私は「自分」しか見ることはできない。 / こけおどし | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

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14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★


大丈夫、この記事こわくないよ?




………………真に自分自身のために行われることとはすなわち、神に捧げ(させ?)るということでもあるという話があった。。。。。


私は「自分自身のため」という枠を越えて、自分よりも誰かを優先して生きていける者になりたい、人間とはそうあるべきだと信じていたのかもしれない。
それこそが教えるということであり、導くというものだと信じていたのだろう。

……しかし、今となってはそれはもう古くて錆びて風化してしまった理想なのだ。3年前に(元)彼女に「苔が生えている」と言われた時と同じような状況なのかもしれない。
今の私が導かれ目指すべきものとは、そんな古くさい過去の記憶ではないのだと感じるのだ。


そのヒントが↑に書いたもの。


……そもそも、自分より誰かを優先して、そのどちらもが完全に救われることなどあるというのか?

そもそも、そんな器用な真似がおまえにできると本気で思っているのか?


……そんな声が聞こえるようだ。




だとすれば私が目指すべきものとは、
真に自分自身の幸福を追い求めるがゆえに、やがては本質の自己にたどり着き、いつのまにか受け取ったものを「自分自身」と分かち合うことができるようになっていた、
という在り方こそが相応しいのではないか?


私の世界に、「他人」というものは必要なのだろうか?
そもそも「他人」などというものが実在するのかは置いておいて、確かに言えるのは、私が目指す世界には「他人」という概念は不必要であり、それがある限り自分自身を完全な幸福で満たすという願いは決して完成しないのではないだろうか?



もし、この予感が正しければ、
私の世界に「他人」など必要ない。
すべての者は「自分」を映し出す存在になるだろう。

……だとすれば、私はその「自分自身」をどのように扱うのだろうか?
それは当然、自分を見るように誰かを見るし、誰かを見るのと同じように自分を見ることになる。


そしてそれは、はっきりとは気付かないだけでこれまでも行われてきたのではないか?
もし、この概念が通用する真理に属するものであったのだとしたら、私は真に自分自身のために生きることこそがすべての自分への祝福となり救いとなるのだ。。。。。


………………それ以上に素晴らしいものを何か思い描けるだろうか?
それができないなら、その最も素晴らしい理想を自らの願いとして実現していくことはとても喜ばしいものに違いない。

少なくともそこには犠牲はない。




しかしそれなら、私は自己認識を改めることを望むようになるだろう。なぜならスピリチュアルニートである自己を投影する価値などこれっぽっちもないからである。
そしてそれが可能になる「神の一人子」という概念もある程度知っているのだ。


「しゅくふくのみこ」とは、私固人の名前なのではなく、神の子であり完全に神の意思を現すことができるからこそ可能なのではないか?
そしてそのためには、「他人」というものは絶対に有ってはならない概念なのだろう。それが全一と神の性質をすべて併せ持つことを条件とするのであれば、分離は 絶対に有ってはならないのだから。


……「他人」という概念は邪魔になっているのだと気付いた。そして私は「自分」しか見ることはできない。

これを、人間の私ではなく、神の子としての自分が言っているのだとすれば、それは、まったく、違う意味の言葉になるのではないだろうか。


ただの自分勝手な発言であったものが、神の意思を知る者が真実を証明し、それを宣言している、完全な神聖さの発現なのではないか?



あれ?
じゃあ、これまで自分が見てきたものって……
(以下鳥肌とか「消滅の感覚」に注意)














 





それらは存在していなかった



という事実しか残らない。



え?
でも、ついさっき、ほんの数分前までは確かにあったんだよ????

え?



なにいってるんだ、
だって、↑に書いてあるじゃん。あるよ、あるんだよあるに決まってるだろ?
だって書いてあるんだもん。それが形として残ってるんだから、それを否定することなんて絶対に不可能でしょう?

そんなことしたら自分を否定してるってことになるんだよ?
その意味……わかるよね?

これは決して気付いてはいけないことなんだ。
わかるだろう?
だから今すぐに忘れるんだ。
いいね?







………………この感覚、知ってる。
本当に頭を強打されるような衝撃を感じることもあるショック。。。これこそが自我と同一化してる自分が消滅の恐怖を知覚してる感覚だ。
……書いてて鳥肌だよ寒気だよ恐怖だよこのブログこえぇーよ!ホラーだよ根元的な恐怖を感じるよ !!( º дº)!!!きええぇぇぇぇぇぇ マジでこえーよ!!



……というのを5分は続けただろうか。。。。。実に恐ろしかった。何度経験しても恐怖は恐怖。


しかもね、この相手に考える暇も与えずにとりあえずごちゃごちゃと大声でまくしたてて脅しておけばいいんだろ!?

っていう感じ、実に自我っぽい質感があって、なかなかリアリティー感じました( ̄▽ ̄;)
自分でやってて恐怖するこの謎さよ。。。闇になってるものを見る時ってこの感覚あるよね。


まぁね、その恐怖も味わい尽くすと、とくに何も感じなくなるんだけど、自我と同一視してるレベルが深いほど恐慌&混乱状態は深刻になるんじゃないかな。多分鏡に映る自分に「あなたは誰?」ってやるのと同質の現状。

たぶん奇跡のコースもね、同じ気配が強いんだよ。
だから準備ができるまでは恐怖で読めないか、何かが見えないって感じるんじゃないかな。






この記事、もう完了した?
わからない。でもボクは疲れたよパトラッシュ……
ってわけで寝よう。

……このブログこえぇよ!!
時期によっちゃトラウマかもしれねーよやべーよ!!

幻想なんで問題ないです大丈夫(  ̄ー ̄)
(自我はとりあえず騒ぐ、脅す、暴れる、そして混乱して狂気で狂喜することもある。)



一時的恐怖に陥った気がするのですよ……そんな時は明るいエナジー画像的なもので心をあたためてどーぞ。
背景にネットがあろうが夕日でも明るいよ。

しかしほんとに明るい……「虚無」で遊ぶとか手加減しておくれ。。。ボクも疲れたよ……。
一文目にも作意を感じるし。


ちなみに幻想と見切ってから↑の自我的な文章を読むと「ごちゃごちゃしていて意味不明でうるさいってことはわかる」って感じる。
闇を見る訓練には役に立つかもね(笑)