「啓示」は書かれない、その理由。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

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14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

書かれることと書かれないことがある。
その違いはそれが神の意思するものであるかそれ以外であるかの違いだ

というもの以外に(実際にはそんなものはないが、)


啓示は個人的な経験であるため、それを伝えることは不可能であり、それが役に立つことがあるなら、啓示を受けた者の態度や性質から知ることができるものくらい、
なのだそうな。


だから、私がいかにプリコネrの曲やら内容やらに感動して奇跡的な繋がりを見出だしたとしても、それは他の者には役に立たない話なのだ。
奇跡はすべての者に役に立つが、啓示はそれを受け取った者と神とを直接繋げ時間を越えさせるものであるため、それは表現不可能なのだ。


だから、それらこそを私は自分のための話やらただの趣味として語ればいいのだろう。
つまり、テラ自己満足☆ である(笑)


そして啓示を知る私が求めるべきは奇跡ということになるのだろう。それは計らずも時間を越えられずにいる私には必要なものだと言えるのだろう。


……そもそもがこのブログとは啓示を受けるためのものであり、奇跡を成すための手段とはしていないのだからテラ自己満足なのは当然なのだ。だからそれ以外の何かが見出だされるのだとしたら、それは私の知らないことで起こるものであり、私はそれを認識することはないだろう。

分離を見るならそんな私は孤独でしかない。
しかしそんなものは見破られるべき幻想であり、自分が目的とするものでないことも知っている。だとすれば、私はこれらに何を見出だしていくことになるのだろうか。

………………もし私がこのブログも神聖さと完全さを知るためのものとして捧げるのなら、それは実現しこれらの真の価値を知ることができるのだろう。


いや、それなら、それしかないじゃん。
そんな誘導尋問みたいな文章書かれても…/(^o^)\


そうか、私は神聖さと完全さを知るための術としてこのブログを捧げてはいなかったのか。
…………………………………………そんなことが可能なのか?

それを知るためには実際に行ってそれを目撃するしか証明する術はないのだ。
なら、そうすることになるな。
うん、それが私の目指す在り方に相応しい。

同意しよう。そして許可しよう。
私はこれよりこのブログを神聖さと完全さを知るための手段とする。よって私がこのブログが何のために書かれるのかと問われるとき、それがこの答えになることを認めよう。

だとしたら、本当に、他人に見える者も、自らの神聖さと完全さの証人として見ることだけが相応しい世界観になるのだろう     
……………………………………………………………………やがてそうなるものを、今受け入れるか。引き伸ばすか?
「私はどちらを意思するだろうか?」


決まってる。
わかった、神聖さの証人として見ることにする。
それは私が意思するものであるがゆえに必ず成されるし既に成されているだろう。


だとすれば、それに感謝することが私の意思になるのだろう。


それなら、私は、神の証人となり、癒しと奇跡を受け入れる者になるのだろう。


なら、そうなるのだろうな。
私はそれを実際に体験し目撃するものを見て信頼していくことにしよう。この私に求められているのはそれくらいのささやかな意欲だけなのだから。