☆4年生引退ブログ☆
No.4 大坂 悠力
「出会ってくれてありがとう」
《他己紹介》
大坂悠力。通称チャナ、家長、黒卵、油淋鶏、paypay大坂etc…
神様は彼に「笑い」を授けすぎたが故に、多分足が短くなってしまったのだろう。
一年の時はほぼ毎日一緒にいて、ほぼ同棲状態。ワンチャンあったよな俺ら。サッカーやめるとか言ってる時期もあったけど、ちゃんとTOPですげえよ…
とにかく彼は、強靭な体、メンタル、黒い肌を武器にマジでみんなを笑顔にできる。今までに出会った人の中で、一番人のことを笑顔にできる人間です彼。人をけなさずに、自虐で場の空気全部持ってけるのマジですごい。複数人の会で完全に優勝します。
ま、一人の女の子の前ではどんな感じなのかわかりませんが、おっとしゃべりすぎました。そろそろバトンを渡しましょう。では油淋鶏のサッカー人生ラストに何を語るのか、僕も楽しみです。
岡田 悠真(MF/暁星国際高校)
----------------------------------------
立教大学の山下智久です。
顔が黒いですが、日サロに行ってないし、サーフィンもやってないです。サッカーです。
この自己紹介で何個の会社に受かってきたことか。
一個上の先輩方の引退ブログを読んで胸が熱くなってからもう一年が過ぎてしまったのかとパソコンを目の前にして思います。毎日のように、富士見グランドまで新谷とイチャイチャしながら1時間車を走らせるのも残り約1か月は悲しいです。最近はsilentの話をしてsubtitleを一生歌っています。300回以上聞いているのですが未だに歌詞を覚ることができません。
あ、ここで余談なのですが歌詞を見ないで最後まで歌える曲は二曲しかありません。
曲を聞いても聞いても頭の中から消えてしまうのです。まるで雪の結晶のように。
誰か曲の覚え方教えて下さい。教えてくれた人には3ペソあげます。
さて、本当は余談をもっともっとしたいですがここら辺にして本題に移ります。
保育園年中から続けてきたサッカーも18年目を迎えました。そんなサッカーと私の物語をここに綴りたいと思います。
サッカーを通して伝えたいことは山ほどありますが、
このブログは大坂悠力の18年間のサッカー物語です。まとまりがなくエピソードトークメインです。
これを読めば大坂悠力を知ることができます。
拙い文章ではありますが、読んでみなはれ。
サッカーと出会ったのは保育園年中。父親の影響でボールを蹴ることが習慣になっていた。
父親は左利きにさせたかったらしく左足でしかボールを蹴らしてくれなかったのを覚えている。左利きで得することの方が多かったし、何よりも目立つ。本当に感謝している。
しかし熱血的な父親はまだ幼い自分に朝練を要求してきた。家の近くにあるABグランドという公園で泣きながら朝練をして保育園のバスがグランドに迎えに来ることもあった。いつからか自分は他のサッカー少年とは違う感情を抱くようになった。
小学生では保育園繋がりのチームに入った。とにかくサッカーが楽しかった。無我夢中でボールを追いかけて好きなようにドリブルをしていた。正直まだ勝負の勝敗にこだわっていなく、負けても自分のプレーが良ければ楽しかったという感情が大きかった。学校の休み時間や放課後、練習が無い日もずっとボールを蹴っていた。一時期、女子とやるドロケイがめちゃくちゃ楽しくて合法で女子にボディタッチできて最高やんこれと思っていた。
ある時に父親がマラドーナとメッシのプレー動画の入ったDVDを借りてきた。その動画を観た時に自分もマラドーナやメッシのようなプロサッカー選手になりたいと夢を抱き、勝負にこだわるようになった。小学生の時のチームは弱く、このままではダメだと思いフットサルの強豪チームにも入り、足元の技術をひたすらに磨いた。サッカーとフットサルの両方を経験したからこそ自分の確固たるプレースタイルが生まれたと思っている。
中学生では地元近くのクラブチームに入団した。中学校の3年間はとにかく熱い指導者と仲間たちに恵まれて技術面と精神面が大きく成長した。とにかく、「気持ち」と「カラーリオ」が口癖の熱いMコーチが居た。Mコーチに出会えたことでポジティブな性格になれたと思っている。自分のチームの選手が削られると相手の選手を呼んで説教をする。人数が足りないと練習試合にMコーチが選手として出場する。虫が居て騒いでいると食っちまえと言ってきた。水もプロテインだと思って飲めばプロテインと同じ効果を得ることができると真面目な顔をして熱弁してきた。手でボールを持って殴る蹴る以外だったら何をしてもいいからゴールをするほぼラグビーという訳の分からない練習や体幹5分3セットなど、挙げればきりがないがとにかく何でも気持ちで言いくるめてきた。そして3年生の夏に大怪我をしてしまった。家から出る事の出来ない私にメッセージ付きの本と家でも蹴れる小さいボールを家まで届けてくれた。走れるようになり、毎朝のように学校の前に家まで迎えに来てくれてグランドまで行き、リハビリを一緒にやってもらった。何とか最後の大会に最高のコンディションで挑むことができた。気持ちで何でも乗り越えられることを知り、Mコーチのような周りから変な人だと思われるくらい熱い人間になろうと思った中学校3年間だった。
