吉敷毛利家の菩提寺、玄済寺の並びに天神山公園があるんだけど、そこはどうやら招魂社になっているのね
天神山一帯に、史跡や顕彰碑や英霊の塔などが点在していたわ
五穀豊穣と領内の安康和平を祈る「保食之命」及び毛利歴代祖公が祭神で、1845年に13代毛利元潔により造営された宣徳社と天神山公園
戦後荒廃していたみたいだけど、昭和62年に天神山の公園化と併せて再建されたみたい
招魂社としては、慶応2年(1866)に吉敷毛利家13代毛利元潔が、第二次幕長戦争などで戦死した家臣の為に建立されたものらしいの
その後、戊辰戦争、西南戦争、更に日清日露から第二次世界大戦に至るまでの戦没者が合祀されているわ
「百万一心」は、毛利元就が築いた安芸国吉田城の礎石に刻まれた銘
「一日一力一心」とも読まれる
江戸時代、長州藩士が吉田城から拓本をとって持ち帰り、吉敷郡の町村で碑を建てたものがいくつか現存しているんだそうよ
わたしも毛利元就を祀る豊榮神社で見たわ
今年は慶応2年(1866)長州藩が幕府軍と戦った四境戦争から150年という節目の年
内海忠勝さんの顕彰碑があったわ
もともとは吉敷毛利家臣の吉田家に生まれて、後に内海家の養子になるんだけど、下級武士の出だったのね
父亡くして一家破産、極貧の生活に陥りながらも憲章館で文武の稽古に励んだそうよ
文久3年(1863)6月には、高杉晋作によって奇兵隊が結成されてから藩内では多くの諸隊が誕生したけれど、内海忠勝も家族から大反対されながらも、近隣の有志を集めて宣徳隊を結成
元治元年の禁門の変、翌年の大田絵堂の戦いに参加
慶応2年(1866)の四境戦争では隊名を良城隊と改めて芸州口に出陣
度重なる負傷にも屈することなく奮闘されたのね
明治元年(1868)には、伊藤博文のすすめで兵庫県庁職員となって外務局に配属
明治4年(1871)には、岩倉具視を全権大使とする欧米使節団の一員として伊藤博文らと欧米諸国を歴訪
帰国後は大阪府権参事、長野県令、三重県令、兵庫県知事、長野県知事、神奈川県知事、大阪府知事、京都府知事など地方行政官として活躍されているわ
その後は貴族院議員、会計検査院長、男爵となって
明治34年6月内務大臣におされたが病気で辞退し、明治38年没
63歳
従二位
憲章館の学頭だった名和道一のお墓
吉敷毛利家家臣、名井弾右衛門の次男
宣徳隊を組織して小総督となって禁門の変や四境戦争に参戦した人ね
禁門の変に参加したことで、終身禁固の刑を受け、解かれたあと名を改めたんだそう
四境戦争後に憲章館学頭として子弟教育し、明治元年春に上京してからは岩倉具視の邸に寄寓されたと伝わっているわ
明治2年には新潟県参事にも就いたけど、翌年には辞任し、民法研究の為米国留学するも明治6年ボストンにて没
腸チフスだったそうよ
享年36
左にある石碑は「報国忠士霊神」
元治元年甲子七月十九日と刻まれていることから、禁門の変ね…
裏には吉敷の戦没者の名前が刻まれていたわ
吉敷毛利家からも27名が参加されているわ
名和道一、児玉齊、内海忠勝、児玉次郎、宗像六郎、小野金吾、佐畑信之、小野虎之允、野村致知、中尾弥兵衛、粟屋六蔵、渡辺義太郎、服部章蔵、多々良隼見、阿曽沼三介、小野勝治、井村新吾、粟屋加入、磯村恒忠、羽仁善治、佐藤三介、重見弥兵衛、岡山兵助、伊藤兵吉、伊藤三次、柳井虎之助、山県源太郎
以下、記録から抜粋
名和道一らは、元宣徳隊と驍衛士との有志を連合して吉敷隊と名付け、これを率いて久坂玄瑞の軍に入り、福原越後に従って山崎に進軍している
このとき鳥取藩・加賀藩が長州藩に同情していた
鳥取藩は長州藩の挙兵とともに有栖川宮を奉じて鳳輦を比叡山に移し、会津・桑名藩兵らを撃破しておもむろに後図を画し、
加賀藩は、長州藩の入京と同時に鳳輦の守護をつとめ援助することを約束
そこで小野金吾、内海忠勝ら5名の吉敷隊士が選抜されて、まず京都に入り、鳥取藩兵を応援することになったので、鳥取藩士河田佐久馬従士に仮装し、その駕籠脇に随従して入京し、油小路の鳥取藩邸に隣接する長府藩の留守居役宅に潜伏した
当日、吉敷隊士は砲声を聞くと斥候を放ち、開戦の確報を得たので、桂小五郎、時山直八らとともに、直ちに鳥取藩邸に到った
しかし鳥取藩兵は御所からの急報で、すでに警衛受持の場所に赴き、誰もいなかったと云う
