長生炭鉱/山口県宇部市西岐波 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

6月14日散策/長生炭鉱跡


今も、宇部市西岐波の長生炭鉱跡地に2本のピーヤ(排水、通気口)が当時のまま残っている

1942年2月3日午前9時過ぎ
アジア太平洋戦争下の炭鉱事故では最大の死者を出した大惨事が起きた

長生炭鉱の海底に延びた坑道のおよそ1km沖合で水没事故が起きる
日本人を含む183人の坑夫たちが一瞬にして犠牲となる

そのうちの7割、136人とも137人ともいわれるのは朝鮮人労働者だった

長生炭鉱には1939年から事故までの間に宇部で最多の1258人が朝鮮人労働者だったことから「朝鮮炭鉱」とも呼ばれていた

事故から73年
海面に立つ2本のピーヤの下に、犠牲となった抗夫たちが現在も埋まったままである



朝鮮半島に近く、下関~釜山間を結ぶ定期航路があったためだろう、戦前の山口県は朝鮮人労働者が多かった地域のひとつで
宇部の各炭鉱も大正時代から朝鮮人を受け入れており、長生炭鉱は特に多かったという

長生炭鉱の海底炭層は、海岸線に沿った浅い地層にあるので、浅い地層で採掘をしていた

■「坑道を下っていくと、すぐ頭の上が海なので恐ろしい気がしたそうだ
作業を止めて弁当を食べていると、頭上をポンポンと焼玉エンジンの漁船が通る音がするし、スクリューの水を掻く音さえはっきり聞こえるので、いつ天井が抜けるかと、そればかり恐ろしかった」
(朝鮮人強制連行調査の記録より)

坑道が浅いので海水が侵入する事故が多発し、日本人坑夫から恐れられ、募集してもあまり寄りつかなかった
そのため、この事情を知らない朝鮮人坑夫が多く集められたと云う
(集団渡航鮮人有付記録には、1940年に朝鮮から連行された453人、1942年の水没事故までに1258人が連行されたと記録されている)

日本側からの一説によると「 日本が朝鮮人への徴用を開始したのは1944年9月からである」とあるが
1939年7月28日付の厚生、内務両省の「朝鮮人労務者内地移住に関する件」には確かに「募集」と記されている

だが、しかし、

■「断ればしょっぴかれると思った」

という証言から少なからぬ強制力が伴っていたことが想像される



ここは「強制連行の玄関」と呼ばれ、当時の朝鮮人差別と虐待を目の当たりにした者も多い
朝鮮人連行者が置かれた環境は厳しく、

■「関釜連絡船を降りると、目つきの悪い男たちが見張っており、目玉を動かしても叩かれそうな雰囲気だった」

下関港に着いた朝鮮人たちは、木格子で囲まれた24時間監視の厳しい寮に入れられた

(以下、証言より)
■「飯場は、バラック建てで、炭鉱の外側全体が厚い木の板で囲まれていた」

■「炭鉱への出入りは1カ所」

■「古参の朝鮮人が門番をしていた」

■「近くの事務所には、憲兵が1~2人常時駐在して目を光らせていた」

■「坑内と飯場の間の往復だけが許され、外に出て買い物をすることも、社宅に人を訪ねることもできなかった」

■「飯場と外との連絡は、賄いの朝鮮人の女性や、朝鮮餅を買いに来る女性たちに頼んでいた」

■「海岸近くにイ、ロ、ハの3棟があり、強制連行朝鮮人は逃げられないように木の格子がはめられた飯場に収容されていました
私がそばを通った時、彼らは格子の隙間から手を伸ばし、何かを必死に訴えかけるのですが、私はその時は朝鮮語が理解できず、何もしてあげられませんでした」(金春粉)

■「募集による朝鮮人の炭住は、後期には4人一部屋であった
初期のしばらくは、宿舎の建設が間に合わず、バラックに180人が一部屋に入れられていたそうである
逃亡を防ぐため、炭鉱全体が木の板囲いの中にあり、独身者の寮はさらに背丈の3倍くらいの板塀で囲われていた
脱走者は後を絶たず、逃亡してつかまった人は、見せしめに折檻された
汲み取りトイレが清掃されたとき、その穴から脱走を試みる人達があった」
 
■「食事は米の飯が食べられたものの、おかずは大根や白菜を四等樽に塩漬けしたもので、1週間に1回鰯が2尾ついた
仕事で帰りが遅くなった時は、おかずがなくなり、樽の大根を手づかみして丸かじりした
ただ、重労働なのに量が少ないためいつも空腹だった
稼いだ金は、戦時国債を買わされたり、強制貯金をさせられたりして、手元に金がなく、売りにくる朝鮮餅を買えないこともあった」
       


