傲慢な牧者の特徴 | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。


  傲慢な牧者の特徴
 
私の経験から傲慢な牧者の特徴について
分析とまではいかないが少し考えたことを述べておきたい。
洗礼を受けているいないにかかわらず、
教会に行っているいないにかかわらず、
教会であるかネットやブログであるかにかかわらず、
一般信徒および求道者に警戒し注意して欲しいと思う。
 
(1)
一見柔和な態度を装っている。
従って賛同や共感に対して優しいレスを返す。
しかし基本的に信徒や求道者に対しては教える立場の「上から目線」である。
 
(2)
牧者が頑迷さをあらわにするのは
信仰者または求道者が率直に疑問を問い続けるときである。
 
(3)
まず(2)の場合の特徴として
レスの代わりに聖書の御言葉を並べるだけのことがある。
こういうとき牧者は「私」であるが「人間」ではない。
「人間」ならば人間としての自分の言葉で答えるはずである。
御言葉を並べるのは聖書の無謬性と絶対性にかこつけて
「私」の聖書解釈を間違いのない絶対として確信し、
御言葉を私物として自己防衛に利用している。
「人間」として考えることが出来なくなっているからである。
 
聖句の中に「黙れ、静まれ」というキリストの言葉がある。
私は2度この言葉でレスされたことがある。
牧者に幾ばくかの敬意を抱いていた頃の1度目は、
「書いちゃいけないんだ」と萎縮してコメントを控えた。
それでは話が進まないという反省の上に立って
2度目はコメントを続けたのだが・・・
 
(4)
さらに(2)の場合、
人によっては言葉の勢いによって威圧する牧者もいるだろう。
 
(5)
最悪なのは、率直な疑問や真面目な意見が
牧者の意に沿わず都合が悪くなったときに
コメントを承認制にして封殺するか、削除することである。
 
私はコメントを続けている途中で突然コメント承認制になって封殺された。
そのときの牧者の最後のコメントは
「コメントは終わりにします。お元気で」
この軽さは、いかに相手を軽視しているかを示すとともに、
人のコメントを無視することに
何の罪悪感も重大性も感じていないことを示している。
過激な書き方をしていたが、私としては真剣に書いたコメントだったので
大きなショックを受け、怒りと悲しみを覚えて、
さらにコメントを書いたが承認されず無視されたままである。
 
コメントの削除および承認制は管理者の権限であるが、
個人が個人のことを日記的に書くブログと違って、
福音伝道を目的とした信仰について語るブログである。
管理者である牧者には、
その行い、姿勢、態度について牧者としての責任が問われるはずである。
 
(6)
傲慢な牧者は独り善がりの自己満足に浸る。
異教との交流を試みても全く噛みあっておらず、
知識の遣り取りに過ぎないにもかかわらず、
信仰の交流や共通点を見出すことなど出来ないにもかかわらず、
異教とも有意義な交流が出来たつもりになっている。
 
(7)
好ましい話を積極的に語るが、
悲劇や自殺について、信仰にとって重大な問題であるはずなのに、
「お見舞い」や「お悔やみ」のメッセージは貼り付けても、
信仰の問題として深く考える態度を持たず、積極的に述べることをしない。
代わりに「死人が生き返った話」「聖霊体験」「異言」などの
真偽を確かめようもないことについて進んで記事にする。
あるいは「キリスト教に入信または改宗した話」など・・・
つまり専ら、おいしい話をするのが使命だと思っている。
 
(8)
前述の私の封殺体験後、私は一連の批判記事を書いてきた。
その間、和解の申し出は牧者のほうがしようと思えば出来たはずだが、
それはなかった。問題もトラブルも最初から無かったことにしたいらしい。
 
(9)
言論を封殺された私のほうから和解できない理由は
はっきりしているつもりである。
牧者の他の記事にコメントで同じように問い続ければ
同じように封殺されるのは明らかである。
コメントを封殺されないようにする和解となると
結局イエスマン・コメントしか書けなくなる。
これは人が人に隷属することになる。
信仰者が隷属するのは神に対してのみであって、
決して人に隷属してはならないという理由による。
 
 
他にもありそうだが、今のところ信仰者や求道者においては、
(1)~(9)の傾向があるかどうかに注意しておく必要がある。
少しでも疑問を感じたら率直に怯まずに問い続けて欲しいと思う。
そして特に(3)、(4)、(5)のような場合は、
牧者が馬脚をあらわしたと判断したほうがよい。
そして一刻も早くその牧者から離れることをお勧めしたい。
 
牧者は聖書の知識について詳しいが、
信徒や求道者との人間としての格差はない。
聖職者と言われる牧者は決して聖ではない。
ただの人間である。
上に述べたような傲慢な牧者には牧者たる資格はない。
 
私の批判の発端となったブログのコメントを載せたいと思い、
管理者である牧者に未承認コメントで了承をお願いしておいたが、
まだ返事はない。恐らく「不可」という返事か、無視だろう。
批判であっても真っ直ぐな本気の話し合いをしたいのだが、
正面を向いて話をする気のない隠蔽体質を
人格と信仰のうちに持っている人に
それを期待するのが無理というものだろう。
 
ここでは私の経験から牧者について述べたが、
実際には、教会か信仰か性格か理由は様々であろうが、
キリスト者である信徒にも
同じような傲慢は起こりうることを付記しておきたい。
 

(2011年06月21日)
8年前の記事ですが、これもシャロームのことです。
シャロームは、私のコメントを削除し、結局、すべてのコメント欄を閉鎖したことは最近の記事にも書いています。しかも、そのあとも、うわべだけの讃美言葉を書き続けてきたのです。
(2019年03月27日、加筆)