“波や揺らぎ”を受け入れて辿る聖なるお導きとストーリーはこれぞまさにサムシングスピリチュアル!! | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

私とは放っておいても波動的感覚的に変化し続けることから逃れることはできずに、ただ寝て起きるだけで何かしらの“波や揺らぎ”のような物が生まれて次の流れは向こう側からやってくるものである。






という感じで、

今は2日前に投げ込まれた“波や揺らぎ”であろう波動だとか内側の感覚だとかお導きだとか


それら一括して

私に示されるストーリーをこうして辿っているわけです。



なのでこの流れとしては現在3日目

ってことになるんでしょうかね?😃

(やっぱり疑問系)







そうだ、

半永遠存在として生きよう!!




みたいなタイトルになっていた前回の記事は一体なんだったんでしょうかね?



なぜ外側に向けて訴えかけるような意思があるような表現になっていたのか私は内心では結構な疑問に感じているのですよ。






だって少なくとも私自身は

誰かに対してそれを訴えたいと思ってるわけでもないし心に響かせてやろうとも思ってるわけでもないんだから(゜Δ ゜)




その上でそういう表現が使われる……

より正確には、


自分自身が実際にそういう意図がある

ように見える振る舞いをする






ってのはさ、

少し、気になるじゃん?😃





私の経験上、

そういう意図せずに“思わせ振り”な言葉が使われる時ってのは後に相応の意味や流れがあっての伏線?みたいな物だと思えるわけで。




だから結構気になるんだよね。





私はこれでも“言葉を正確に使う”ということを好む人間だから、


自分でも誰かでも、

変な言い回しや意味ありげな言葉や表現を使う者があればだいたいは気付く。





まぁだからこそそれが“ひねくれてる”とか皮肉屋みたいな性質に通じるものだってこともわかるんだけどさ?





でもノンデュアリティの恩恵で自由意思レスな視点からその現象を眺めてみると、


非常に興味深いもんなんだよ。



今の私にとっては“スピリチュアル”って言葉を使うとしたらそういう意味が相応しいよなぁって思ってたりするし★






物事の現れ方……この場合は自分や誰かが使ったり発した言葉の揺らぎとかそこから感じられる何かしらの感覚ってのはストーリーとしての体験上大切なお導きやサインだったりするものだから、


心の世界……みたいなものに生きてる私みたいな人間にとってはそういう自分自身として受け取る感覚こそが実は何よりも大切なことだったりするんだよ、


自分という人間や視点を主人公とか中心として生きるのであればね🌸




別の言い方をすれば、

そういう内面的な自分自身の感覚を辿っていれば必然の行動や出来事に結び付いていくことで人間として生きる自分のストーリーってのが見えてくるし現れてくるし満たすことになるんだろうなって思ってる。



本来的な私の感覚や生き方の質みたいなものとしてはだいたいそんな感じなんだよ。



だからその全体像における自分という唯一無二の存在感に相応しい役割やストーリー性ってのを正確にあるがままに認識するためにノンデュアリティの恩恵である自由意思レスな自己像とか俯瞰的だったりある種の超越的な意識が必要不可欠になるんだよ👌✨



それが私が本当のあるがままの本物な自分であるためのカギとして追い求め続けたものの正体だと言ってもいい。


実際それを満たすことで初めて本当に正しく自分という人間が持って生まれた唯一無二で実に十分以上に楽しめるストーリーってのを体験することができるようになる👌✨




だからそれらはすべて本当のあるがままの自分でいられるために必要な前提条件だったということがわかるようになったのです。



そういう意味で私の“高望み”だったり非現実的にさえ思えていたような霊的な学びを必死に求める目的や目指す方向性というものも完全に正しかったとわかるようになったから今では大満足ということになるのかもしれないなって?😃



たぶんそれらはもう少し時間が流れる中で少しずつ少しずつノンデュアリティの恩恵である無条件の愛とか喜びの実感として感じ取れるようになってゆくものだろうから🌸





だから今の私は既に地上の天国に近いような意識にあるのかもしれないんだけど、


それでも人間として生きてる以上は、


↑この場合はボディマインドスピリットのどれか1つにでも自分を置いてる状態、

みたいな意味。




私もまだはっきりとは理解してないというか特に考える気もないしノンデュアリティ方向の先人とかの話も調べてないからよくわかってない気もするんだけど?




