井上公園/山口県山口市湯田温泉 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

9月13日散策/井上公園(旧高田公園)


近所の湯田温泉街に位置するところに井上公園という歴史公園がある
その公園は、 井上馨の生家跡に作られたものだそうだ

井上馨とは、 湯田村(現在の山口市湯田温泉)の中級武士の家に生まれている
明倫館で学び、尊王攘夷運動に参加するも長州五傑の一人として英国に留学
途中帰国し下関戦争の和平交渉を担当している

明治18年内閣制度が成立すると、はじめての外務大臣となり、その後各大臣を歴任し産業界においても大いに力を尽くした人物である



俗論党政権下の元治元年、生家近くの中園町袖解橋で、藩庁の反対勢力に襲われ重傷を負い九死に一生を得ている

現在、橋といっても見受けられるモノは無く、川にかかっていたものだとは思うが、石碑のすぐ横に水路が流れていることから、それにかかっていた橋が袖解橋だったのだろう



山口で大内氏が栄えていたころの六百年ほど前、この道は御上使道とも呼ばれ、秋穂渡瀬をわたって此処から山口の町に入ったと云う
全国各地から山口に登城した侍たちは、ここまでくると狩衣、直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをしてから山口に入ったことで、この橋の名を「袖解橋」といわれるようになったらしい

碑の歌は、明治時代の歌人田辺玄齢のものである

旅日地の橋の名におう袖ときて
水に姿をうつしてやみし


井上馨が襲われた場所には遭難の地の石碑が建てられていて、ここからすぐ横の道を入ったところにある



伊藤博文らと共に英国に留学し、帰国後藩論沸騰の際に、市内中讃井で反対派の壮士数名に斬り付けられ瀕死の重傷を負ったが名医である所郁太郎の手当てによりあやうく一命をとりとめている



地名に因み、以前は高田公園と呼ばれていたそうだ

ここには、湯田出身の詩人である中原中也の詩碑、湯田温泉を愛した防府市出身の俳人・種田山頭火の句碑、幕末の七卿落ち(八月十八日の政変)で京都から追放された三条実美ら7名の公卿が一時滞留した場所でもあることから七卿の碑などが在る

また、公園内には無料で利用できる足湯もある



近隣住人、観光客の憩いの場所であり、湯田温泉駅から温泉街に向かう道に面して、温泉街エリアの入り口に位置する

公園内には湯田温泉神社の小さな社もある



何遠亭

井上馨の生家の離れで、幕末にはいわゆる七卿落ちの一人である三条実美が宿所とした建物である
この建物は現存していないが、その歴史的な背景から、七卿の碑等と合わせ公園が持つ貴重な歴史的資源の一つであると認識し、県の文書館に残されていた部分的な間取り図を基に、当時の雰囲気を伝える施設として整備され再現している



龍尾の手水鉢

この手水鉢は古くから井上家にあり、龍の尾の形をしているので、龍尾の手水鉢と呼ばれていた

三条公らの七卿や明治維新の諸国志士たちが、井上家を訪れたときに使われたもので、その後、井上侯の東京移住にともない、この手水鉢も他に移されたが、大正のはじめこの地に井上馨侯の銅像が建てられた時、昔を偲ぶ由緒あるものとして再びここに据えられている
 


晩年は元老として政財界に重要な地位を占め、明治40年功により侯爵となり大正4年興津で没す

画像には無いが、井上の銅像の右脇に所郁太郎顕彰碑がある
井上の袖解橋の遭難には直ちに駆けつけ命を救っている

 

(説明碑より)

■■■幕末、長州藩の勤皇の公卿たちと連絡して、尊王攘夷の先鋒となって働きました。これに対し幕府は、長州に政権を奪う野心があるとして、長州藩士とそれに同調する三条実美ら七人の公卿に文久三年(一八六三)八月退京を命じました。これが有名な七卿落です。藩主毛利敬親公はこれを迎え、三条らには井上家を増築して住まわせ、諸国の志士たちと王政復古のことを相談しました。七卿らの志はやがて実現し、明治の新政府樹立後、三条らはその中枢にあって活躍しました。この碑は七卿の忠誠をしのび、その遺跡を記念するため大正十五年(一九二六)十一月に建立されたものです。■■■

書は長州三筆の一人、野村素介である

この七卿碑の建立に、詩人中原中也の父中原謙助が発起人の一人として深く関わっている



瓢箪池
大正6年に造られたものだという



瓢箪池の石は、室町時代中期に大内氏の別邸「築山館」造営の時に豊後の大友氏から送られたものである
その後、遠い豊後を恋しがり、雨の夜には泣くということから「夜泣き石」と呼ばれている



西国一の大名と謳われた大内氏の遺構、大内文化(室町文化)が至るところで香り、湯田温泉があるこの公園にも明治維新の史跡が残されている



中原中也の詩碑

石は徳山産の黒御影が使用されているということだ

碑面の詩句は、詩集「山羊の歌」に収録されている「帰郷」の一節が一部省略と字体をかえて刻まれている

これが私の古里だ
さやかに風も吹いてゐる
あゝおまへは何をして
来たのだと
吹き来る風が私にいふ/中原中也

湯田の町に生まれ、幼き頃から短歌を詠み文学への情熱はこの山口から育まれている

晩年は鎌倉に移り住んだが、いつか山口へ帰郷することを望みつつ、ついには叶わず30歳という若さで亡くなっている



帰郷/中原中也

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁しみをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ



種田山頭火の句碑

山頭火は湯田に昭和13年11月から翌年9月まで「風来居」に住んでいたと記録されている

湯田前町の竜泉寺の上隣りの四畳の間を借りて住み「風来居(ふうらいきょ)」と名付ける
湯田温泉にもよく入湯していた

ほろほろ酔うてこの葉ふる/山頭火


没後100年
井上馨は今、東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬されている


ぺこペコリ