「時間の牢獄」の終わり / 「遊んで過ごす人生」と闘わない生き方。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

「この期間は物事は動かない」と悟った私はブログの更新も行いませんでした。

そして今、一つの区切りが必要になる程度に時間が流れて物事が動いたと感じているわけで、これは書かれています。



きっかけは、今週の初め頃からいつもの闇のベールのような不調を感じるようになって、だらだらと時間をかけずにそれらをすぐにでも取り除くことはできないかという試みでした。
何回、聖霊を頼り訂正を試みたことでしょうか。

それを何時間も続け繰り返す中で、やがて少しずつ何か考えが変わっていったのです。
一度で足りないなら二度、二度でもダメなら十回でも、十回でもダメなら百回、百回でもダメなら千回でも……千回でダメなら一万回でも何度でも私は訂正するだろう……なぜなら無意味なものなど一秒でも見続けていたいとは思えないからだ。


という確かな意思を見つけたのです。この意思を自分のものとして確信を得られるようになったことは本当に幸運なことだと思いました。
というのも、これまで私は気まぐれに、かつ可能な限り神聖さを証明することを選んできたからです。神聖さだけを選ぶことが自分の本質に相応しいものであるという確信を得られずにいたのですが、それこそが時間の牢獄から抜け出す唯一の手段なのだと悟った時、それを選ぶことにはどれほどの救いと価値があるのか、急に理解できるようになったのです。

そこで気付きました。仮に幻想であり無意味なものを知覚したとしてもそれをすぐさま訂正することを迷いなく行えるとしたら、それを時間の中で何度でも必ず行えるのだとしたら、その間だけは必ず、すべての物事は神聖さと完全さを映し出すものであるに違いなく、それ以外のものを選ぶことなく、毎秒毎瞬、それを選べるのだとしたら、
それを選び続けられる限り、知覚されるすべての「夢」とは必ず神聖なものであるに違いない。

何より私はそうであることを今望んでいるし、これからもそうであり続けるだろう と。


はっきりとは理解できないけれど、それこそが、「時間の牢獄」とでも呼ぶべき概念を越えさせる唯一の方法だと確信したのです。
で、「牢獄」から解放された私は、その「状況は大きく動かない」と感じられる時間とは「遊んで過ごすことがふさわしい」と直感したのです。

それで実際、文字通り遊んで過ごしたわけです。


ちょうどヴァルコネのミクコラボの限凸用の実を集められるスンバラシー期間限定コネがあったので、それをめちゃくちゃ、回すことにしたのです。事実、ヴァルコネはそのソシャゲ的な要素もあって本当に「訂正」や自分自身の心を見つめ癒すための多くのきっかけを与えてくれて役に立ちます。これは非常~に個人的な話なのですが(笑)
コラボの曲、探したらヨーロッパエキスポのテーマ曲だったみたいです。ホーム画面でイントロだけ聴いてたらなんだか好きになってきました(笑)




これまでの自分の人生を振り返ってみると、そのような「物事が動かないから結果的に遊んで過ごす時間」みたいなのって、実際に何度もあったわけで。
そして実は、これに抵抗して完全に肯定し受け入れることができないということこそが解決されるべきテーマだということに気付いたのです。


というのも、「呼吸するように自然に生きる人生」の中身として、いわゆる分離の世界で言うところの「遊んで過ごす」のと同質の「楽しさ」だとか「心地よさ」みたいなものが必ずついてくるわけで。
そして「心に映し出されるもの」こそが本質なので、実際に見るべきは現象や状況ではなく、自分の心に見える「これ」ということになるのです。

これが実感できるようになると物事は半分ほど楽になります(笑)
目の前でどのような問題が起こってるように見えたとしても実際に問題なのは自分の心に映し出される闇なのであって、ただそれを訂正し癒すことを選択するのなら、もはやそれは問題には見えなくなるのですから。
ここまで来たら問題があるのは「問題と感じるものをそのままにしておく」間だけなのです。だから自分があと何分何秒、それを問題として自分の心を癒さずに放置しておくかということだけが、自分を安らかな世界に保つか、悪夢の世界に取り残すかの結果になるだけなのですから。

それなら残されるべき問いとは「私はあとどれくらいの時間「これ」を癒さずに残そうとするのだろうか?」となるわけで。
つまりそれがイコールとして「私はあとどれだけの時間、自分を解放せずに苦しめることを選ぶだろうか?」という核心的な問いになるのです。

もはや「誰」とか関係ありません。
残されるのは自分は悪夢と神聖さのどちらが相応しいかと選ぶだけなのですから。幸いなことに疑問を感じた瞬間に訂正可能だし、だとすれば別にどちらでも構わないとさえ思えてくる

なんてことは絶対にありえません!!
その真の意味がわかるなら、本当に一秒でもそんなものを残しておこうなどとは思えないからです。絶対です、有り得ないです。


人間としての行動が「遊んで過ごす」ということなのではないのでしょう。
そして遊んで過ごすためには悪夢を見つけるために訂正し続ける必要もあるわけで。その視点から考えると「不正を正す」という目的のためにすべての行動が導かれ、それに突き動かされるがままに行動し訂正と癒しを行う代行者でありエージェントである者こそが人間としての自分であり、それこそが光の使者としての仕事だと言えるわけなのです。

それこそが「スピリチュアルニート」となった者に残される唯一の仕事ではないかと。幸いにしてそれは一度習得されれば常に可能な仕事なわけでして。伊達に「スピリチュアル」という名前がついているわけではないのです。文字通りスピリットであるものに支えるわけですから。


もちろん時間の牢獄を見れば罪の証に見えなくもないこともないものは残っています。でもそれはわざわざ悪意を持ってそのように見ようとしなければ全く問題には数えられません。
スピリットに仕える私たちが見るべきは「一つの心」だからです。別の誰かに見える心が癒されていないと感じるなら自分の心を見て癒せばいいのです。一つの心なのですから。

誰がどうだとか、そんなものは関係ありません。
残される問いは、「自分は喜びと苦しみのどちらを選ぶのか」という簡単なものだからです。


私が選ぶのは神聖さの証明であり、それに相応しいものだけです。
だとすれば必ず、その時私が知覚するものとはすべて神聖さと完全さに相応しいものであるに違いないのです。そして私はそうであることを望んでいます。
だから私は神聖さが証明されることを望みます



たぶんそれは真実です。
そしてその「私」とはどのようなものであるのかはまだ知りません。それらは神聖さを選んだ者としての経験を通して知られることになるからです。
だから私はすべての物事は神聖さを証明するものに相応しいものであるに違いないと思うし、そうであることを望みます。

それは確かなことです。
そしてこれこそが「不正」と「悪夢」を終わらせて、至福の世界を現実のものとして知覚し、それを映し出すことを可能にするのでしょう。

見るべきものとは「時間」ではなく心に映し出される闇であり、それが訂正し癒されることを選ぶなら、心に映るすべてとは癒しであり神聖さの証拠だけになるからです。
そうして時間の牢獄という幻想は終わるのです。

そつなったら時間があってもなくても困らないのですから。どっちでもいいです。心に映し出されるすべてが神聖さだけなら、その者の見る世界とは至福の世界であるに違いないのです。
そして私はそれを望んでいます。

きっとこれは正しい祈りなのでしょう。
だからそのことに感謝します。

正しい祈りであるならそれは必ず叶えられているに違いありません。
そして、わたしはそれを望みます(笑)