自我と私。 /「スピリチュアルニート」とは | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

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14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

(前略……)

私はあたかもそれに気付かないようにして、語られるがままに語られ、それが見破られるべき瞬間にそれを承認すればいいだけなのだ。だからこれらは取り消されるために書かれているのだ。よって、ここに書かれたような意味は実際には存在しないのである。


(……中略)

「あたかも自分のように語り文章を書いているように見える自我」というものをどのように扱うのかは長年の課題だったけれど、このような書き方をすると実にわかりやすい!!

そのような理由から、愚かしくて不浄で見るに堪えない自分に見える自我という影であり闇であるものは、名実ともに晒されその正体を見破られる必要があるのだ。
そしてその書かれたものや語られたものの正体である自我をどのように見るのかで結果は変わってくる。それが実在しないものとして見過ごされるのなら、もはやそれは見えなくなるが、それを自分と信じるのなら維持され残り続けることになるのだ。

それはなんのために見られるのか?
その時の自分であるものの選択が分かれ目になるんだ。そして自我を見破る術を持たないのなら、自分の外側に映し出されるものを見てそれをヒントとして学ぶしかない。その段階にあれば世の中を動き回り他人と関わりその中で学ばされることになるだろう。

そしてそれが終わって、真に自分自身を癒すことが必要になれば、外部の影響は最小限のものとなり、空間を移動したり多くの人間と関わるのではなく、ただ自分自身の心を見つめ癒すことができるための環境に置かれることになるだろう。

そうなれば肉体を自己とした幻想でありこの世界的な概念の最たるものである「仕事」や「お金」は意味を成さずむしろ全くの逆効果となり、真のコミュニケーションである「神聖な関係」を否定する「人間関係」という概念も置き換えられ取り消されるものになる。結果として自分自身を癒し真理を学ぶための状況下に一時的に置かれる者が「スピリチュアルニート」となるのだ。

さて、そのような者をスピリチュアルニートだと見るのなら、どのような評価こそが真に相応しいものになると私は信じるだろうか?
「考える」のではなく何を「信じる」のか。それが分かれ目なのだ。




☆以下本文

まだ叩ける(鉄は熱いうちに打て的な意味)ので、今が好機と見て続行。



……タイトル、何かの冗談なのか?
なんでそれ?
?????



(変な表現かもしれないが)

今のところ、私を証明するものとしてスピリチュアルニートである証拠となる物証が、神の子であるものを証明するものより圧倒的に多い!!
(やっぱり変な表現だと感じるのだが……どこだ?)
そして、↑の文章は全体的に物凄く「偽り」の気配を感じるのですよ。。。。。
(っていうか今の自分が書いてる時点では本質でない幻を見てるから全部偽りなのだけれど……)


一度気付くと「偽り」の気配って、あまりに異質で無視できないんだよね。


……多分その答えは、
本質は形ではないので物証なんて絶対に有り得ないから

だと思うのですよ。
………………つまり、もし仮にそれが本当だと信じるのなら、物証を信じる限りスピリチュアルニートであり続けるんじゃないかと、
私は、そう思うのですよ!!

(しかしこの愚かしい感じ、書いてるのが自分とはいえなかなかひどいレベル(笑)
ま、それはそれ、これはこれなんだけれど、必要なことなので継続


……っていうか、それ、今更すぎじゃね?
そんなの自分で何度も書いてたじゃん………………実は何も理解してないんじゃ……

(自我は何も学ばないし理解しないので当然なんだけどねー)



…………………………?
え?
??????
何が ?



頃合いかな……

ここに書いてあるように、これを自我は理解しないし気付かないし見ない。私は2つの自己認識をくるくると入れ替わっているのだろう。これが自然と書かれるものであり、どちらもの認識を記録していくとこうなる。
そして自我は自身の存在が疑われるきっかけが現れた瞬間に偽物と気付かれ見えなくなる……。

だとすれば、私はあたかもそれに気付かないようにして、語られるがままに語られ、それが見破られるべき瞬間にそれを承認すればいいだけなのだ。だからこれらは取り消されるために書かれているのだ。よって、ここに書かれたような意味は実際には存在しないのである。


そして私は書いていて気付いたのだが、この微妙~な感じこそが私のブログの「味」というものなのだろう。
それは実に微妙な表現だが、それゆえにその微妙さだけは伝わると思う(笑)


そして自我の自分として書かれた部分は自分ではないのだから無視していいのだ。もはやそれは何度も確認され、わざわざ時間をかけてそれが真実か幻かを確かめる段階はとうに過ぎているのだから、そんな時間の無駄は省くべきだろう?

さて、そのように「あたかも自分のように語り文章を書いているように見える自我」というものをどのように扱うのかは長年の課題だったけれど、このような書き方をすると実にわかりやすい!!

そのような理由から、愚かしくて不浄で見るに堪えない自分に見える自我という影であり闇であるものは、名実ともに晒されその正体を見破られる必要があるのだ。
そしてその書かれたものや語られたものの正体である自我をどのように見るのかで結果は変わってくる。それが実在しないものとして見過ごされるのなら、もはやそれは見えなくなるが、それを自分と信じるのなら維持され残り続けることになるのだ。

それはなんのために見られるのか?
その時の自分であるものの選択が分かれ目になるんだ。そして自我を見破る術を持たないのなら、自分の外側に映し出されるものを見てそれをヒントとして学ぶしかない。その段階にあれば世の中を動き回り他人と関わりその中で学ばされることになるだろう。

そしてそれが終わって、真に自分自身を癒すことが必要になれば、外部の影響は最小限のものとなり、空間を移動したり多くの人間と関わるのではなく、ただ自分自身の心を見つめ癒すことができるための環境に置かれることになるだろう。

そうなれば肉体を自己とした幻想でありこの世界的な概念の最たるものである「仕事」や「お金」は意味を成さず、むしろ全くの逆効果となり、真のコミュニケーションである「神聖な関係」を必ず否定することになる「人間関係」という概念も置き換えられ取り消されるものになる。結果として効率的に自分自身を癒し真理を学ぶための状況下へと一時的に置かれる者こそが「スピリチュアルニート」となるのだ。

さて、そのような者をスピリチュアルニートだと見るのなら、どのような評価こそが真に相応しいものになると私は信じるだろうか?
「考える」のではなく何を「信じる」のか。それが分かれ目なのだ。



……ということらしい のだが、
私はスピリチュアルニートの王にでもなるというのか?
(……「スピリチュアルニートの王」とか微妙~な言葉すぎてバロス/(^o^)\



実際の内容はふざけてなくても、大変ふざけてると思います(ノ・∀・)ノ
(むしろ私はふざけたい!!)


俺は、スピリチュアルニートの王になるっ (?)





……いやそれはない。
うん、それじゃない。