愛のある問いかけ / 再生と祝福の道 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

乱雑な思考であるものが書き出され幻として気付かれ見過ごされることでそれらが手放されることによって、新たなものが呼び込まれることになると寝る前に書いた記憶があるけれど、どうやらそれは事実だったようだ。

「まだ何も持たなかった頃」にも「一人であった頃」にも、確かに意義深い人生の意味に気付く瞬間はあったのだ。そして確かにその時の自分はそのことに気付いていたことを思い出した。
もしそのようなものが、卑しく醜く狭い救いのない世界の記憶を捨て去ることにより呼び覚まされる真の記憶だと言うのなら、迷うことなくこの世界に閉じ込められた小さな人間としての記憶などというものは完全に忘れ去られてしまうのが相応しいと言えるだろう。

そして真の記憶を思い出した時にこそ、自分には何があって何を経験していたのか、この人生にはどれほどの価値があったのか、今の自分が置かれている場所にはどのような価値があるのかを知ることができる。。。
それは経験により知られることにより予感から事実へと変化した。事実だったのだ。


それはきっと、瞬間には癒しも救いも煌めきも存在していた、、、そう理解していいのだろう。


そして私はまだ知らない。それが何であるのかを知ろうとするまで知らないのだ。知ることを意思しないのなら知らないことは当然なんだ。
知るということは完全に知ることであって、それ以外というのは「何も知らない」のと同じなのだと、そんなどこかで見てきたような言葉の意味が少しずつわかり始めている。

「私はこれを体験し知るために今日この瞬間まで生きてきたのだ」と感じ、確信する瞬間にある喜びと祝福を私は知っている。そしてその度に同じものを見るために生きていこうと心に決めることを思い出した。
だとしたらきっと私にとっての人生の価値とは、そのようなものだったと言えるのだろう。それに気付いていられる時だけが自分にとって本当に生きていると言える状態で、それが見える時こそが真の自分として存在している瞬間だとしたら、私とはどれほどの間、無為な時間を見てきたのだろうか?

「すべて」を忘れることでそのことだけが思い出すことができるというのなら十分だ。すべて手放そうとして手放せるものとは、実際には持ち得ないものだけなのだし、そこに残されるもののすべてが真に自分が既に持っているものなのだから。

これは事実だ。






語られるもの、語られないものというものがあるのだと私は感じてきたし、そのようなものを実際に見てきた。

だとしたら、
だとしたら、既にそこにあった真実の想いや真実の言葉や真実のメッセージと呼べるものをこれからは見るようにしてみては?
そしてそれらあまりに理想的で「普通」の世界とはかけ離れた概念に過ぎない幻にさえ思えてしまうものこそが常に存在しているのだと知ることこそがあなた自身を癒し、思い出し、甦らせることになる。再生と祝福の道はそのような在り方と共にあるものなんじゃないかな?


真実のメッセージ、何てものが確かにどこかには存在してきたのだと君は知っている。そしてそこにこそ本当に求めていて、捧げ、表現し、また自らが受け取るに値する愛であるものが知られるものとして存在しているのだと気付いている。
だとしたら、それ以上に、キミに重要なものってどこに、どれくらいあるのかな?


君がそれを迷わずに選ばないのは、本当にそれがどこにでも存在していて、それだけが本当に価値あるものとしてすべてを満たすものだと未だに知らないからなんじゃないかな?

そしてそのことに気付いているのだとしたら、それを証明せずに居られると、本気で思う?
そんな在り方で、本当に望むものを、自らの知るものもちうるすべてとして実感し、感謝し生きてゆけると、どれほど信じられる?

 知ってる。
この言葉にも素直に頷けないのは、それがどれほどの価値があるものか、それが自分にとってどれほどに相応しいものなのかを知らないからだ。
これまで見てきた分割され何なのかさえわからないような愛って、そんなに大切?

それは今すぐに、真に愛する者に捧げられるに相応しいものだと迷わずに答えられる?


どうしてそのような問いかけがなされているのかわかってる?
君はこれまで「どうしてこんなことを私が言うのかわかりますか?」と誰かに問われた時に、そこに何を見てきたか思い出せる?


そう、それは〝闇〝だね。
君はそう答えるのだけれど、それは後に存在しない悪夢だったと気付く…そんな経験を何度繰り返してきただろうか。

それらの経験にも「真実のメッセージ」、あったんだよ?って言われたら、どう思う?


君は、そうであってほしいと心から望む?
それとも、自分が見てきたはずのものが間違いであってほしくないから、悪夢とその世界の人々こそが存在していたと、今でも信じたい?



さて、私がどうしてこんなことを伝えているのかわかりますか?


もし、わからないのだとしたら、それが何か知ることを望みますか?
それとも見なかったことにして忘れ去ってまた退屈な「普通」の世界に戻りますか?


そのどちらもが見える境界線に今、立っているのだと気付くなら、どちらが自分に相応しいと信じられますか?