違約に憤慨したが、どうしようもないので、御所内の鳥取藩に合流しようと、今出川御門を初め入門を試みたが警衛厳重で入れず、鳥取藩との連絡も切れてしまった
一同はやむなく鳥取藩邸に帰り、今後について協議した
たまたま土佐藩の中岡慎太郎が来て、長州軍の大敗と、来嶋又兵衛の戦死、久坂玄瑞・寺島忠三郎らの自殺を報じた
時山直八は、
「これより来嶋・久坂両将の志を継ぎ、藩公の正義を貫徹しなければならない
故に今はいったん天龍寺に退いて遊撃隊と合流し、軍略を定めて、再挙を図るべきだ」
一同賛成し、夕刻天龍寺に着く
遊撃隊はすでに天王山へ向けて出発したあとだったので、天王寺に行き、本陣を訪れたところ、益田右衛門らもすでに兵庫へ引き上げて、一兵も残っていなかった
そこで吉敷隊士も夜中に天王寺を出発して翌朝西ノ宮に行き、26日三田尻に着き、吉敷村に帰った
ほどなくして俗論派が藩の要路を占めた
吉敷隊は解散の命に接し、京都出兵の主唱者である名和道一は座敷囲い、親類預けの厳罰を被ることになる
招魂場の中央には、辞世の句らしきものが書かれた石碑があったんだけど、
劣化が激しくて読めなかったわ
ここには幕末維新の戦いで戦死した毛利登人をはじめとする人々の神霊碑が13基あるの
右から二番目にある、一兵卒として西南の役で僅か25歳で戦死した元吉敷毛利家14代当主の毛利親直
家督を返上し、いち平民・上野五郎の名で建立されている
除籍する殿様なんて聞いたことないよ…
なぜ、そのようなことになったんだろう…
明治10年の西南戦争に、幕僚参謀として従軍しているけれど、敵の銃弾に倒れ、戦死してしまったのだけれど…
神霊碑には「上野五郎大江親直霊」
毛利家を去ってしまったけれど、毛利氏の本姓である大江姓を贈られているのね
因みに遊撃隊とは、
幕末に長州藩で結成された長州藩諸隊の一つで、遊撃軍とも云われていて、
総督は来島又兵衛
来島の戦死後は石川小五郎等
軍監に所郁太郎、高橋熊太郎、参謀湯川庄蔵、後藤深造、用掛山田市之允
文久3年6月、高杉晋作が身分を問わない奇兵隊を創設すると、これに触発された来島又兵衛が同年10月に周防国宮市(現山口県防府市宮市)において、町人・農民・浪士らを組織して遊撃隊を結成、初代総督となる
土佐藩を脱藩した池内蔵太や中島信行、元天誅組の上田宗児らも加わっている
元治元年7月の禁門の変に先鋒として参戦
来島又兵衛の死後は石川小五郎が隊を引き継ぎ総督となり指揮を取る
元治元年12月、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)するとこれに呼応し、俗論党と戦い勝利に貢献
慶応元年3月、長州藩政府は諸隊を整理統合し、遊撃隊も毛利親直を総督として藩の正規軍として公認され、俸給・武器弾薬等を支給される
慶応2年5月の第二次長州征伐に際しては芸州口において幕府軍と戦う
その後、戊辰戦争を通じて倒幕軍の一隊として活躍したが、戦争終結後、冷遇に不満を募らせた諸隊の隊士らの反乱に200名を超える隊士が参加、乱の中心となるも鎮圧された
山口県岩国市の籌勝院には第二次長州征伐の際に戦死した遊撃隊士の墓がある
隣には毛利登人
吉敷毛利家の末家毛利虎十郎(大組600石)の嫡男
長州藩主毛利敬親の世子、毛利定広(元徳)の小姓だったのよね
1864年の馬関戦争では宍戸刑部こと高杉晋作とともに毛利出雲と称して四国連合艦隊との停戦の副使になっているわ
同年秋の第1次長州征伐の後に、俗論派が藩論を主導するようになると、前田孫右衛門、大和弥八郎らと共に謹慎処分を受け…
12月には野山獄に投じられてしまって、
山田亦介、松島剛蔵、前田孫右衛門、大和国之助、楢崎弥八郎、渡辺内蔵太らと処刑されてしまうの
墓所は萩市東光寺に甲子殉難十一烈士の一人としてあるんだけど、吉敷毛利の末家で、吉敷の宣徳隊や革新派と往来して深い関係があったため、この吉敷招魂社に維新の戦死者とともに祀られているみたい
身が危うくなって、周りから辞職を勧められても、聞かずに活動を続けた挙げ句の投獄だったらしいわ
■皇の 道しるき世を ねかふかな わが身はこけの したにくつとも/毛利登人
ここ吉敷にも、明治維新前後から、国のために殉難した方々が大勢居るということを改めて思い知らされたわ
図書館でよく何の本を借りていた?
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