南明山乗福寺/山口県山口市大内御堀 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

2月26日散策/南明山乗福寺


山口市大内氷上にある興隆寺・北辰妙見社から、隣の区域でもある大内御堀へ自転車でちょちょいと行ってみたよ自転車バフッ!小

春だねぇ~(*'∀`*)vおんぷ
風が気持ちいい



久し振りに乗福寺へ行ったよ
古いけど、なかなか素敵だねキラキラ

このお寺は、正和元年(1312)22代大内重弘が開基で建立された周防最初の禅寺と伝わっているらしいの

開山は慮峰和尚で、歴代の住職は京都五山の高僧が多く、室町期に五山大学を山口に導入されて大内文化の源泉となったんだそうよ

調べてみたら、なるほど
五山十刹に乗福寺も名を連ねていたわ
臨済宗の寺格の一つなのね



建武元年(1334)には、後醍醐天皇の勅願寺となって、室町幕府からは利生塔が建てられたんですって

後醍醐天皇って…鎌倉幕府を滅ぼした人?がびょーんえ?(歴史知らんから間違えているかも汗



寺格も十刹に数えられ、栄えた頃は山内の塔頭43、末寺86を数えたっていうし、

後に24代大内弘世の時代、山口に来た明国の使僧趙秩が、山口十境詩の中で4箇所も乗福寺を中心とした景色を詠んでいるから、当時の乗福寺一帯は文化の中心だったのかもしれないね



だけどこのお寺、永正年間の末頃に火災を起こしていて、伽藍の多くを焼失しちゃって、享禄4年(1531)31代大内義隆が再建しているの



でも、大内氏が滅亡のあとは衰えてしまってね

大内弘世の菩提所である正寿院を残して解体され、乗福寺の塔頭などは博多の祟福寺に移築されたらしいわ

ああ、それで塔頭のひとつの正寿院が乗福寺の名を継いだのか


祟福寺ってさ~黒田官兵衛とか黒田家の菩提寺じゃなかったっけ?
なんでぇ~σ(^_^;?なんで持ってっちゃったの?

この祟福寺ってさ

そいや10年くらい前に修行僧が放火しなかったかなブッブッブッ
そうゆうのばかり憶えているよね汗



お寺の説明板に「慶応元年(1865)坂本龍馬が長州藩士とこの寺で薩長連合の策を練った」と書かれてあるけれど、

坂本龍馬が山口へ来たのは、歴史の上で3回くらいあるんだよね
萩の久坂玄瑞に会うために山口に来たのと、薩摩藩の代理として薩長同盟の下話をしにも来ているし、薩長同盟締結の功績で毛利藩主から御褒めの言葉と褒美をいただくためにも来てる

市内には龍馬ゆかりの場所として旧山口藩庁門や枕流亭、えっと…松田屋とかもあるし、

なるほど、龍馬の足跡を探ってみるのも面白いかもチッチ!

因みに、

慶応元年(1865)といったら、10月3日の夜、小田村素太郎(楫取素彦)とともに宮市(防府)から山口に入っているねキラキラ
翌日は山県九右衛門(松原音三)、小田村素太郎、広沢真臣と面談して、のち下関に向かい、7日には白石正一郎宅を訪れているわハハハ…アハハ

じゃあ、その頃乗福寺へ訪れているのかしらねぇ



乗福寺本堂の裏には、大内氏の始祖と伝えられている琳聖太子の供養塔と、その後ろには開基大内重弘のお墓と、山口に開府した大内弘世のお墓があるの

久し振りにお参り
いつ見ても琳聖太子の供養塔が斜めになっていて、崩れやしないかヒヤヒヤ汗汗汗



琳聖太子は、百済の26代聖明王の第三王子と伝えられていて、推古天皇19年(611)周防国(防府市)佐波郡多々良に上陸し、摂津の荒陵(四天王寺)で聖徳太子に会い、周防国大内県を貰って、多々良氏として21年に興隆寺を建て氏寺にした、と云われている

「大内」と称しはじめたのは、平安時代に多々良氏16代当主・盛房のころ、本拠としていた所が「大内」という地名だったことが由来とされているんですって

それまでは多々良一族近親ともに、周防の国庁で政務に当たっていたんだそうよ



左が24代大内弘世、右が22代大内重弘

大内重弘は、大内介と名乗って京都六波羅の評定衆だったんだって
評定衆って役職のひとつで、幕府の最高政務機関であって行政、司法、立法のすべてを司っていたんだろうから、あらキラキラ立派やん↑↑↑

なるほどねぇ
大内さん、この頃からいよいよ勢力を伸ばしてきたから、東大寺領としての周防国司の国務と激しく対立もしてたんだね

この頃に山口が大内さん直接の治下にあったんだとか

で、隣のお墓は24代大内弘世
はじめはお父さんの23代弘幸と共に、足利尊氏に従って南朝の守護として周防を統一

ついで長門守護厚東氏を追い長門守護にもついてるわ
後に北朝へ転向、更に石見にも勢力を伸ばして

え?石見って…まさか世界遺産の石見銀山???
あっハッそういや…

石見銀山には、延慶2年(1309)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により銀を発見したという伝説が残されているのよ

うぉ---
じゃあ、なに
今まで大内氏が尼子なんかと戦っていたのは、もしや…実は…「銀山をめぐって」なんじゃないの~~~!?