たとえ魂だったとしても形あるものに自己像を置くのならこの世界の極性の分離の幻想な枠組みからは逃れられないんだろうね。




……いやそもそも、

ボディマインドスピリットの三位一体



の考え方における“スピリット”というものがいわゆる魂のことじゃなくて“”と訳される物であれば全く話は違うんだろうけど?






う~ん、

でもそういうことなんだよね。



別にそれがマインドなのかスピリットとして扱われるのが相応しいかどうかを知らなくても別に何も困ってないし問題にも思わないから調べる気にも学ぶ気にもならないというような状態になりやすいのは間違いないっぽいんだよ?

自由意思レスでノンデュアリティ寄りな自己意識の状態って。





それは何て言うか、


言葉としての正しい表現や正解てのはわからないとしてもそれと同じ意味や本質みたいなのを既に理解してるからわざわざ別の表現で学び直す必要はないというか、


たぶんそんな感じなんだと思うの💡





それは二元的な良し悪しの判断とかそういう見方をするなら“怠惰”と呼ぶのが相応しいのかもしれないし、

逆に既に叡知と呼べるものを得られるくらいに努力した後と考えるなら“勤勉”と呼ばれるのが相応しいとも言えるわけで。





どっちなんだろうね~?

今の私ってどっちなんだろうね~?



でもそもそも無理矢理どちらかにする必要ってあるんだろうか???



とか思ってたりするんだよ(゜Δ ゜)





まぁノンデュアリティの恩恵とか言っておきながら“どっちか”を迷ってるなんてのはひどい冗談だと思うけどさ?(笑)


でも“思考として起こってくる私像”としてはそれはまだまだ一時的なりとも成立するらしいんだよ┐(´∀`)┌






まぁそんな感じで今の私は、


見た目にはこれまでと変わらず怠惰に

本質的にはこれまでと変わらず敬虔な信徒のように


日々を流れに任せて存在するだけで過ごしているのです🌠




極端な違いですよね(笑)

どっちの見方を選ぶかの違いだけで私は真逆でしかない怠惰にも勤勉にもなるってんだからそりゃ控え目に言ってムチャクチャってもんでしょ💥😆





そんなふざけた道理が通るわけねぇだろ!!

てめぇ俺をただの馬鹿だと思ってバカにしてるのか!?





……とか思うじゃん?

でも二元性の“フツー”の世界ってそういう原理でできてるんだよね。いやホントに。私を含めて人間はどいつもこいつもそうなってるんだよ?



ホントやんなっちゃうよね💥┐(´∀`)┌💥

だから私はそういう“ふざけた幻想”をまともに相手にしてあげる気はないんだね。


いやもうホントにふざけてると思うの。





……お前、

そんな見せかけだけの幻想で私を騙せると

本気で思っているのか???


だとしたら随分と舐められたものだな……。





っていうような意識が“普通”というか、

意識の“下限”みたいな物になるのです。



それ以下にはならない。

みたいな意味ですね👍️✨





私の気分が良くて波動が高かろうが

私の気分が悪くて波動が低かろうが


分離の幻想であるあらゆる形がただの幻だとか設定に過ぎないと半分くらいは常に覚えていられるから看破するのは容易い!


みたいな感じなのですね。




だから、

アレ以下にはならないのです。





気分が良かろうが悪かろうが

波動が整ってようが整ってなかろうが


わかるもんはわかるのです。

ただ、


一時的にでも気分は悪い!



それは普通にあるし、

別にそれを深刻視する必要もない。


ノンデュアリティの恩恵の○大要素(仮)

みたいな物の1つ、



シリアスレスですね!