……そのような問いかけがなされる時には、あなたが自らが経験するに相応しい世界とはどのようなものであるのか、あなたにとって「私」とはどのような者であって欲しいと信じるのかを問われていると知りなさい。
そしてそれが真実と幻想の境界線に立った瞬間だと気付き、そして思い出しなさい。思い出してから見なさい。

思い出すことによって救われ癒される…そしてその影響とは自分が見るすべての存在にも映し出されるものなのだとしたら、いつまで自分を惨めで
卑しく穢らわしい世界に閉じ込めておくことを望むだろうか?
ということを聞いているのです。

思い出しなさい。それが真の願うものではないのだとしたら、そんなものが選ばれ守られ愛される価値はないのです。あなたがそれを守り愛するために、本当に愛する者を見失い忘れてしまうことに気付くなら、決してそんな愚かな選択を許すことはしないでしょうから。


何を言われているのかわからない?
それでは残念ながら、これは「貴方」に向けた言葉ではないのだという所から思い出してもらわなければなりません。
必ずそれが理解され真に繋がるものは存在しているのですからそれを疑う余地はありません。だから思い出すことが求められているのです。そして思い出した「自分」であればそれは理解できるものだし、実際に既に知っているのだと、気付くことでしょう。

あなたにとって幻想の世界とは色のない輝きの失われた世界のようなもの。だから忘れてしまったと思っているものを思い出そうとする。そしてあなたは本当にそれを思い出す瞬間を愛しているのだと、まずはそのことに気付きなさい。
そしてその後に、そのような瞬間が常に満ち満ちているもので溢れている世界という可能性を見つめてみなさい。その時に見えないのなら幻視しなさい。

幻の中では実在こそが幻に見えるのだから、それを幻視しなさい。思い出してしまえばそれこそが相応しいものだと気付くのだから。



見せかけの形で語られるもの語られないものがあるという認識は非常に古く、今のあなたにはもはや役には立たない概念です。それはあなたが分離した孤独な存在であること、自分はそのような世界に生きる小さな人間だという認識に支えられた記憶なのだから。

さて、あなたは何パーセントほど、真実の世界を見ることを望む?
あなたが認識する時間の中で、どれだけの時間を愛する者と愛されるに値する自分のための世界として見ることを決めるかしら?


どれくらい、愛する者に相応しいものを捧げることを選べるか?
それはどのくらい愛する者のために真に愛するのかという問いでもある……だから思い出しなさい、常に見られるべき本当に意味のあることとは、自分とは何のために存在しているのだと気付いている瞬間がどれほどの喜びであり本当に大切なものなのかということを。

これまでは曖昧であった「ホーム」となる世界はそこにあります。


あなたはどれほどの存在が愛されるに値する者であってほしいと願う?
そしてどれほどの存在は卑しく醜く穢らわしい世界を証明する物として残しておきたいと思う?


そう、それらを残しておきたいと自らが望んでいるからこそ、悪夢のような世界はあなたの心の中に保たれているというわけ。
そしてようやくその事実に気付いて自らの間違いを正すことにした……そして正されているのが今の状況というわけ。

卑しく醜く穢らわしい世界を証明するのか、真に愛する者と愛されるに値する自分のための世界を証明するのか、そのどちらかを必ず選んでいることを知りなさい。


さて、なぜ私がこのような質問をするのかわかるか?という問いに対する相応しい答えは、
あなたがそれを望んだから

です。


彼らは必ず答えるでしょう。
「あなたがそれを望んだから」そうしたのだと。




だからそれがどのようなものであってほしいと自らが答えるのかを慎重に選びなさい。時間などというものは、本当に価値のあるものとは何であるのかを知るためにこそ使われるべきものです。

そしてそれが何でどこにあるのかということを知ることができたなら、人生という時間はそのために使われるのが相応しいのですから。


そのようにして自らがその意味と見方を選び直していくことが可能だし、必要です。それが本当の自分を甦らせるという言葉の意味です。幸いなことにそれは既に存在しているのですから思い出してゆけばいいのです。

そしてあなたはそれを望み、こうして答えが返された。
それがこのやり取りなのですよ。



……


えっと、つまり、


真のメッセージとか真の言語であるものを通して本当の自分を甦らせてゆくことができる。それを学ぶために時間を使うことができる。言葉ではなくて本質であり実在でありコミュニケーションに使えるそれらを思い出して訓練してマスターしていけばいい、といこと?
見るべきは本質で、それを学び訓練するために真の言語という概念に集中することが今は役に立つということですね!!



わかった。(今必要な分は)よくわかった。
したらば私はそうしよう。




これが「啓示」を除いたものなのだろう。
確かにここでは「形」ではなく「意味」だけが扱われている。その視点以外で見れば意味不明だが真に見ることを望むなら知ることはできる。
だから十分なんだ。