だから今回私は「何かを求めて」これを書いているのだろう。
それが仮に自分の中に既にあるものだとしても、それが本当に自分の中にあるのだと知ることができる時までは、自ら求め、探すことは重要だし、きっと必要なことに違いないんだ。
では私は何を求めているのだろうか?
まず、そこからわからない(笑)
そもそも、何かを求めているのだろうか?
もちろん、わからない(笑)
それでいいんだ。
やがて知る時ってのが来たら、「わからない」であったものが反転……回転、する感じになるのだろうか。
だから、私は、それを既に知っているものとしてこれを書いていくんだ。それが今は必要なことだから。
これまではそのことを信じきれずにいた。
「既に知っている」なんてことを堂々と表現して宣言することができずにいたことを今の私は気付いている。
それは怖いことだったから。
でも、それは怖いというより、「させない」という感じだったのではないだろうかと今では思えている。もちろんそれが、本当に実感と共に理解できるようになるのは結果論だ。
「人間機構」としての自分を見ながら、それを別の視点から第三者のように俯瞰して見ることは不可能ではないはず。そしてその視点から自分以外の人と同じように「自分」であるものを見た時に初めて見えてくるものがある、
そんな気がしている。
そして多分、見るべきはその視点から見える自分と人生なのだろうと少しずつ思えるようになってきている。
(そうだったのか、)
だとしたら少なくともこの「私」であるものには二通りの視点が求められる。
そしてこれまで見てきたものは人間としての自分の肉体の眼を通して見てきたものこそが普通であり唯一の見方だった。でも今では少しずつ、もう一つの視点に気付き始めている。
それなら、その視点から自分と人生を見たとしたら、一体どんな世界が見えるのだろうか?
……少なくとも私はそれを知らない。通常気付いていないからだ。
少し、見てみようか。。。。。
………………それを見てどうするのだろうか?
「私」であったものが見える。スマホの画面を焦点の合わないやや虚ろな目で見つめて文字を入力している者が見える。
………………もし、それを見ているのが自分なら、見られている者とは誰なのだろうか?
さて、それは誰なのだろうか?
もつ一つの視点から自分である者と人生を見つめているその瞬間、見られている者とは一体何なのだろうか?
まずそれに答えを出す。
そして観察することだ。その視点からできることとは観察することだから。
よし、やろう。
「それは私だ。人間としての私だ。」
まるでその視点は自分の周りで見守る誰かの視点のように自分である者を観察することができる。そしてその視点から自分である者が行う行動や振る舞い、それにより生じる変化や現象などを観察する……人間としての自分を意識するかどうかは別として、何をしていてもしていなくても、常にその視点から自分と人生を見るという離れ業を体得することができたなら、もう一つの世界という可能性を知ることができるようになるだろう。
それが望んでいた「テーマ」だ。
喜べ、テーマが与えられたのだから後はひたすらに望む結果を得るべく試行錯誤を繰り返すのみ。もはや一本道となった人生に迷うことはあるまいよ……。
………………って言葉を自分の中に見た時にも俯瞰の視点をしっかりと保ち続けるんだよ?
できるかどうかはわからないけれど、その視点は多分、何か間違った認識を正すのにすごぉく役に立つと感じる。罪を捨て去り光を解放したその世界で、新しい自分が見るに相応しい世界ってのを見つけ出してもらうことになる。
それを見つけることができたなら、そこには必ずその意識に相応しい住み処となる世界が存在することになる。
人間として不完全に見える存在であることを受け入れることと、自らが完全無欠の存在として不完全性を受け入れないことは矛盾しない。
それがクリアされているのなら次は「自らが完全無欠の存在である」と信じるに値する自分を見出ださなければならない。
だとすればきっとそれは、「人間としての自分ではない自分」なのだろう。
さて、そのように論理が展開されたという所までは理解できただろうか。
では、「人間としての自分ではない自分」とは、一体どこに存在しているのだろうか。
ここでこれまでに垣間見た悟りの瞬間やら神秘体験ん?みたいな記憶が役に立つだろう。
そしてもう一つ気付くのなら、きっとそれは「もう人間としての自分の視点だけでは満足できないに違いない」という内側のメッセージだろう。
「満足できないかもしれない」ではなく「満足できないに違いない」だ。この二つはまったく違うことを意味する。
そこまでわかればいいよ。
今日から君は人間としての視点だけではなく、もう一つの完全無欠の何者かとしての世界を見出だすことなくして満たされることはないと気付いただけだからね!!
おめでとう。逆戻りさえしなければその道は祝福されたものであり続けるに違いない。
「自分」という認識を外れて俯瞰した所から見た時に初めて気付けるメッセージというものもこれまでにいくつも受け取っていたことに気付く……
なんてこともあるかもしれない(笑)
これまで「普通」に飽きた時にはとりあえず「奇跡」を選ぶという訓練を繰り返してやがて自然なものになってきたように、今回もまた同じように訓練を重ねて習得すればいいんだろう?
と思ってるあなた!!
それは結果論。
でも今求められてるのはそれじゃない。
何かをするわけではない以上、選択肢は行動では有り得ないのです。
「順番に進んできたはずなのになぜか理解が空白になってる所があってそのことが理解できない」などと思ってるあなた!!
違う、違うんだよ。だからそうじゃなくて、行動に過不足がない以上、少なくとも「必要な情報を得る」という部分にも過不足は生じ得ない。
だとすれば一体どこが違うというのか?
見方が違ってるんだよ。どんな部分でも一部を欠いてしまえば全体は成立しない。「少し意味不明な何かになる」なんてことはなくて、「まったく意味不明な何か」になってしまうんだよ。
この違いをよく覚えていてほしい。
そのことをわかりなさい。
正確に知ることを選ぶなら知ることになるから。
それならどうすればいいのかって?
↑に書いてあるでしょ。
新たに得た視点から見た時に初めて理解できるようになる情報ってのがあるかもしれない……って。
そのために積極的に人間としての自分から意識を外す!!
「意図的に意識を外す」こと、それが重要。
それでも人間としての自分は勝手に動く。
それはそれとして見ればいい。一つの存在として勝手に動いているものでも、それを自分として視るのか違う見方をするのかで何がどのくらい違うのかを知ってから出直しなさい。
以上!
追記
「何か人生に行き詰まった」と感じられることがあった瞬間に俯瞰した視点を使ってみるといい。それは今までのやり方では進めなくなったことのサインだから。何より必要だと感じた上でなら、ちょっと難しそうな選択肢でも飛び込んでやがては攻略してやろうって気概も湧いてくるってもんでしょう?
人間は合理的にできている……だとすれば、正しく論理が展開されたならそれを自然なものとして受け入れることもまた自然なことに違いない。
いつの間にか自分のものになっていた考え方を自分のものとして積極的に取り入れていくことは正に進歩と呼べる成果なのだから。
それを誇りに思えるのだとしたら、もう何一つ迷うことなんてないでしょう?
その時あなたは自分で道を決めて踏み出すことでそれが正しかったことを自ら証明したのだと知ることができる。その内なる調和をもっと大切なものとして扱いなさい。だから誇りに思いなさい。