奇兵隊軍監福田侠平之遺髪墓/山口県山口市大内氷上 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

2月26日散策/ 奇兵隊軍監福田侠平之遺髪墓


この間、山口市上宇野令にある標高338mの鴻ノ峰という山に登ったんだけど、標高338mっていう数字は高いのか低いのかわかんないけど、翌日から凄い筋肉痛で、

山登りから5日経って、ス-パ-の何にも無い普通の入り口で、思いっきり転んで両膝擦りむいて血だらけ

フツ-に歩いてて、だよブッブッブッ

タイツは両膝破れるわ、血だらけになるわ、痛いわ泣きたいわ…

流石、山口県百名山のひとつ

山口の市街地を一望しながら、ヨ~ロレイヒ~♪なんて歌ってる場合じゃなかったね汗

なにが手軽なハイキングコース
ヾ(▼皿▼メ)┌┛Σ(ノ `Д´)ノゲシッ

転んだ時に膝を捻ったらしく…打ち身、捻挫、擦り傷
人生最大の怪我をしちゃったわ

考えてみたら、あれ?これが人生最大の怪我ならば、わたしって今まであんまり怪我ってしていないみたい´艸`

転んだ翌日は日曜日
包帯と湿布をしながら自転車で日曜恒例のお散歩をしてきたよ~自転車ダッシュ

今回は大内へGOダッシュダッシュダッシュ

元気だなぁ~



大内よいとこ
一度はおいで
ほたるとびます
出合川

大内名物
御堀のういろう
おたべなされよ
旅の人

大内氏寺
氷上にくれば
花がさきます
妙見社

矢田にあります
桜木様は
四月桜の
花見ざけ

清すけ角左で
名高い長野
長野名物
松たけよ

千坊千坊は
おかしな名前
むかしお寺の
あった里

問出田町は
増田の城下
むかしや文化の
花がさく

小野で名高い
子安の地蔵
八月げじゅんの
盆おどり

すげ内名産
農民美術
木ぼり人形の
夫婦びな



この詩は昭和10年に作られたんだそうだけど、山に囲まれ自然豊かな大内平野の様子が描かれているねキラキラ

東から西に仁保川と問田川が流れていて、その二つの川は、出合で椹野川と合流して山口湾へと流れていくの

山口市大内の地は大内氏ととても深い関係があって、

推古天皇の頃(611年)、百済の国からやってきた船が多々良の浜辺に着いたんだけど、一人の男が聖徳太子にお願いして

えっΣ(・ω・ノ)ノ聖徳太子???
…ホントかよ(ボソッ

日本での長期滞在の許可をいただいたんだけど、その時、大内の土地を授かって名も「大内」と名乗るようになったの

それが大内氏の祖先の琳聖太子だったわけね

……とも伝わっていてがびょーん(え



大内に留まった太子は、まず、大内氷上に興隆寺を建てたの
その興隆寺ってのは、後に妙見社が出来てますます栄えてね
大内文化のもととなったんだけど、

このお堂は山根観音堂と云われていて、その興隆寺の一坊にあった観音堂を明治17年(1884)にここへ移築されたものなんだ~♪

建物の建築年代の詳細はわからないんだけど、建築様式から18世紀前半頃のものじゃないかと云われているわ

観音堂の中には県指定文化財の聖観音菩薩立像があるんだけど



何度か訪れてはいるんだけど、今回もやっぱり見れなかったよ~(*ノ∀`)ペチッ



山根観音堂の裏山にはおっきなクスノキがあるんだけど、その木に仏像が彫ってあってね



その仏像は江戸時代の終わりごろ、旅をしながらいろいろな所に仏像を作っていた木喰上人が彫ったものだと伝わっているの

クスノキが毎年毎年どんどん大きくなるものだから、仏像を包み込んでしまったのね´艸`



その観音堂から西北へ進むと、 山口出身の維新の志士で、高杉晋作に最も信頼されたという奇兵隊軍監・福田侠平の旧宅跡があるの

福田さんは後河原の十川権右衛門(萩藩士・無給通)の次男として生まれ、長門・油谷(楊貴妃伝説があるね)の藩士・福田貞八の養子となって、後にそこの長女キヨさんを娶っているわ