「夏のある日、2人の独身の飯場の者が逃げ出すところを捕まって、棒で叩かれているところを目撃した
彼らは殺されると叫んだ
また、別の日には、事務所に連れて行かれて、入口に鍵をかけて3人の労務の者が棒で叩いた
私は18歳の頃だったので、怖くてその場を去り、逃げ帰った」(姜福徳)

■「寮に入れられていた同胞が格子の隙間から手を伸ばして、外にいる人に食料などを求めていた光景を幾度となく目撃した」(金春粉)



作業は、船から石炭や物資の積み出し、荷下ろし、ボタで海岸を埋め立てる坑外労働と、採炭、掘進などの坑内労働に分かれていた

坑内労働の時は、作業用のツルハシや掻き板、えぶなどを持って坑道を下っていく

水没事故などの危険を伴う坑内作業のほとんどを朝鮮人がやっていたと云う
労働時間は掘進夫が3交替で8時間、そのほかは2交替で12時間となっていたが、あまり守られず長くなることが多かった

給料は「戦時国債」や「保険」の名目で引かれ、ほとんど残らなかった



その頃の日本は、米国との開戦から2カ月経ち、石炭の量産体制が強いられていた
2月3日は特に量産目標が掲げられた「大出し日」であり、病人も休みなく働かされていた

その時、事故は起こる

2月3日
抗口から約1010mの地点で出水

突然ゴーッという音がしてバリバリという音と共に天井が抜け、滝のように坑道を海水が走っていく
あっという間に天井まで海水に浸かり、ピーヤ周辺一帯も浸水
坑道の空気が真っ白に小山のように噴き上げ、大きな渦がグルグルと巻くのが3日位も続いた

地上に再び戻ることのできた人数は、坑口近くの者が主で、わずか10数人だったという

■「中学1年の時に父と叔父の2人を亡くした
事故のとき父はいったん逃げ延びたが、弟を助けるために再び坑道に入ってそのまま帰らぬ人になった
学校に知らせがあり駆けつけると、海から何本も水柱が上がっているのが見えた
言葉にならず、その場に座り込むしかなかった」(和歌山県在住)



抗口では、事故の知らせで駆けつけた朝鮮人抗夫の女房たちが「哀号」と泣き叫ぶ声が何日も続いたと云う

特高や憲兵も出動したが収拾がつかず、炭鉱の経営者は、 泣き叫び職員に詰め寄る遺族らを静めるために急きょ、犠牲者全員の位牌を一夜で作成し、 選炭場で葬儀を行っている

その時の位牌は創始改名されたまま西光寺に残されている

そして驚くことに、この水没事故の後、炭鉱経営者側は生き埋めになった犠牲者たちを引き揚げようともせず183人が眠る場所で採炭を再開しようとしていたと云う



この長生炭鉱の事故は、1914年に東見初炭鉱で発生した死者数235人の水没事故に次ぐ宇部炭田では2番目に大きなものだった

しかし、東見初炭鉱の事故が当時の新聞で大きく報道されたのに対し、長生炭鉱の方は戦時統制下のためか報じられなかった

朝鮮人犠牲者の実情が明らかになるのは、かなり後である



事故の後
日本人遺族には、一人1万円以上と手厚く弔慰金を出したが、朝鮮人は世帯持ちは弔慰金5円、生活費10円で社宅から追い出された

多くの独身者には弔慰金どころか、戦時国債や強制貯金も支払われていない



■「親でなければ支給しないと言われ、あきらめた同胞もいた」


 
事故から40年、旧飯場に追悼碑が建てられたが、多くの朝鮮人が犠牲になった事実は一切、記されていない
 


「安らかに眠れ」と刻まれているが、長く放置されたままである
 
多くの朝鮮人が眠っていることを示す唯一の目印、ピーヤ(通気口)にも、説明の看板もなくこの追悼碑と同様、放置されたままだ



遺族をはじめ、地元の同胞、日本市民らは再三、真相調査や追悼碑の建立などを訴えてきたが、日本政府は無視し続けている



■「われわれがいなくなったら事実があいまいになる
若い人たちが後を継いでくれないと、今までの努力が無意味になってしまう」(金)

2013年、新たな慰霊碑が建立された



■「一世たちの苦労を、現場を見て、話を聞いて理解することが大切
若い世代はその理解をもって自分のルーツを知ってほしい」(許鳳兆)



海の底に沈んだ炭鉱



床波の海辺に立って二つのピーヤを見るとき、私たちはこれは日韓、日朝の二つの民族の墓標として、後の世代に伝える義務があると思う


ぺこペコリ