(資料用遅延公開記事)深い癒しを求めたら必ずキリスト意識に行き着くって。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

いやぁ、

前回の記事は実にくだらなかった。

勝手に誰かを素晴らしい偶像として使うのはなかなかどうかと思うけど対象がノンデュアリティ民であれば別。


起こることは起こるし、

起こらないことは起こらない。


ただそれだけなんだろうし?



自分=ダメな人宣言みたいなもんですからねアレ(笑)

でも恐れを知らない自分の証明にはこの上ない題材だったと思うよ。


だって実際に私という人間像はそう感じたり考えたりしてるんだからそういう意味でホントで真実の発露と呼べる嘘偽りない自己表現だし。


私は自己承認欲求を満たしたいんだよ。

だからそれは自分以外の誰にも求めることなんてできるわけないしその判定や成否を審判するのも私。


それが個人としての私像なんだね★





  

そうしてノンデュアリティと赦し=悟りを得られた私はこの20年ほどの闘いを終えたのだとわかったのです。



これでようやく新しい人生みたいなのが始められるのでしょう😃✨



今の私は34歳。

14歳の頃から“この道”を進んできたのだとしたら今の私の人生なんてほとんどそれだけでできているんだろうなって思います。




しかしまぁそれも今となっては別になんでもいいというか思い出みたいなもの。



赦しとノンデュアリティで悟りを得ることができた私はようやく自分という存在感の全体像を把握できたに違いないのです。


何にせよこれで私は本物の自分とて存在することが可能になったのです。これほど嬉しいことは他にありません。





そんなことを感じながらふと思った、

もしかしたら思い出したのです。



そもそも私は普通に生きてるだけで幸せだったはずの自分を失ってこの人生の故郷だとか家族とかの繋がりや存在感が全く良い物ではなくなって安住の地を失ってしまったからそれを取り戻すためにいわゆる悟りを求め生きることにしたわけで。



それなら?

最終的に私は家族だとか生まれの地とかに戻って決着を付けることになるのは必然なんじゃないだろうかと。




私は、思ったのです。


もしも本当に私が悟りだとかノンデュアリティだとか無条件の愛だとかあるがままの自分で生きる術や叡知を得られたのだとしたら、


まず最初に自分の目の前の世界……特に家族だとかを救ったり解放することが一番最初の活動とか目的になるんだろうなって。




なんでって?



私が一番迷惑をかけたり犠牲を強いた対象ってのは私の家族で、


っていうかむしろ家族以外の人間には特に迷惑かけてないしもしあったとしてもカルマ的な清算は既に済んでるから。



だから私が負い目があるのは家族で、

もしかしたらそれと同じくらいに救ってやりたい(?)と思っていたのは家族なのかもしれないなと。



だって私、自分の家族を別に好きだとか思ってないもん。あんまりどうだったか思い出せないような気もするし……


もし白状するとしたら、

今の私が家族のことを好きだと考えるのはあまりに無理があり過ぎるから好きではないと考えておいた方が都合がいいだろうな。



くらいに思ってるんだと思う(?)。





もし私が誰かを愛しているのだとしたら

それに相応しい意思表示や振る舞いや選択ってのがあると私も個人的には思ってるから。


だから無駄に苦労させるような仕打ちを強いている気がする私がその対象を愛しているわけがない

そんなことをした私のことを家族が愛しているわけがない。



そりゃそうだろう?





……っていう思考回路が成立してる状態ではそれが事実なんだろうし、


いわゆる鏡現象……合わせ鏡的な原理でそのような私の潜在意識に書かれた思考を確認されるような体験をすることになるんだろうし。




それは実に不毛だと思うけれど、

しかし実際に私はそのような思考を持ったままでいるのだしだからこそそのような法則性から逃れることはできないし、


今の私はそれを当然のように思ってる。



……望んでるかどうかは全く別の話として、


事実そうなってる。



という話として、ね。





そしてそのようなもの……


特に家族との関係性の中にいくつもの条件付けな思考で無条件の受容とかじゃない真実的じゃない意識を見てると知ってる私は、

既にそれを越えて行ける可能性があるということでもある🌟



だってそれは事実だとしても、

別に私は思考でも潜在意識でもないし、

それを望んでるわけでもない。



……ならそれを越えていくことは別にそんなに難しいことじゃない。

だって望んでないって知ってるから😃☀️



……自分が望んでいるわけじゃない意識や思考をどのように解き放ち解放されることができるのかを知っているノンデュアリティ民であればそれは時間をかければ可能なこと。


たぶんできるけど

すごくめんどくさいこと



みたいな物だろうから(笑)






そうそう、

私の“こういう表現”と呼んだ物もノンデュアリティで赦しで悟りを土台とした意識になった時に初めて意味とか扱い方がわかるようになるんだね!!



だってこういう表現とか思考を垂れ流しにするようなプロセスってのは瞑想とか内観みたいな物としては別に何も珍しくないことだから。

むしろデイリートレーニングみたいな物だと言った方が正しい。



人間として生きてる限りは自我も思考も尽きることは無いんだろうし、別にそれがあったからって苦しむ必要もないし苦しまない術もわかったのならそれはそれで放っておけばいいだけ😃



そういう意味では見送るための思考ってのにそんなに強い意味を求めない方がよほど楽なんだと思う。





コレはただのデイリートレーニング。

それ以上にしなくてもいいもの。


毎日のストレッチみたいなもの。

それはそんなにも重要視しなくてもいいんだようし、むしろ淡々と日々確実に続けていくべきようなもの。


呼吸するようにそれができるなら、

呼吸だと思っておけばいいようなもの。



それ以上を求める必要があるのか?