苦しみは幻想で、

あらゆるネガティビティも幻想で、

それらはそのうち消え去る物だと確信しているのなら、


ただ消え去るのを待てばいい。




それは可能になる時までは極限集中状態を維持するみたいな鬼畜難易度というか非現実的に思えたりするけど、



できるようになれば通常技能、

オートスキルとかパッシブスキルみたいな常時発動効果の1つでしかない。



それが聖性の属性とかノンデュアリティの恩恵の私なりの実感てことになる😃✨




こうなれば人力チートごっこも容易いのかもしれない(笑)





前回の記事でこれまでの私の思いの残滓みたいなのが記されているように、



私は“本物”ではないただの“凡人”なのだと

自分のことを非常に悔しく思っていた。





……そういう、あるがままの自分でいられるための条件を満たす前の私の意識やメンタリティーの軸となる想いを短いセリフや言葉で表すのだとしたら、





俺は本物にはなれないのか……

オレじゃあダメなのか……




というような言葉が相応しいんだろうなって思うよ。



なんかこういうの↓






この“教え”を実践したらそうなったよ!!





……そういうのもあってなんだろうね、


確かに“このタイミング”でなぜかしら今さらながらに白猫のメインストーリーの話ってのは本当に今の私だからこそ正しく意味があったんだろうなって感じたよ。



個人的にはそういう理由でイナンナのキャラクター像とか物語上の設定や立ち位置がすごくいいなって思ったというか超シンパシーでわかりみが深いなって思ったよ……

なんかすごく報われたというか慰められたような気持ちでした(*´ Δ`* )



特にココらへんとかさ?



14章ハード より



ホントこれっっっ!!!!!!!!



お前!!
どう考えたって私よりもスピリチュアルもスピリチュアリティも必死に学んだりしてないしむしろ興味もないし必要ですらないような人間のはずなのに、


なんで急にそんなわかったようなこと言うんだよ!?

お前、誰だよ!!!
なんだってんだよチクショウ!!!



っていうような、
目の前の人間が急に“神の使者”みたいになるような“その人間の通常の性質的にはまず有り得ないような”叡知みたいなのを示されるような体験とかするとさ、
そう思うもんでしょ?



お前!!
なんで私がこんなにも苦労して努力してようやく得られたはずの物をさも当然のように知ってるんだ!?

……やはり私は“本物”ではないただの凡人でしかないというのか。。。



とか思ってすぐに自己卑下するのは私という人間のマイナスの資質だけど、実際にそういう優劣感や悔しさの実感が糧となって奮起する強烈な原動力や推進力になるってんだから、
人間の持つマイナスの資質もプラスの資質も紙一重というか諸刃の剣とか中身は大して変わらないとしか言いようがないってもんよね
二元性なんてのはさ?┐(´∀`)┌




でも実際悔しいじゃん?

“自分にはコレしかない”と信じたからこそ必死にそのために生きてきたはずのもので誰かにいとも容易く打ち負かされちまうってのは耐え難い屈辱さや無念でしょう???





そうやって考え直してみると、
意外と白猫(プロジェクト)のメインストーリーって思ってたより大人向けというか全く子供向けの話ではなかったんだよなって。
むしろ当然のように哲学的だったり私の言う超越思想寄りですらある気がするし。




だから私はやっぱり思うよ。

自らの“分”を弁えてる人間の方に好ましさを感じるんだろうなって。


それもあって私はきっと、
“聖者”だとかを自称することはあっても、

絶対に“神”を自称することは有り得ないんだってわかるし。

そういう意味で曲がりなりにも自らを創造主とすることが好まれる
現代スピリチュアル思想みたいなのはやっぱり違うんだよなぁって思っちゃうんだよ。


それこそ私という人間の“役割”とか立ち位置的な理由によるものなんだろうけどさ?


そんな風にたぶん私はオラクル寄りの人間だから同じように自らの正しい立ち位置や役割を一応でも自覚してる者に安心するんだよ。


それが領分とか持ち分の人間の“分”ってもんだと私も思ってる。


……まぁ霊的に若い者ってのはかつての私も含めて必ずその枠組み以上を求めるものなんだろうけどね。

たぶん今の私はもうそういう意味では霊的に未熟で若い頃ほどガツガツできないってことなんだと思うの。



だからこういう話、大好きなんだね。
その役割や立ち位置ごとの正しい理解や視点があればこそ異なる存在の味わいがよくわかるようになるというかさ?