高校生では県内の古豪チームに入った。県外の全国常連チーム2校から推薦の話がありどっちに行こうか迷っていた。しかし、寮反対派の母親と沢山喧嘩をした。県外のチームに行くなら応援はしないと言われ県外のチームに行く選択は必然としなくなっていた。Mコーチから埼玉県の高校で一番熱い監督がいるチームを紹介された。Mコーチのような熱い指導者の元でサッカーがしたいと思っていたが公立高校で受験が必要だった。勉強は嫌いであったが、公立受験を頑張り何とか入ることができた。入部当初は選手権という大舞台で全国大会に出場することを目標としていた。
幸いなことに1年生ながらAチームでプレーをさせてもらい試合にも出場することができていた。そして1年生ながら選手権予選の初戦でゴールを決めることができた。何百人もの部員の応援と沢山の保護者やOBの前で決めた得点は最高の瞬間だった。そしてテレビ放送される準々決勝でPKを蹴った。1年生ながら選手権でテレビに映った暁には沢山のメッセージが届きめちゃくちゃ嬉しかった。しかし、決勝戦で負けてしまい全国大会出場には届かなかった。正直、1年生の時に決勝まで行けたから2年生は全国大会に行けると思っていた。しかし、2年生の選手権は初戦負け。とてつもなく大きな挫折であった。1年生と2年生で真逆の経験をした。
だからこそ3年生で絶対に全国大会に出場したかった。
朝練を導入し、マスクを付けて走り、アクティブレストという名の週7日活動。
走りのタイムに入らなくて部室で仮眠を取って2時間後に出走。それも入らなく朝早く来て出走。永遠出走。まて、俺足遅すぎだろ。体力なさすぎだろ。
21時以降まで走って流石に監督帰ったと思って上裸で監督の悪口を叫びながら走ってたら急にグランドの電気ついて監督立ってた時は死ぬ覚悟までした。
練習中声が小さいから交番の前で大きい声で自分の名前を叫んでこいと言われ練習中にまじでやった。何の意味があったんだろう。
部室でウイイレをしてたら監督が入ってきてスマホを没収されたが3日後に思春期で性欲もあってエッチな動画見たいので返してくださいと言ったら何でかしらないけど返してくれた。おすすめの女優も聞かれた。ただの変態やん。監督がこのブログを読んでないことを祈ります。なんやこのエピソード。
坊主にしないから点きめれないんだよとずー―――と言われ続け我慢の限界が来て坊主にしたら次の日、何で坊主にしたの?と真顔で言ってきた。まぁ高校で坊主4回したけど、そのおかげで髪質変わったからあざす。
とにかく、現実が辛すぎて唯一の貴重なオフに監督もいなく、芝生もない世界に行きたいと願い、ディズニーにみんなで行って現実逃避をしたのを覚えている。
それくらい他の奴らよりも練習している自信があった。
結果的にインターハイと選手権の夏冬の2回全国大会に出場することができた。
17年ぶりの全国大会出場だった。
特に選手権の決勝は高校入学してから一回も勝ったことの無いチームに勝利をした。
また、幼馴染である親友が高卒で川崎フロンターレに入団することを知っていて、自分がプロになれなかったら一緒に試合をするのは最後だと思っていたから絶対に勝ちたかった。結局、親友は俺の股間を蹴りイエローカードを貰ってた。あざす。
夏のインターハイあたりからプロサッカー選手になることが現実的だと思っていた。
しかし、全国大会で戦う選手は自分よりも遥かに上手く圧倒された。
「井の中の蛙大海を知らず」正にこの言葉通りだった。
元々高卒プロは考えていなく、大学を経てプロになろうと思っていた。
インターハイ全国に出ていたおかげで何チームか練習に参加することができた。しかし、行きたい大学には断られてしまった。その後も何チームか練習会に参加して立教を選んだ。
理由は2つある。施設と大学名である。施設は立地以外申し分ない。筋トレもできるし、大浴場や水風呂もある。駐車場も広く車で通えた。また、関東2部リーグのマーチ以上に行きたかったからである。後、、、モテそう。
ちなみに余談ですが立教サッカー部で一番モテるのは「熊木唯人」です。皆さん是非チェックの方を。
大学生では勿論プロサッカー選手になることを目標として入部した。