ってことに、今はじめて気づいたブッ

じゃあ…銀山めぐって大内氏に尼子氏、毛利氏に秀吉、徳川…スゴ~い(*'∀`*)v争奪戦だね



あ…

で、弘世さん、石見守護にもなったんだよね
正平15年(1360)祖先以来の地から居館を山口に移して、京都の町並みを真似して開府

西国文化の中心地として栄えたんだっけね

将軍足利義詮に会うために、京に上った弘世は京の高い文化や情緒に感銘を受け、山口の一の坂川を京の鴨川にみたて、以後約200年間、歴代当主も弘世に倣った街づくりを行なったとされている

京の鴨川に見立てた一の坂川は、初夏にはゲンジボタルが舞って綺麗キラキラ☆だよね

これは弘世が、京から姫君を妻に迎えたとき、京の都を懐かしみ寂しがるのでそれを慰めようと宇治のゲンジボタルを取り寄せて放したのが始まりだとか



大内氏の墓所の近くには上田鳳陽先生と服部東陽先生のお墓がある

いつの間にか幕末になってるし汗
話、飛ぶなぁ

服部東陽先生は、吉敷毛利家の家臣の家に生まれ、鳳陽先生に学んだ人で、憲章館や山口明倫館の教授になった人

鳳陽先生は、文化12年(1815)中河原に私塾山口講堂を開設されてるんだけど、時代の流れとともに山口講習堂→山口明倫館→山口中学校→山口高等中学校→山口高等学校→山口高等商業学校→山口経済専門学校と受け継がれて、現在の山口大学経済学部に至っているのよね

とても情に厚い先生で、大変人気だったとか

晩年は大内御堀にある家で過ごされていて、そちらにはまだ行けてないんだけど、わたしの義父(オッパのお父さんね(*'∀`*)v)は山口高校→山口大学出身だから、何だかとっても親近感キラキラ

わたしのおじいちゃんも教育者で学校の先生をしていたけれど、未だに卒業生達が毎年鳳陽先生のお墓参りをされているくらいの、そうした根強い人気はまったく無いブッブッブッ



そういや、近くの旧国道沿いにある山口の銘菓外郎を製造されていた福田屋さんちの隣の敷地に、鳳陽先生と服部東陽先生の顕彰碑があるわ

ここは今は宮島町っていうのかしらね
そういや「大内御堀」の地名も最近になって一部「大内中央」に変わっちゃったんだよね
むかしの名残が地名から無くなっちゃって、何だかなぁ~みな、反対はしなかったのかな



晩年を大内御堀で過ごした鳳陽先生は、当時ここの福田屋の店主と懇意にしていたそうで、先生が亡くなった後、福田屋の店主がその功績を称え、敷地内に顕彰碑を建立したらしいのよ



福田屋の外郎は、中原中也もよく食べていたみたい
でもね、300年続いた福田屋さんは太平洋戦争で後継者をなくして廃業しちゃうの

わたしも食べたかったなぁ
福田屋の外郎


(写真/上が御堀堂、下が豆子郎の外郎)

その福田屋の職人が「御堀堂」を、福田屋の外郎が大好きだった人が「豆子郎」を創業し、山口外郎の味が現在まで受け継がれている



外郎ってね、もともとは足利義満の時代に元から薬として入って来たんだそうよ

さっき足利義詮の名前が出てきたけど、義満はその次の将軍だね

その後、外郎餅として全国に広まり、山口には大内時代に伝わって来たんですって

山口は、大内氏の縁の朝鮮や中国との交易が盛んで、特に山口外郎は「白外郎」として大内文化の揺籃期に大内御堀の福田屋で創製されたと伝えられている

また、「毛利の殿様外郎で茶を飲む」と詠われてもいるよねキラキラ

大内氏の氏寺乗福寺への街道筋は、むかしは掘割の水が美しい土地柄で、そこから地名を「御堀」としたそうよ

萩往還の途中、福田屋に寄って、素朴だけれど味わいある外郎をいただきながら、みな、ホッと休まれたことなんだろうね


ぺこぺこり


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