなく、かわいい方ね(笑)
3 馬之助とうなぎを喰った話
(昭和プロレスの部屋、トラキチマツダさんより)
私、RSDは、昔「闘魂プロレス村」というファンのホームページをやってました。
そこの「昭和プロレス喫茶室・ボストンクラブ」というコーナーにあった
上田馬之助選手のエピソードです。
当時、「夕刊プロレス」というメルマガにも載ったエピソードを転載させてもらった
のだとおもいますけど、夕刊プロレス掲載の前にメールでいただいていたようにも(?)
不確かです。。
上田選手のお人柄もしのばれるお話ですので、再掲載させていただきます。
どうぞ、およみくださいね。
トラキチ・マツダ
「上田選手と鰻を食った話」
1998年5月27日、後楽園ホールでバトラーツの興業を観戦した。バトラーツは
元U系団体の「プロフェッショナルレスリング藤原組」が組織を維持できなく
なって、放っぽり出された若手たちの団体。「Uの遺伝子」は継承されているので
あろうが、ロープワークあり(アレキサンダー・大塚対カール・グレコ)、凶器と
流血あり(松永光弘=大日本対臼田勝美)と、まさしく何でもありの平成プロレス。
「UWF」と流血戦。それを何のためらいもなく受け入れる観客。昭和時代には考えら
れないおおらかさだが、それを見ているうちに10年前のことを思い出した。
友人宅で上田馬之助といっしょに鰻を食べたのは1988年5月のことであった。
ちょうど第二次UWFが、前田日明、高田信彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸成夫、
中野龍雄の6人で旗揚げ(後楽園ホール)チケットが15分で売り切れ(チケッ
トピア)という快挙が巷の話題になった頃。ちなみに全日では、三冠統一に向けて
鶴田・ブロディ、天龍・ハンセンの抗争が華々しく行われ、新日においては猪木・
藤波の60分フルタイム・ドローの3か月前、といった時期である。
夏を思わせる水曜日、高校時代からの友人(27歳、当時)から電話がかかって
きた。
友人:おおい、マツダか。今日暇か。家に来ないか。
本田さん(注:1)が、上田馬之助をつれて家にくるんだ。
私:夕方までなら大丈夫。行くよ。
友人:ところで馬さんにご祝儀幾ら包めばいいと思う?彼の格は相撲でいえば大関
クラス。横綱を座敷に呼べば100万といわれている。大関なら80万か。
でも今家には金がない、というわけで、
10万位でどうかな。
私:まあ、妥当なところじゃないの(注2)
友人:昼、何を出したらいいと思う?
私:鰻だろう。
友人:馬さんは何人前たべるかな。
私:3人前というところであろう。
なぜ3人前なのかわからないが、私は埼玉県某所の友人宅に急行したのであった。
友人:馬さんが来たら何の話をしようか。
私:彼の名勝負だろうな。
友人:というと、78年の猪木とのネイルデスマッチ(注:3)。
私:猪木の腕折りにセコンドのタイガー・ジェット・シンがタオルを投入した試合。
友人:81年のシン、上田組対馬場、サンマルチノのタッグ戦(注:4)。
私:サンマルチノがシンにベア・ハッグ。カットに入ろうとした上田を馬場がコブ
ラ。あれは名場面だった。
友人:82年の馬場対上田のシングル(注5)
私:馬場のアームブリーカーで上田が脱臼。馬場がシューター(注:6)ぶりを見せ
た、戦慄の試合。
友人:全部馬さんが負けた試合ヤンケ。そんなこといったら何が起こるかわからんぞ。
私:なら、試合でなく、彼のかっこよかった場面の話をしよう。
友人:馬さん、「男は馬の助」という本出したよな。あの本に、若手時代の思い出と
して葉巻をくわえたブラッシー(注:7)に、サインをもらっている場面の
写真があった。あの場面かっこよかったよな。
私:かっこいいのは、馬さんじゃなくてブラッシーだよ。馬さんが登場する名場面
って、いつも彼は脇役なんだよね。
友人:それって、馬さんの本質かもしれないな。
私:ブラッシーの話を出して、そこから彼のプロレス論に迫るなんてのはどう?
友人:それしかないか。
そうこうしているうちに、上田馬之助がマネージャーの本田さんにつれられやっ
てきた。鰻を食べながらの雑談。意外なことに、彼は一人前しか食べなかった。私、
友人の2人ともプロレスラーが大食いするのは若手時代であるということを忘れて
いた(注:8)のだ。その結果、2人前の鰻重をお土産に手にいれた私であった。
上田はおとなしかった。敏感な友人は彼の指先が小刻みに震えるのを見逃さなか
った。ようするに、気の小さい人見知りするタイプの男なのだ。ブラッシーの話を
しても「素人がおれたちの世界について、わかったようなことをいうな。」という
ような顔をし、とりあわなかった。これは彼だけでなく、他のレスラーもそうなの
である。素人がプロの世界のことに触れるべきではないということなのだろう。
話は数日前に再旗揚げ(注:9)した、UWFに。口火を切ったのは意外なこと
に本田氏であった。
本田:あの新しい団体、前田の所(注10)なんていったかな。そうUWF。
すごい人気みたいだね。
私:ええ、切符が15分で売り切れた(注:11)そうで。
本田:俺もどんなものかと思って、関係者に手を回して切符の入手頼んだんだけど、
だめだったよ。何であんなに人気あるんだい。
私:両者リングアウトの不完全決着や、反則がない(注:12)ところが受けてい
るんじゃないですか。
そこに上田が割って入る。
上田:あなたがた、プロレスはなぜ面白いか、知ってますか。
私、友人:?!