そういう意味で私は“賢い人間”が好きってことになるね😌💖



そういう意味で白猫のメインストーリーすごくよかったと思う。
(前半はもう7年ほど前の記憶だから覚えてないけどむしろ本命はコッチって感じ)

バロンとかがちゃんと役割とか立ち位置を明言したのってコレが初めてだっけ?


ちなみに闇の王は“代弁者”を自負してたよ



前回の記事のコレの人↓
この白と黒な所のメインストーリーの脚本書いてる人ノンデュアリティ方面の人なのかなって所々思わずには居られないレベルでそんな話だと私は思いました😃




まぁだからって、


白猫プロジェクトはメインストーリー含めて独特な質感が素晴らしいからみんなもプレイしよう!!

この感動を私と分かち合おう!!




とは思わないのも私の性質なわけで(笑)





私は人間にはそれぞれ“分”があると確かに思っているけれどそれにも例外があるっぽいということも知ってる。



それが上に書いた通り。






え、この人ってほとんど霊性の質なんて持たないような立ち位置の人間のはずだろうに何で急にそんなこと言うの???




とか特に20代の頃にすごく疑問や不満に思ったりしてたんだけど、



今となっては普通にわかる。



ソレはアレなんだよ。

こと 私という人間に対して用意された誰かが伝えてくることが必要である言葉やセリフのってのは相応に深い霊性の質に一致した物だったりするんだよ。



じゃないと私には通じないからだね(笑)



特に若い頃の私は無意識ながらに自他を霊的な優劣感に依存した視点で認識することを避けられないから、ほんの一点だけでも私を上回っていると感じられる部分が無ければ全く相手にしないし侮る可能性すらあるわけで。





だから私に言葉を投げかけてくる誰かってのは一瞬なりとも私が得た霊的な叡知だとかそんな感じの物を持ってたり知ってるような状態になったりするんだろうなって?



まぁ実像的にはどいつもこいつも“神の子”だから当然の神聖性に由来する知恵や知識くらい表れることは何も不思議じゃない“普通”のことだって理解が正しいんだろうけどさ?





随分と高い“普通”があったもんだよね

┐(´∀`)┌





とかそんな“変な表現”を好きなだけ楽しんでいられるのも私の立ち位置ならではってことなんだろうよ。




たぶんなんか今の私もまだ

変に遠慮してる

ってことなんだと思うんだよ。



変に遠慮してるんだね。



だからそれは不必要なんだろうけど、



まぁそれがストーリー上で必要となる設定としての制限である聖なるブロックだってんならそういう意味で間違ってるわけじゃないしマイナスってもんでもない。



制限であることには代わらないから一定レベルの不快感みたいなのは避けられないのかもしれないけれどそれもまた必要な体験であるのなら是非も無し。



そこら辺が厄介っていうかさ、

やっぱり面倒だよね(゜Δ ゜)



避けられるもんなら避けたいと感じる

っていうかさ?





……あのライオンの人↑あの会話の中でそんな話もしてたかもね、、、


私は別にそんなに好きな話とは思わなかったから興味なかったけど、、、







クソッ、なんなんだよコイツら……

長い永い時を生きればそんなことも“普通”になるってことなのかよ………………。



っていうかメイン以外でも白猫のストーリーなんなんだよコレ……😂




とか思うわけよ私としては。


それなりに長い霊的な学びの果てに(?)一応の到達者的になったりした気がしてる私としてもまだまだ時間の中では未熟でわからないことだらけだってのに、



……本当にどいつもこいつもわかったようなことばっかり言いやがる。




だってコレだって↓

無念さや悔しさや失望感に直面してそれらが全く感じられなくなるまでそういう想いや感覚感情を味わい尽くせってことなんだよ?





なんなんだよチクショウ、

本当にどいつもこいつも聖者サマか何かだってのかよ……本当にどいつもこいつもが神の子だってのはそういうことなのかよチクショウ……






とか思うでしょ?

