吉敷毛利家菩提寺でもある玄済寺
どうやらこのお寺って、吉敷毛利家が移住するまでは、毛利家永代家老福原家の菩提寺だったらしいの
吉敷毛利家と入れ替わりに福原家は宇部へ移ったみたい
境内に13代福原越後守広俊のお墓が有ったんだけど、
なるほど~
でね、この玄済寺の道を挟んで向かいの病院の敷地内に吉敷毛利家のお屋敷があったらしいわ
でね、福原さんのことを調べたの
福原といったら、禁門の変の責任で切腹させられた三家老のひとりに福原さんっているけれど、何か繋がりがあるの?と、思って調べてたんだけど
戦国時代から江戸時代にかけての毛利家家臣福原家には「福原広俊」って同姓同名が4人も居たのよ!
なにそれ~意味わかんない
8代福原広俊は毛利元就の母方の祖父で、
10代福原広俊は毛利元就の従兄弟で、
13代福原広俊は通称越後守広俊と云われていて毛利輝元の重臣ね
以降、福原家は長州藩の永代家老を務めることになるんだけど、
15代福原広俊は通称隠岐守広俊と云われているそうよ
アタマ混乱しちゃうわ
玄済寺にあるのは13代当主の福原広俊
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、安芸毛利氏の家臣であり、毛利氏の一族である安芸福原氏当主
ここから、子孫は代々、長州藩の家老を務めることになるんだけど、
記録によると墓所は山口県萩市江向徳隣寺………
え?
萩の徳隣寺は行ったよ~椋梨さんのお墓があるからね
福原家のお墓ってこれ↑のこと?
う~んますますわからない
あとでオッパに聞いてみよう
この福原さんは、毛利輝元に仕えていて、天正19年(1591)に家督を継承されているのね
朝鮮出兵やら関ヶ原の戦い…
江戸においても江戸城普請を担当するなど幕府との関係維持に腐心、長州藩内部の問題解決にも尽力し、大坂の陣…
さて、吉敷毛利家のお墓へ
つくづく、わたし達夫婦って、毎回墓場deデ-ト
墓所の入り口近くには、吉敷入りした最初の当主で、吉敷毛利家3代当主毛利元包のお墓
当時、藩の執政を務めていた母の兄、毛利秀元の意向で、藩主が参勤交代で通行する萩往還の後背の要地、吉敷郡吉敷に移り、以降通称吉敷毛利家と呼ばれ、代々藩の一門家老を務めているわ
それと、一族の菩提寺黄龍山玄済寺を吉敷に移しているのよね
ここに吉敷毛利家が存在することになったきっかけを作られた人だわ
この墓所には、初代秀包と2代元鎭の供養塔があるんだけど、秀包は滝部に、元鎭は殿居にお墓があって、
それから5代広包、6代元直、7代就将、10代包詮も別の墓所なんだそう
元禄12年(1699年)4代就直の時は、越前松平家が長州藩主毛利綱広の5男監物元重を越前へ連れ去って、一族の松平伊織を養子に押し付けようとした際、就直は国司広直とともにこれを回避するため奔走、
柳沢吉保ら幕閣にも運動して毛利家の血統を守ったそうよ
柳沢吉保知ってる知ってるぅ~
大奥で見た~~~
13代元一(別名は元潔だけど、藩主の毛利斉元より偏諱の授与を受けて元一と名乗る)の時は、幕末の多難な時期を、家臣とともに重責を果たしているし、
14代親直は遊撃隊の総督となって、第二次幕長戦争の芸州口に総指揮役として出征した後、英国にも留学したりしたんだけど、明治10年の西南戦争で戦死しちゃったんだよね…
吉敷毛利家を離籍後、上野五郎と名乗ってね…
こうして史跡を見てみると、ここ山口市は、毛利家の分家である吉敷毛利家の領地だったなんて今まで知らなかったよ
一族はここだけではなく、そもそも山口県って長州藩の拠点となっているのね
萩市にある毛利萩本家から始まって、
長府毛利、徳山毛利、清末毛利、右田毛利、阿川毛利、大野毛利、厚狭毛利、吉敷毛利、宇部福原などなど
どんだけ~~~
ここ吉敷佐畑周辺には、吉敷毛利家のお屋敷と、約200件前後の家臣のお屋敷、10数件の商家等などがあったんだって
一国一城令ってものがあったから、お屋敷はお城ではなかったみたいだし、萩城下町のように規模は大きくはないけれど、でも立派な城下町だよね!
近くには郷校、文武両道の憲章館があって、優秀な志士達を輩出しながら明治維新へと導いたそうよ
第13代長州藩主毛利親敬もその憲章館に訪れたと記録されているわ
憲章館は明治初期に廃校になってしまったから、今では当時の面影はないけれどね
墓所の一番高い場所に、秀包と元鎮の供養墓があったわ
毛利秀包は、毛利元就の末子(9男・11子)で後にお兄さんである小早川隆景(元就の3男)の養子になったのね
更には、豊臣秀吉と輝元(元就長男隆元の子)との講和の後に上坂して豊臣秀吉に仕えて「小早川藤四郎秀包」って改名したんだって
その後隆景に猶子として秀吉の甥の秀俊(のちの小早川秀秋)を迎えたもんだから、隆景は秀包に一家を建てさせて、再び毛利姓に戻したんだそうよ
秀吉の四国九州征伐や朝鮮の役などに従軍して、久留米で十三万石を領し、従四位、侍従、筑後守となったのね
そういえば、秀包の正室は大友宗麟の娘を秀吉の養女として与えられていることから、以降はキリシタン大名と云われていたみたい
オッパが言ってたわ
秀包の洗礼名って「シマオ」なんですって
秀包の隣には元鎮の供養墓
父親が秀包、母親が大友宗麟の次女なわけだから、元鎮もキリシタンなわけね
おじいちゃんである大友宗麟って、そもそもキリシタン大名なわけだしね
洗礼名がなんだっけかなぁ…
フランシスコ、だったかなぁ…サビエルみたい
でも、吉敷毛利家の祖になるわけね
なんかね、父親である秀包が関ヶ原の戦いで敗れて改易されて、毛利輝元に召し出され7000石を与えられ、長州藩内で長門阿川・滝部・殿居を領することになったんだけど、
寛永2年(1625)には吉敷に領地替えとなって、1万1000石余に加増されているの
以後、一族は吉敷毛利と称することになるんだけど、
また更に2万石への加増が内示されたのに、断ったんですってΣ(・ω・ノ)ノなんで~?
そういえば、ここは秋の紅葉が絶対綺麗よ
今でこそこの景色
素敵
吉敷毛利家のお屋敷があったであろう場所には、藤の花
まだこの時期なのに終わりそうなんだけどね
ハチさんが足にいっぱい花粉をつけていたわ
池には鯉もいっぱいいてね
吉敷ってとこは、ホント素敵ね
地域のイベントに、これだけの集客力があるのなら、城下町復活させて観光地になるともっと賑やかになっていいなぁ~なんてね( ´艸`)
なにしろ山口の軽井沢だからね
昭和といえば、なにを思い浮かべる?
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