インスピレーションと理解が起こりました。おそらくこのようなものを啓示と呼ぶのでしょう。
私がなにかを見る時、それが私なのです。
誰かを見る時、それが私というものになるのです。
これは認識の話なのです。私が目にするもの知覚するものすべてが、即ち「私とは何であるのか」という問いであり答えになるのです。
つまりそれが真の原因と結果の法則なのです。自分が望むものを見る時、それが結果となるのです。
それが人間であり誰かであるなら、それを肉体や身体として見るか、はたまたスピリットでありただ一つの存在であると見るか。
つまりそれが自分とは何者であるかを選択するということになるのです。そしてそれに相応しい経験をすることになるのでしょう。
肉体を見るとしたら、そこには不完全さが映り、死へと向かう人生を見ることになります。
霊として見るとしたら、不滅で永遠であり完全なる力であり光であるもの、神であり愛であるものを自分として認識することになるのです。
ここに叡知があるのです。望むものを見ることを原因とすることで=結果とする。これ以上のものはあるのでしょうか?
私はこれを常に覚えていられるようにする必要があります。私が何かを認識する時、それが私なのだと。
そして、死と恐怖に支配された世界を望むわけではない以上、肉体ではなく霊であるものを見ることが目指すものだと理解できてきたのです。
キリストのビジョン……なんて表現をされると遠い世界の話みたいに思えるけれど、肉体ではなく霊であり神である性質のものだけが見えるというなら、なんとなーーーーくわかります。多分啓示として受け取ったイメージ映像がそれなのでしょう。
そしてこのことがわかる時にようやく理解できたと感じたものがあるのです。それが「お金」であり、これまでにも「お金は身体である自分にとっての神(の力)を象ったものだ」というインスピレーションを受け取っていたのですが、つまり自身を肉体とする限りどうやっても「生きる」ためにお金が「必要」となり、そして生きるということはその果てにある死を受け入れるということになるのだと。。。。。
であるなら本当に「お金」というもの、マネーゲームから真に抜け出せるようになるのは、自身を肉体ではなく霊でありスピリットであると知ること、すべての存在はただ一つの力によって生み出されていることなどを完全に知ることができた時なんじゃないかと。
思うのです。幻想であるものを見破りそれを超越するという選択が可能になるのは、どれほど違うものに見えたとしても、それがただ一つの同じものなのだと知ることができた時が幻想と真実の境界面になるのではないかと。
どれほど違うものに見えてもそれは必ず同じものにたどり着く=同じものだということ、そしてそれは実体のないものだと知った時、そこには本質的に意味がないということが誰でもわかると思うのです。そしてそれは幸いなことに?実相であり真実であるものが全一であり同じ一つのものだと知ることにものすごく役に立つと思うのです。
だから、そこが幻想と真実の境界面になる、そういうことなのです。その時、初めて無数の数えきれないほどの個別のものに見えていたものが、たった2つの選択でしかないのだと理解するのでしょう。
そうしたら後は簡単です(笑)
それを選ぶのが難しいと感じることはあっても、自分が幻想か真実のどちらかにしか居られないと知ることができたなら、もう幻想に居続けることは非常に困難だと感じるだろうから。
幻想の性質と正体を見破ることができたなら、それがどのように生み出され、どうすることでそれを選択し体験することになるのかを学ぶ余裕も出てくるのでしょう。その頃には相応に統合も進んでいるのでしょう。
幻想は幻想でしかないけれど、それらが完全に消え去るその日までは確かに順序というものが必要なのですから。私は時間を超越していないのでそこはまだ詳しく知らないのです( ^^)
実相世界の扱いはまだまだ謎だらけです。それだけを実在としたら、それ以外の幻想であるものはすべて吹っ飛んで消えてしまうからです。
だからそれらをどのように扱えばいいのか私はまだまだ理解していないのです。
自分が間違っていると知ることによって、すぐにそれを正すことができます。
自分が知らないと気付くことによって、そこから真に学ぶことができます。
私は自分が真に何を望んでいるのか知らないと気付くことによって、それを知ることができます。
私は自分が何を見たいと望んでいるのか知らないと認めることによって、それを教えてもらうことができます。
無知は罪ではないのです。
神の審判とはいつも同じもの、実在のないものは存在していなかったので元々存在していたものだけが事実であり過去であり現在であったとするだけなのです。
人間は神に似せて創造されたものという話、その意味が正確にわかるとすごく面白い( ^^)
その上で認めましょう。私は神ではない。ただ同じ力がそこにあるだけなのです、実在するものはそれだけなのだから。
よって、神であり愛であるもの、完全なる力であり光であるものだけが存在するものとなり、「愛と光」だけが実在するすべてということになるのです。
ようやく愛と光の意味が理解できたよ~
理解できたら否定する余地はない。全一だし完全なものを否定できるわけがない。そんなもの「光」によってかききえてしまいますですよ!!
終わり