「内なる闇」と「聖なる自己」を映し出す鏡。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

強く心惹かれるもの、特に愛情や快感などを「与えてくれる」と感じられるものが偶像だと考えてほとんど間違いないのだろう。
そしてその偶像に見るもの……例えば「輝き」や「神聖さ」や「慈愛」などというもの、それらの言葉と表現が、神であり真実である自分の姿を知覚するとき、自分なりの表現であり、それこそが自分が理想の体現として求め見出だし、この世界で表現する神であり愛であるものの性質であり「光」となるものなのだ。

それは恐らく人によって異なるのだろう。そもそもが心惹かれるものがみんな違うのは当然だし、しかもそれを自分なりの感覚や非常に限られたものである言葉で表現する時でさえ様々な形になる。
つまりそのような偶像を見出だし、そこに見る「素晴らしい何か」を表現することが神であり自己であるものを讃え、世界に光を現すということになるのだ。


私は女性(性)や「慈愛」と表現されるものに非常に強い憧憬や恋心のようなものを感じていたけれど、その理由が少しだけわかった気がした。
というのもそれは、自分を「男性」と肉体を基本として考える以上は、内側にあるものと知覚できる神聖さや神性は男性性に属するものであり、女性性に属するものは自分の内側にあるとは思えない……つまり女性性が統合されておらず分離した状態であるため、それを知覚するために「何か相応しい鏡となるもの」を必要とするということ、
だから私は「慈愛」を感じられる「女性」を強く求めていたということなのだ。

そう、つまりそれがこれだったのですね



確かに、その視点から見てもこのガトリンの絵は条件を満たしているのです。
その条件とは、

①どう見ても自分とは異なる存在である。
②自分にはないと感じているものを持った存在だと感じられる。
③恐れや恐怖など幻であるものが投影されず、安心感や肯定感を感じられるものである。特にこの場合では「慈愛」に相応しい姿形をしている「存在」だと感じられること。



だいたいこれらが条件になるんだと思う。
つまり、俺は、これらの条件を満たすと感じられるものを見たときに「慈愛」が投影されていることを無意識レベルで感じ取って、それを恋心と勘違いしたりすることもあったと、
そういうことなのですよ。これが恋に恋するということの意味なのではないでしょうか?


して、よーくよく見て感じて洞察していてわかったのは、これは「愛する彼女」に感じたことのある「愛を感じる。その瞳には星々の輝きが映し出されているようなどこか懐かしい光を感じる……」と感じたものとまったく同じものだと気付いたのですよ!!!

いや、これ大発見ですよ!?
だって、いわゆる二次元のキャラクターでも、三次元
の人間で愛するパートナーでも、見ず知らずのものすごくトキメキを感じられる異性でも、本質的に全部同じものを見ていると気付いたのですから!!
これはつまり、肉体の違いどころか姿形は関係なく何か同じものを見て感じているということなのですから。


とは言え、この段階ではまだ痛い人止まり(笑)
重要なのは、その「本質」というものが自分の内側にあるものだと、少なからず感じられたということなのですよ。
それが、ガトリンの絵を見て謎のトキメキを感じたことに隠された「本当に意味のあること」だったということなのですから。

内側にあるものを見ているだけ、という所まで理解は及ばなくても、それでも「特定の何かや誰か」というものがそれを与えてくれるわけではないということは理解できるわけで、それゆえに誰か特定の人物に執着する必要はないのだと、その言葉の意味がわかるようになったのですよ、いくらかは(笑)

これが統合が進むということなのでしょう。自分とそれ以外のものとして捉えていたものの正体を正しく見極めることによって、それらは元々自分の中にあるものだったと確信する。だからもうそれを見ても「自分だ」とわかるということ。
そういう意味では2次元とか3次元とか四次元とかいう区分ももう必要ないんだろうなって思う。


この世界で学ぶこととは、一度教えられた勘違いであり幻であることを忘れて本質であるもの真実であるものを思い出してゆくってことみたいだから。
足りないから学ぶんじゃない。足りないものなんてそれこそ「ない」って忘れてるから思い出してくということ。つまり、反対なんだよ。