上田:それはね、プロレスには反則があるからですよ。反則があるからプロレスは
面白いんです。反則で贔屓のレスラーがやられてお客さんはイライラする。
贔屓のレスラーが反撃すれば、お客さんも喜ぶ。そこを求めているんです。
さっき、あんたが話していたブラッシーはそこらへんがうまかった。
私、友人:.....
そこまで話すと上田はまた元のように寡黙になった。
注:1 故人。日本探偵界のゴッチといわれ、同業者連盟の財団法人化に力をつくし
た。その妥協なき仕事ぶりには警察の評価も高く、前科十数犯という称号を贈ったほどである。
吉村道明の義兄弟であるが、その意味するところは単に奥様同士
が姉妹なのか、盃を交わしたのかは定かでない。上田馬之助の公私ともどものマネージャーで、
彼なくしてはテレビ番組「風雲たけし城」出演はなかったとされている。
上田が韓国遠征の際、当時の朴大統領から贈られた朝鮮人参をいまだ所持して
いるのが自慢であった。
注:2 今思い出してみると、なぜ妥当なのか、よくわからない。
注:3 1978年2月8日、日本武道館。他のカードは坂口対ビリー・グラハム(WWWFヘビー)。
リングサイドいっぱいに、五寸釘を打った板を敷き詰め、リング外に落ちたら「ハイ!ソレマデヨ!」
という形式の試合。双方ともリングからは落ちなかった。後に松永光弘が踏襲。結果の方は、猪木のアームブリーカーに
上田が脱臼(したようにみえた)。そして、セコンドのシンがタオルを投入すると
いう、新日らしい幕切れ。
注:4 1981年10月9日、蔵前国技館。他のカードは鶴田対フレアー(N
WA世界ヘビー)。
注:5 1983年3月3日、後楽園ホール。他のカードは鶴田対シン。
注:6 馬場の全体重をかけたアームブリーカー13連発。それまでの全日には
なかったタイプの試合。馬場の攻撃がある限度を越えた段階で本田氏は血相を変え
てリングサイドから控え室にシンの乱入を要請するために走る。馬場は試合後上田
の根性を褒めた。BI双方をフォールした日本人が天龍なら、
BI双方に脱臼させられた日本人は上田だ。
注:7 噛み付き専門のフレッド・ブラッシー。
注:8 上田は若手時代、おひつ2杯分のご飯を、1杯目はお新香をおかずに、
2杯目はお茶をかけて食べたという記録がある。
注:9 84年から85年までのUWFを「第一次UWF」、88年からを「第二次UWF」ということがある。
注:10 お年を召したプロレス関係者は団体の名前を覚える習慣がない人が多い。たとえば大日本は「小鹿」のところ。今、新日、全日は「誰」の所なんだろう。
注:11 朝10時売出しのチケットピア電話予約で、10時15分にはすでに
売り切れていたところから第二次UWF満員伝説が始まった。
注:12 86年から88年上四半期にかけて新日のリングにあがっていた第一次UWF残党。その闘いぶりから、第二次UWF旗揚げの段階で同団体は両リン、反則なしであるとの推測は容易であった。
彼らを「観客無視のええかっこしい」(矛盾表現)とプロレス雑誌を通じて批判
していたのが、当の上田。
彼は86年秋、ケンドー・ナガサキとの「究極の日プロタッグ」で、新日のリング上でしばしばUWF軍団と対戦していた。
当時の私からのつたないコメントです。
●トラキチ・マツダさんへの手紙
はじめまして。RSDともうします。
大変面白く、興味深く拝読いたしました。
私自身は、プロレスには関係者もなく、ファンクラブに入るでもなく、
単なるファンでして、レスラーには憧れを持っています。
「無我」でボランティアというのを1度だけ経験しましたが
藤波が近くで見るととても大きいのに驚きました。
きっと上田選手も、素人と並ぶと、大きな身体でしたでしょう。
レスリングという「仕事」をするという上田選手の個性が、
あらためて浮かんでくるとともに、「プロ」の仕事とは、
お客さんを楽しませてナンボの世界であるという上田選手の考え
がよくわかりました。
あと、鰻が1人前というのも驚きです。
上田選手は、「大変気が小さい人で」 なんていう話を誰かから
聞きました。それだけ慎重な面もあるのでしょう。
10年くらい前に、佐渡へ行くフェリーの中で
上田選手とそのマネージャ(本田氏?)を見かけましたが、
どう話しかけたらいいのかと逡巡している間に下船の時間に
なってしまいました。ま、近づけなかったというのが本音で
あるかもしれません。
昭和プロレスファンが肩身を小さくしている今のプロレスは、どうも付いていけませんが、
ほそぼそと「プロレスのホームページ」をつくって楽しんでいます。
でわ。RSD 1999/4/10 (2023/4/26 ハンドルネームのみ一部改変)
なつかしいなああ。
1999年かあ、、、、(遠い目)、、
きょうぐらいは、昭和に戻っても、
いいよねえ。
ん? 気づいたら、4月のアップは、これひとつだわ。
(知ってたけどさ)
たまには、
昭和おじさんも、たのしい
2023.4.29 RSD