生家である十川家は小笠原の末裔と伝えられているそうで、姓は源Σ(・ω・ノ)ノわぉ

油谷の旧宅跡の方には、昭和43年(1968)に「贈正四位福田侠平旧宅地」の石碑が建立されてたらしいわ



この氷上は晩年住居とした地で、戊辰戦争に出征する前、一時氷上に帰っていた福田さんを、防府に赴く途中の野村望東尼が訪ねているらしく、

望東尼は「防州日記」に慶応3年9月26日の条に「ひかみの郷に、福田ぬしがすまるるをとひなんてゆく間に」と題し

■松のみと見えしひかみの山くまに あらはれいでて照る紅葉かな

と、記されている

因みに、ここ大内氷上は萩往還に接していて、山口と三田尻の中間だから、幕末維新の志士たちの情報の収集と伝達には好都合な場所だよね

旧宅跡からほど近い山根観音堂の裏山の共同墓地には、



福田さんの遺髪墓があるの

お墓は本人の希望で東行庵の高杉晋作の横にもあるけれど、ここには同志によって遺髪が埋められているのね

この遺髪墓は、長く不明とされていたんだけど平成9年に発見されたんだって


福田さんは、文久3年(1863年)35歳のときに奇兵隊に志願して入隊されて、

元治元年(1864年)には書記役として英仏蘭米四ヵ国連合艦隊との戦闘(下関戦争)に従軍、同年参謀へと昇格し、翌慶応元年(1865年)には山縣有朋とともに軍監を兼務されていて、総督・高杉晋作の片腕として活躍されている

明治元年(1868年)11月14日、戊辰戦争に勝利して凱旋、下関に滞在していたところ阿弥陀寺町の廻船業者綱平邸で突然卒倒して死亡

享年40歳

不利な状況であっても、お酒を飲みながら「騒ぐな、あせるな」と悠然と指揮したというエピソードは有名だよね



最期を看取ったのは、野村靖

死んだと知らされた山縣有朋は

面かげを袖にとどめてなみだのみ かかるこの身ぞ頼みなすくなき

と詠み、悲嘆に暮れたと云う

墓碑の正面には「福田侠平公明墓」と刻まれていて、左側には「明治元年十一月十四日病歿于馬関享年四十葬於厚狭郡吉田驛」右側には「清水山更埋遺髪於此奉祀為平生之履歴詳于彼墓表」と刻まれていたよ



山根観音堂からちょっと移動して自転車バフッ!小

今は仏殿と妙見社だけが残っているんだけど、むかしはこの氷上に、興隆寺というとてもりっぱな大内氏の氏寺があったの

興隆寺は大内氏の祖先といわれている琳聖太子が建てたと伝えられていて、お寺にはお坊さんが500人くらい居て、山全体のお寺も100くらいあったんだって

その後827年?に琳聖太子の孫にあたる大内茂村が、興隆寺境内に妙見社を建ててますます有名になったらしいわ
その頃の妙見社は、普通の人はお参り出来ないくらい立派キラキラだったんだとか

大内文化を支えてきたお寺として盛んだった興隆寺も大内氏の力が弱くなっていくと衰えてくるのね…



明治になると大内時代の建物は殆ど無くなり、お寺にあった大切な品物や記録はたびたびの火事で殆どが焼けてしまうし、明治2年(1869)の神仏分離令、廃仏毀釈運動
により、本堂が大殿の龍福寺へ移築されるなどして規模は縮小



その後、残ったのが妙見社と釈迦堂だけになってしまったのね

梵鐘も残っているよ~(*'∀`*)vおんぷ
享禄5年(1532)31代大内義隆さんが寄進したものなんだ~キラキラ
形見って感じだよね

あ、そうだチッチ!
幕末の文久3年(1864)8月の京都の政変で、参朝を停止された攘夷派の公卿たちのうち三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の7人が長州へ下向するんだけど(七卿落)、はじめは三田尻御茶屋内の招賢閣に滞在していたんだけど、沢さんが生野へと脱走しちゃったから、関所で厳重に出入りを取り締まっている山口へ移ることになったの

この時、三条さんは湯田の草刈屋敷(屋敷はのちに攘夷派により放火され焼失したため、井上馨の実家へ移っている)に滞在したんだけど、他の五卿はここ(氷上山真光院)に住まいを替えてるの

そんな歴史ある妙見社の仏殿に、福田さんの位牌が祀られているのよキラキラ



平成11年に、有志の方々より東行庵から分霊された位牌「至誠院清山公明居士」



「長崎旅舎憶悠々居士」
 蕭々微雨叩物扉
 客枕不眠空憶帰
 灑脱風流君独在
 夢魂夜々向東飛

慶応2年4月長崎に出張した高杉晋作が、ある小雨が降る夜、宿舎で眠れぬまま福田さんを憶って詠んだ「福田侠平に思いを寄せる」と題した漢詩



「次悠々道人韻」
 詩酒悠々宣送日
 男児成事豈無時
 縦令市井呼侠客
 一片素心未敢差

桂と共に海軍興隆掛となり馬関の開港を目指している時に奇兵隊軍監だった福田さん(悠々道人)の詩に続いて高杉晋作が詠んだもの

 脱出風塵際
 酒瓶只自親
 酔来枕肱睡
 不識夢何人

これは、高杉晋作がグラスでお酒を飲む自身の姿を描いた絵に、漢詩を書き添えて福田さんに与えたもの

また、福田さんは高杉晋作の形見として、黒羅紗・沢潟御紋竜紋胴着・鹿革手袋・金五百疋を遺族から贈られている


息子の伊八も奇兵隊士として参戦、維新後は明治34年~42年まで群馬県勢多郡長、続いて45年まで甘楽郡長などを務めている


ぺこぺこり


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