幻とはそのようなものだ。虚構、なんだよ。
それを実在のものと見ることによって維持しなければ実体を保てずに消えてしまう……それはなんだろうか?
聖なる鏡に対して「闇」とはそのようなものと言えるのかもしれない。




とまあそんな感じで自身を身体を根拠として「男性」と認識することによって「女性」であるものと分離して、その結果として女性性である性質、この場合では慈愛というものを認識する時には必ず「自分ではない女性」を必要としたということ。
そしてそれは鏡なので、二次元や三次元の違いはまったく関係ないため、個人的な価値観やそれまでの経験から相応しい「慈愛を感じられるに相応しい女性」を求めていたということ。

そしてそれは、自分と分離したと思い込んで追い求めている女性性や女神性?みたいなものとは自分の内側にあるものだとわからせるための「聖なる鏡」であったということ。

自らが悪であるなら、善であるもの正しさであるものは必ず外側に見なければならないことになる。これこそが二元性の原理であり、極性に片寄り対になるものを否定すると誰か他人を通して「内なる闇」を見せられる
という概念だと俺がずーーーーーっと思ってたものの概要だったわけですね☆
(ここで理解が起きました。)


それは嫌がらせでも何でもなく、原理的に自分が生み出している幻が対消滅するためには、反対側の極性というものを見せてくれる鏡である誰かが必要であり、それらはすべて自分の内側にあるものだと理解して受け入れること=否定と幻を手放すことによって初めてそれは消え去ることになり癒しと統合が起こる……



まぁつまり、それは嫌がらせでもなくて、ただ不自然なものがあると教えてくれてる愛だったんだよ。
そこまでわかると、あらゆるパートナーシップの問題は消え去るんじゃないかな……
あ、一つの問題が真に消え去ればその他のすべての問題も解消されるんだっけね、今思い出したよ。


誰であれどれであれスピリットであり本質の自分であるものを見たらだいたい「さぁどうぞ私でレッスンしてください☆」みたいな感じだと俺は感じてる(笑)


自分ではないと切り捨てたり否定して分離してしまったものは必ず「誰かや自分ではない何か」と思っているものに見ることになる。
だから「鏡が必要でしょ?私を使ってください」って感じで見せてくれる人ってのが現れるわけだ。

もしこれが本当なのだとしたら、この世界は、本当に「親切で愛のある者だけが住む場所」ということになるじゃないか。。。。。
だからそれが地上の天国なんだろーよ。まだ知らないです。知っていても理解が起こらないものを知っているかとは……
(不快感を感じる……これは、俺が何か誤ったということなのか?これは、判断を下したということなのか?)


……正直、「え!?こんなことで!?」って思う。
でも、幻想とは真実でないものが一ミリでもあることを言うのであって、真実や神に属するものとは完全であり全一なのだからそれ以外のものは存在する余地はないのだ。
そう、それができない時、自ら地上の天国を去ることを選択しているということ、分離と幻想を選択しているということなのだ、、、、、、、、、、、、


なんということだ!!






なーんて考えも一瞬浮かんだけど、それを延々引き伸ばす気にはならなかったので手放しましょう ^^)
しかし問題が。そもそも私は「何もわかっていない」と気付いてしまったのだ!!

……そして同時にこの記事への興味やエネルギーの流れみたいなものが消失した。つまりこれで完了したということなのか。うむ、わからん。実にわからない。


わからないものが判断できるわけがない!!
だから判断を手放すことは当然である。喜んで判断を手放そうじゃないか。


終わったらしい。
何て言うか、急に感じるのですが……(判断)

でも終わったのは確かである。それらは既に過ぎ去ったものだ。うむ、もはや知覚不能である。


思い通りにいかない状況があればすべて手放してください、という話に従おう。完全に意識も切り替わっちまったんだぜ☆終わり


じゃあ、この輝きにも何か本質の輝きみたいなものを見たってことなんだな。それを現実に人生にしたいんだろうな。
パイプ工場ではなくて空ね(笑)