2月19日散策/~兵どもが夢の跡~高嶺城跡
糸米にある木戸孝允旧宅跡~木戸神社から、さらに奥へ進んでいくと木戸公園があるの
ハイキングやバ-ベキュ-なんかも楽しめて、憩いのスポットって感じ
東屋などの休憩所やトイレやベンチなど、あちこちにあるからウォーキングとかにも最高かも
あんま、人、居ないけどね
まむし( ̄□ ̄;)!!出るんかぃ
この先を行くと標高338mの鴻ノ峰山頂へと繋がるんだけど
どうする?行ってみようか
そういえば、山口大神宮からのル-トもあったよね?
看板を見るたびに気になって、わたしが行こう行こう言っても、オッパはわたしじゃ無理だからって、なかなか行かせてもらえなかったのよねぇ
オッパは前に、山口大神宮からのル-トで道なき道を登って行ったことがあるらしいの
木戸神社からのル-トの方が登山道が整備されているから、もしかしたら私でも行けるかも行こう♪行こう
山口市には大内氏城館跡といって、ここの他に大内氏館、築山館、凌雲寺跡があって、国指定の史跡になっているみたいなの
その中でも、この高嶺城は別名「鴻の峰城」「鴻之峯城」とも云われていて
お城???Σ(・ω・ノ)ノ
お城があるの???
わぁいわぁい
と、思ってたら、 砦というか矢倉というか…の、周囲に築いた土や石の囲いがあるだけで何も無い、とのこと
なんだ、何もないのか
急に行く気力が失せちゃったぉ
山の入り口には……なんだこれ
ソファー(?_?;
道中、オッパから高嶺城について教えてもらってたんだけど、
高嶺城っていうのは、大内氏最後の当主でもある大内義長が毛利氏の侵攻に備えて、弘治3年(1557)に築いたんですって
義長はもともと豊後守護大友義鑑の次男で、大内義隆が陶晴賢に追い詰められ亡くなった後に仮の主君として山口に迎えられたらしいわ
ああ、じゃあ実権は陶さんが握っていたのかな
ところがその年、毛利元就が陶晴賢を討ってしまったから、後ろ盾を失った義長は形勢が不利となってしまったのね
元就の大軍に攻められると、義長は籠城することなく重臣の内藤隆世の長門且山城へ逃げたんだけど、すぐに毛利軍の福原貞俊に且山城を包囲されちゃって、重臣の内藤さんは義長の助命を条件に開城して自刃
義長は、さらに長府の長福院(現在の功山寺)へ入るんだけど、毛利軍に囲まれ自刃を強要されてしまうんだよね…
■誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ/大内義長
また、陶さん亡き後を支えた陶氏の忠臣で野上房忠も、陶長房の嫡子?(異説有、長房の嫡男だといわれているけど、年齢的に晴賢の子で長房の末弟とする説がある) 鶴寿丸を殺害の後に自害したんだそうよ
■生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり/野上房忠
ああ、そうなんだ…
そんな歴史があるのか…
ゼェゼェちょっと休憩
すご~いヾ(o´∀`o)ノ高~い
姫山も問田川も見えるわ
まだまだ半分も登っていないらしい…
帰ろかな、イヤんなっちゃったなぁ、疲れたなぁと思ってたんだけど、
杖をついたおじいちゃんが、ひとりでウォーキング
景色でも撮りにきたのか自転車のおじさんもやってきて
結構な上り坂なはずなのに、みな、涼しい顔してんの
はい、はい、登りますよ
わたし、毎度のことだけど、ミニスカ&ム-トンブ-ツで全く山登りの恰好じゃないけどさ
おじいちゃんでも登れるんだから、こんな山、平気のへっちゃら、への字のヘッヘッよ(結構ガタガタ
そのあと、ここの高嶺城は毛利氏の城となって、城の改修を行ったあと市川経好を城番として置いたの
義長の死によって、西国の名門大内氏は滅亡してしまったんだけど、
永禄12年(1569)になると、大友氏の援護を受けた大内義隆の従弟の大内輝弘が大内氏再興を試みて山口に攻め入ってるんだよね
大友氏っていうのは、ああキリシタン大名ねっ
その時、高嶺城を守る市川経好が九州へ出陣中で留守だったため、その夫人が鎧を身にまとい、少ない城兵を指揮して高嶺城に籠城して守り固め、大内軍を寄せ付けなかったんだって
この戦いでね、山口にある大内縁故の寺院がいっ~ぱい焼けちゃっててね
もちろん宝物も一緒に焼失しちゃったんだよね…
あ、サビエル教会が見えるわ
高嶺城を落とすことができなかった大内軍は退却するんだけど(豊後へ?)