モチベーションの源泉は2つ。
自分は、正式入部する前から練習参加させていただいていた。カテゴリーはBチーム。
点も決めていて調子もよかった。入部した後もBチームで調子がよくAチームの試合に混ざる所まで行っていた。しかし、その調子は右肩上がりにはならずにどんどん落ちていった。
気づけばリーグ戦でメンバー外。Cチームに落ちてしまった。そこからプロという言葉が頭には無くなった。サッカー人生の大半をAチームで過ごしてきた自分にとってCチームという環境はプライドが許さなかった。一番仲のいい岡田にはCチームに落ちたら部活を辞めると言っていた。だからこそ、ここで腐ってしまった。練習開始の5分前にグランドに来たり、朝まで遊んでから練習に行く時もあった。大学サッカーをもう一度やり直せるなら1年生をやり直したい。この文章を書きながら悔しいという感情でいっぱいだ。
しかし、知っている人達が他の大学でAチームに上がった話を聞いたりSNSで活躍しているのをみた時に凄く焦った。俺は何をしているのだろうと。この4年間で追い抜くはずが追い抜かれていることが恥ずかしかった。地元や高校の仲間の人達にも色んな人に「お前部活辞めたの」と聞かれた。笑いながら辞めてねーよと言っていたが心の中は悔しかった。
丁度2年生になりBチームに戻り、筋トレを始めた。技術の向上よりも身体的向上の方が成長が早いと思ったからだ。
ジムに週4で通うようになり、食生活にも気を使い自分で料理をするようになった。
体脂肪率も10%を切り、プレーのキレも上がっていた。しかし、試合に絡むことは難しかった。調子はいいはずなのに起用されなかった。試合に出れなくても筋トレだけは辞めずに継続した。唯一のストレス発散になっていたのかもしれない。筋トレのおかげで自分に自信が付くようになった。これはまじ。みんなやった方がいい。
オフシーズンも新谷と近くの公園にお互いの筋トレ器具を持って行き、インターバルトレーニングやランニングを一緒に行っていた。来年はお互いAチームで活躍しようと気持ちを高め合っていた。
そして3年生になってカテゴリー発表。Bチームだった。発表の夜、岡田悠真の家の近くの公園で泣きながら酒を飲んだのを覚えている。悠真は泣いてる俺をZenlyで見つけて慰めに来てくれたが、何か嫌な音するなと思ったらスケボーで登場してきた。友達を慰めに行くのに移動手段スケボーを選択はどう間違えてもしないはずだよね、うん。びびったもん。
なんで自分がAチームじゃないのかが分からなかった。何で自分よりも下手くそなやつがAチームにいるのかが分からなかった。ただただひたすらに悔しかった。就活を早くから始めようと思い、卒業した先輩含め色々な方にお話を聞いた。「今何やるべきですかね」と聞くと先輩の全員が「今の時期は本気でサッカーに打ち込むことが大切」と言っていた。もう一回頑張ろうと思える言葉だった。
それから縁があってBチームのキャプテンをやらせてもらえるようになった。アイリーグ優勝という目標に向かってチームを引っ張ることがとても楽しかった。一年間を通して自分のプレーも安定していたし、やっていて楽しかった。結果的に優勝することができた。優勝した瞬間は選手権以来の言葉にできない嬉しさがあった。やはり、サッカー選手は試合に出てこそ価値があると思った。また、3年生でキャプテンという役職に就けた事はとても大きな成長に繋がった。
そして4年生。やっとAチームに上がることができた。がみさん遅いですよ。
4月は就活も上手く行っていてサッカーも調子が良かった。初スタメンで2ゴール決めて山学に勝った時はめちゃくちゃ嬉しかった。4年間の中で自分の特徴が一番出せたゴールだと思う。でも途中で交代させられた時は、は?ハットトリックさせろよと思っていた。
そこから何試合か出場するものの結果を残せずに今を迎えた。来週から関東2部リーグ復帰に向けてのリーグ戦が始まる。19年間やってきたサッカーも残り5試合か6試合。
頼む俺。最後くらい活躍してくれ。
今までのブログで「できる、できないではない。やるかやらないか」というブログを書いた。
それを踏まえた上で宣言する。
残りの試合で必ず点を決めてヒーローになる。
絶対に関東2部リーグに復帰する。
そして最高な仲間とスタッフ、関係者全員と喜びを分かち合う。
立教イレブンよ、闘志を燃やしてやってやろうぜ。
同期へ
まずは4年間ありがとう。
例年よりも少ない代であったけどその分みんなと仲良くなれた。
くだらない話、男気じゃんけん、旅行、部室時間、キャンパスライフ、全てが最高だった。
学年会の幹事もやらせてくれてありがとう。第一回をミスした時はだいぶ焦った。
みんな引退したら店貸切ってどんちゃん騒ぎしような!!
