護国山・吉田家墓地/山口県萩市椿東 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

1月1日散策/護国山・吉田家墓地


吉田松陰先生とその家族、門下生が眠るお墓は、松陰先生の誕生地に隣接していて、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っているの



この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓が立ち並んでいて



ちょっと圧倒されちゃった汗汗汗



以下、説明板より



■吉田松陰の墓

松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した

そして同月15日に松陰の墓碑を建立

表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている



墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進したもの

当時、松陰は幕府から第1級の大罪人とされており、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動だった

それだけ松陰が門人たちから慕われていたということが伺える



■久坂玄端の墓

楫取素彦が1924年に吉田松陰の墓のそばに建てた遺髪墓



■久坂玄機の墓

久坂玄端の兄玄機は、藩から海防策を依頼され病中をおして対策を上申した

しかしこのことが原因で、1854年(安政元)2月27日に35歳で亡くなった



■高杉晋作の墓

高杉晋作の遺骸は1867年(慶応3)4月16日夜、吉田村清水山に土葬され、神式の葬儀の後に「東行墓」と刻まれた墓が建てられた

また13日後の4月29日には、遺族により萩で仏式の葬儀が行われ「東行暢夫之墓」と刻まれた墓が建てられ、遺髪とへその緒が埋められた



■杉百合之助の墓

吉田松陰の実父



■杉民治の墓

杉民治は、吉田松陰の兄梅太郎
松陰が亡くなった後の松下村塾は1872年(明治5)正月、玉木文之進が玉木家で再び開いた

しかし、1876年(明治9)前原一誠ら塾生が萩の乱を起こしたとして文之進は自刃し、塾も閉鎖される

その後、1880年(明治13)民治が最後の教師となって塾を継いだが、塾生は40名余りで、1892年(明治25)に閉鎖





■玉木文之進の墓

玉木文之進は藩校明倫館の塾頭や代官、郡奉行などを務めたが、萩の乱の責任をとり自刃



■吉田稔麿の墓

吉田稔麿は長州藩士で、松下村塾で学ぶ

松陰の死後は、脱藩して京都・江戸で尊王攘夷運動に加わったが、1864年(元治元)6月6日池田屋事件で重傷をおい、自刃

享年24歳



■駒井政五郎

そういえば…
高杉晋作の功山寺決起に呼応して、慶応元年(1865)正月に御楯隊の駒井政五郎が鴻城軍を組織し、本部を置いたお寺がうちのすぐ近所にあったなぁ…

松下村塾に学ぶ
奥羽、函館方面を転戦し、二股口の戦いで土方歳三率いる衝鋒隊・伝習歩兵隊約300人と戦ったが乱戦の末、胸に銃弾を受け戦死




ぺこぺこり