海路で脱出をはかろうと三田尻に入るんだけど船がなく…
え?船、用意されてなかったの?
あれ?みな、逃げちゃったわけ???
浮野峠を越えて富海に入る時には従う兵は100人に過ぎなかったとか
毛利軍は1万の兵よこりゃ…あかん
その後輝弘は、追い詰められて富海の茶臼山で自害してしまうんだよね
輝弘らの首は、毛利元就が本陣としていた長府で首実検が行われ、その後長府の海岸に埋められたんだそうよ
この瓦片、当時のものらしいの
この辺りは本丸跡みたいだけど、当時から本格的なお城造りを目指していたんだろうか
頂上部の石垣
弘治3年(1557)に大内義長が毛利氏に備えて急拠築城することとなったものの、毛利氏の侵攻が早く、完成を見ることがなかったんだよね…
井戸もあったよ
水も豊富に確保出来てたのね
ここへ来る間にあちこちに廓があったし、城の規模的にはかなり大きかったんだと思うんだけど、大きければそれなりの人数が居たんだろうから、お水もいっぱい使われたんだろうね
頂上は石碑と説明板があるだけで、な~~~んにも無いの
オッパが、ふと
夏草や兵どもが夢の跡
って、呟いていたよ
松尾芭蕉か
大友宗麟(大友義鎮)の援護で大内再興を試みたけれど、義長も輝弘も夢が敗れてしまって、
その後、毛利氏の城となっていたんだけど、
時が流れて慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで毛利氏は周防、長門の2ヶ国に減封されてしまって、毛利輝元は新たな根拠地の候補地として、萩の指月山や防府の桑山とともにこの高嶺城も幕府に提出したんだけど、
幕府からは許されず、
元和元年(1615)徳川幕府の一国一城令で、毛利氏は萩指月山城を残し、この高嶺城と長府串崎城、岩国横山城を破却して
寛永15年(1638)廃城としてしまったのね
それから、こんな詩もオッパは口ずさんでいたよ
国破山河在…
杜甫かぃなるほどφ(..)メモメモ
以降、大内氏は歴史の表舞台から姿を消してしまったけれど、
多々良朝臣大内義隆支流の尾張山口氏が居たんだそうだ
尾張山口氏は、大内義隆の末裔に当たるんだって
それから、
多々良朝臣大内氏流の牛久山口氏は常陸国河内郡で12代にわたって支配し、牛久藩は山口氏の支配で明治時代にまで至っている
牛久藩はわたしの実家近辺だし、むかしでいう常陸国河内郡はわたしの実家も入るやん
おじいちゃんから先のご先祖様の誰かは山口氏の事をご存知だったんじゃないかしら
なんか親近感
縁あってはるばる山口へ嫁いできたよ~♪
陶氏は断絶したけれど、傍流は生き残って毛利氏の家臣となっているし、大内氏の家臣で子孫に現在では作家の宇野千代さんがいるよね
大内氏の三家老の一人、玖珂の鞍掛山の城主・杉隆泰の家老で宇野筑後守正常がご先祖様らしい
え、宇野千代さん、亡くなられてるのか
内藤隆世も自刃しちゃったけれど、その叔父さんは生き残っていて、内藤氏もまた、今度は毛利氏の家臣として明治維新まで存続したそうよ
この鴻ノ峰山の周りには兄弟山もあるし、障子ヶ岳や姫山などあるしね
毛利氏によって築城された長山城跡・亀山公園もあるしさ
しばらくは、山登りが楽しみだな
歴史を教えてくれるガイドさん(オッパ)も居るしね
ミシンで縫い物、最近した?
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