社会人になっても集まって大学の時の話、仕事の不満、恋愛話とか語ろうな!
最高の同期に出会えて幸せです!
誰が最初に結婚するんだろうなぁぁ
後輩へ
まずは仲良くしてくれて敬ってくれてありがとう。
色んな人を名指ししてコメントを付けたいけど眠いからごめんきついわ
でも1つだけ言わせて欲しい。
明らかに立教のレベルは上がっているし、個々の技術も光るものを持っている選手が多い。
プロを目指し続けて欲しい。陰ながら応援しています。
とりあえず、声かけてくれれば美味い肉と美味い寿司連れていってあげるね!
親友へ
高卒でプロに行った君に追いつくために頑張った4年間はあっという間で、君に追いつくことはできませんでした。
プロになるのがどれほど難しいことか18年間で分かりました。
間違いなく大学4年間は君の存在が俺を奮い立たせ、行動を起こすきっかけを作ってくれていました。感謝しています。
俺は、一般企業に就職して舞台は変わりますがお互いに刺激を与え合える関係で居続けることに変わりはありません。
選手権のパンフレットに2人で表紙を飾った事は一生の宝物です。
身長も体重もシルエットもほぼ一緒な君がプロの世界で活躍している姿を応援し続けます。
両親へ
母ちゃん、お疲れ様でした。
小さい頃から興味を持ったことを全部やらしてくれて本当にありがとうございました。小学校の時は9つの習い事の全部の送り迎えを仕事があるのにも関わらずしてくれて感謝しています。就活して気付きました。母ちゃんの教育はモンテッソーリ教育そのままでした。高校の時は、毎朝5時半に起きて最高のお弁当を作ってくれてありがとうございました。母ちゃんの料理は本当に高級レストランに出てくる料理よりも美味しくてお洒落です。色んな友人に家に招待してと言われます。もうお店出した方がいいのではないでしょうか。でも19年間息子がやってきたサッカーのルールを未だに分からないのは本当にやばいと思います。
サッカーの試合が終わり家に帰ると、「勝利おめでとう」ではなく、どんな時でも
「無事に帰ってきてくれてありがとう」が第一声だった母ちゃんが大好きです。
サッカーを続けさせてくれてありがとうございました。
父ちゃん
サッカーに出会わせてくれてありがとうございました。
そして左利きにしてくれたことにとても感謝しています。
父ちゃんには正直普段から何でも言えるからここには書かないわ。
BARにまた飲み行くわ。
スタッフ・OBの方々へ
歴史ある立教大学のサッカー部員になれたことを誇りに思います。
コロナ過になり、サッカー部が活動を継続する為に動いてくださり誠にありがとうございます。今年は都リーグでのプレーでしたが、私たちの代で必ず関東2部リーグに復帰します。
今後とも応援のほど、よろしくお願いいたします。
「あ、ここでご自身のスマートフォンでsubtitle流してもらっていいですか。
感動シーン入ります。」
そして最後にサッカーへ
19年間ありがとう。こんな最高なスポーツに出会う事ができて幸せです。
大坂悠力という人間を形成したのは紛れもなくあなたでした。
一番嬉しかった時
一番泣いた時
一番怒った時
一番楽しかった時
全ての感情体験の一番はあなたでした。
あなたを通して数えきれない人達と出会うことができました。
あなたを通して色んな国や地域の文化・歴史を知ることができました。
あなたを辞めようと思ったことは数えきれないくらい何度もありましたがあなたを嫌いになったことは一度もありません。
社会人になって頻度は落ちるけどこれからもよろしくお願いします。
サッカーを通じて出会った全ての人に感謝してこのブログを終わります。
以上、引退ブログです。最後まで読んでいただきありがとうございました。
《お気に入りの写真》
沖縄旅行の写真
次回のブログは…
大橋 龍二(DF/立教池袋高校)