→別に、無いと思う(ヾノ・∀・`)



確かに恐れが無くなって心が平安で居られたなら存在してるだけでいいとも思う。だってそのような状態になっても私として肉体や思考は勝手に動く(?)ような体験をするのだろうから。



在り方ってそういうことなんだね。



まぁそれは少し退屈な気もするけど、


完全性以外の何か……例えば退屈という感覚を認識したならそれも解放することを選ぶこともできるんだし(笑)



めんどくさいからやらない



……実際それをどのくらい後回しにせずに取り組むことができるかで自分を解放の人……聖者的な使い方をしてるかが決まるんだと思う。



だってめんどくさいじゃん?



死ぬほどの苦痛があるわけでもなく、

耐え難い恐怖があるわけでもなく、


なんか幸せじゃない感覚



というものを感じた時に、

一体どれだけの人間がそれを後回しにしないで自ら解放を望めると思う???



たぶん私の知る聖者業ってそういうことなんだろうなって。


誰かに認められるとか感謝されるとかなんかそういうもんじゃなくて、

本当にどれだけ後回しにしないで完全で神な方の自分に戻りたいと望めるのか?



そのくらいの違いなんだろうなって思う。



だから私も試しにファミリーカルマであろう物を僅かなサインや感覚を見逃さずに一生懸命に取り組んでみたんだけど、

(前回の記事を書く前に)


それを解放するために4時間とか2時間とかかかったし、

全然これで終わった気もしてない/(^o^)\





私も思うんだよ。


真剣に自分を解放すること……深い癒しを願い望んだなら必ず自分個人を癒すというよりも苦しみの根源を癒すとか解放することを望むようになるんだって。

有名な言葉では原罪ってやつだね。



前回の記事で大変お世話になったリリさんがこの動画の中でそれっぽい図を書いて説明してくれてます。

だから本当に深い癒しを求めた人間は必ず
キリスト意識に行き着くはずだよ。

私はそう答えます。
そうじゃないやつはモグリ。私の言う“本物”じゃないってことだと私はそう思ってる……私が自らに求めた判定基準を他者にも求めるとしたらね(笑)




……そうなんだよね。

いつからだったのかは私はあんまり認識してないんだけど、私は実際に


この世のあらゆる苦しみから逃れること


ってのを望んで“この道”に入った。

本当にそう認識してたんだよ。



……だからそれは必然として私が関わったり認識したりする誰かもある意味では

例外なく救うことが必要な道でもある。


ある意味では、だけどね?😁





だってそうなる。


私個人が心の平和や癒しを得られても、

ひとたび外側の世界や誰かを見ればほとんどの人間は癒されておらずこの世のあらゆる苦しみから救われてもいないとわかるから。


いわゆる人間関係ってことだね💡



だから私は次に、

そのような自分以外の誰かが存在するような世界に生きる自分として救われることが必要なのだと気付くようになった。



たぶんこの時点でもう個人としての救いだけを求めることは不可能だと理解してる。だから自分を越えたレベルで……例えば自分の家族や周りの身近な人間を同じように苦しみから一緒に救われることを目指すようになる。



上のあの動画はだいたいそんな流れを説明してるんだってわかる。



……突き詰めていくと、

やがてエゴである自分が苦しんでいるというか苦しみの原因そのものだとわかるようになるから、



必ずエゴである自分を解体し解放することを目指すようになる。

その構造を理解したら必ず。



……それを進めていくと、

確かに間違いなくもう個人の問題とか責任とかではない運命や宿命の道の上にあるすべてと結び付いたエゴっぽい不毛な意識から解放されていくことが必要になる。



その一例がファミリーカルマ。

……ご先祖様のいくない行いによって子孫である自分がそのとばっちりを受けるというのは極めて理不尽なことではあるけれど、


でもこの世界ってのは実際にそうなっていたりするし、アダルトチルドレンとかインナーチャイルド的なレベルで自分もその負の連鎖に知らないうちに巻き込まれてると気付くことがあったとしたら、



ただ先祖を恨んで生きるか、

先祖の失敗らしいものを自らが肩代わりするような状態になってでも不毛な連鎖を断ち切ることを望むのか、



それを選ぶことになる。



たとえ生まれる前のやり取りだとか自分にはどうしようもないレベルの物が原因だったとしても自分もその輪の中にあるのだと気付くのなら全く他人事ではないと理解できるようになるから。



エゴをより深層へと根源へと掘り進めていくってそんな感じ。



最終的にはどうせ必ず原罪に行き着く。



エゴを持つ限り自分は必ず苦しむ。

その自分みたいな意識こそが苦しみの原因だったのだから!!



……それを理解できた人間なら誰だって躍起になって必死になってそれをなんとかしようとするのは当然のことでしょう?



だって自分が自分である限りは無条件の苦しみの義務や権利みたいな呪いを受けてるような物なんだから┐(´∀`)┌



そんなの理不尽で不条理ってもんだよ。



……そこでまた同じ選択をすることになる。




……そんな自分が自分として認識された瞬間から無条件に付いて回る苦しみの原因こそが自分になってしまっているなんて自分の力ではどうしようもなく全く自分が悪いわけじゃない理不尽さそのものだったとしても、


だからってその苦しみをいつまでも続けたいなんて思えるわけがない。原因や理由がなんであれ不当な苦しみを受け続けることを許せるわけがないんだから。