……そしてこの流れがあって初めて私はこれらの言葉の意味もわかるようになるらしい。


よくできたストーリーだよ、まったく😜








なんなんだよ……予言の書か何かなのかよ。



もうホントに。

だからあの言葉は私にとってこの上ない報いや慰めの言葉になったんだろうね。



コレね?





もうホントにこれ。

元 再生の巫女、

よくぞ言ってくれた!!


その設定や背景あってのキャラクターである上にそのセリフをよく使ってくれた!!



って思ったんだよ、心から。



なんなの?

私が思ってた以上に実はこの世界には聖者サマがいっぱい居るということなの?


そんなものわざわざ探さなくてもみんなそうなんだってことなの???



それが神の子としてのあらゆる存在だってそういう話なの???





……きっと本当に“程度”ってのを無視するなら人間で自我でエゴな者なんてのはどいつもこいつも同じなんだろうなって思えてくるよ。



だから私もそれがひどく気に入らないって感じてるような気がするんだろうね。


それは一時的な勘違いで成長痛みたいな物でしかないんだろうけど、


でも同時にそういう一見したら気持ちよくはない感覚も抵抗したり否定せずに味わっていける自分ってのはすごく素晴らしい物だとも感じられるんだよ😌🌸



もしかしたら私が本当に欲しかったモノってのはそれなのかもしれないなって思えるくらいに、


それはすごく“悪くない”感覚で、

むしろ“幸せ”なのかもしれないなって。





なんかそんなことを思ったりしてる。




そんな感じで私はまだまだわからないことがすごくいっぱいあるんだよ。


そしてそれはわざわざ探さなくても私の人生上では向こう側からやってきたりお導きとして受け取り拒否不可の属性付きで与えられるものなんだよ┐(´∀`)┌





私の生きてる世界とか道って非常~に内面的なものなんだよね。そしてそれこそが私が真に望んでいるものに相応しい必然の体験なんだろうなってわかってきてる。





強いて言うなら今の私の役割や使命とはこの道をこうやって辿ることだと言える。



その証拠に私の人生はすべてがそのために最適化された物だとわかるし。




それ自体は別に全然楽しいわけじゃないんだけど心の動きとか実感とか感動が乗るとすごく楽しかったり幸せだったりするんだよ。


それはすごく不思議なことだなぁって

そう思ってるんだよ今の私は。



そしてそういう在り方や生き方が本来の自分らしさってやつだったんだなって実感が起こってきているのです。

きっとそういう意味で今の私はすごく満たされていて幸せなんだと思うんだよ(笑)



抵抗も恐れも無くなったのなら目の前に示され与えられた道を味わい楽しみながら辿ることこそ究極の幸福と言えるのかもしれないなってそう思えるから。



そしてそれが完全に満ち足りて自分になったらまた違ったものが現れてくるんだろうね。





この世界ってのがそういうもの……

“波や揺らぎ”というものを必然の原因や結果とするのなら確かに私自身が揺らいだりするのもまた超自然なことなんだよなぁって。






だからさ、

ここまで来ると確かに、



この話はが書かせたのだ



とかいう、

一見したら超滑稽にしか思えないものも否定できないよなぁって、



この話における預言の書みたいな言葉↓


……本当に全部繋がってるんだろうなぁ。



あぁ、そういう感覚こそをサムシングスピリチュアルと言うんだっけね。



とかそんなことを思ったんだよ私は。



それは心の揺らぎとも言えるのかも。

はっきりしてるわけじゃないけど絶対に近い存在感や内なる実感のことだね。





……ここまでズブズブな感じになっちゃうとさすがにタグに白猫プロジェクトって入れざるを得ないなって思いました(*ノ・∀・`)


この流れがあったからこそ5年前くらいからなぜかあんなに大好きだったはずの白猫をほとんどやらなくなったのかと思うと感慨深いというか本当になんかすごいなって思う


サムシングスピリチュアルを感じるよ。




人生ってすげぇんだなって。

なんか新たな感動を感じる。



もしやこれがニューワールド!!(?)