「全体」を観る目
快という 一方だけを経験し、不快という もう一方を経験しない、
ということは 本来あり得ない。
快と不快の 両方が揃っているのが、「全体」である。
いつも全体を意識し、 「鳥の目」 のように高いところから全体を観ていよう。
全体を観る目(マクロで 非二元の視点)が必要だ。
「識(自我:エゴ)」 には、断片(部分)しか見えていない。
コインの表が見えているとき、隠された裏が見えていない。
瞑想的な意識(マインドフルネス)だけが、全体を観ることができる。
それは、月に行った アポロの宇宙飛行士たちが
「青く丸い地球の全体の姿」 を見たときのような視点のことである。
「わたし」にとっての快/不快が 「他者」にとっても 快/不快であるとは限らない。
「わたし」 が好ましいと感じること・ものを、他者に押しつけてはいけない。
「わたし」 が正しいと信じていることも、 所詮 「わたしの好み:快感覚」 に過ぎない。
だから、他者に押しつけてはいけない。
他人ひとは ひと、 自分は じぶん。 家族でも 他人はひと、 自分では ない。
わたしと他者の両方を含めた全体を、いつでも 意識しているようにしよう。
快と不快を 等価に味わう(中道)のが、(本来の)生きるという経験である。
(一時的な)苦しみ(苦)もあり、(一時的な)喜びもあるのが人生であるが、
「苦悩」 をなくすことはできる。
苦しみを避け 喜びに向うのも自然であるが、
それに価値判断を加えて 囚われて 否定と追求を循環させて 執着する
ということがなくなれば、 苦悩はなくなる。
「全体」を生きることができれば、そこには「苦悩」は 存在しない。
悟った生き方とは 不快(/快)な経験がなくなることではなく、
不快(/快)な経験をしながらも ただそれを感じ、
「否定(/追求)の循環」という反応につなげない、
「苦悩」 の存在しない生き方である。
「全体」を観ることができれば、無理に または 過剰に
不快(という部分)を否定したり 快(という部分)を追求したり する
「(反射的な)反応」 がなくなるので、 苦悩はなくなる。
「苦」 である不快な経験を避けようとすることが 「苦悩」 を創りだすメカニズムだと知っていて、
不快な経験自体(の意味)も 本来は ニュートラルで 「空」 であることも知っているので、
経験に対する解釈(ジャッジ)を 変える・保留する・しないことで、反応しないでいられる。
「全体」 が観えれば、 「解釈」 は自由自在になる。
「全体」が観えれば、世界の見え方が変わり、 対処の仕方も変わる。
そして、「現実の見え方」 は 自分で変えることができる と知ることが目覚めである。
目覚めると、見える現実の範囲が 全体に向かって広がり、
意味づけが 柔軟になり 世界の見え方が 変わる。
ものごとに動じるか 動じないかの違いは、この見え方次第だ。
この見え方をコントロールできれば、 心は いつも 「落ち着いて平穏で」 いられる。
解釈が「不快を悪」と決めつけ 否定の気持ち(瞋)を生み、
それが苦悩を引きおこして 永続(循環)させている。
目覚めると、その解釈が変わる。
「不快」 を 「悪」に変換することで、
直面しなくてはならない 不快な経験【苦】から逃げ続けていてはいけない。
「不快」 もまた 当たり前な 「全体の一部」 であり、
「一時的なもの」であることを 知っていれば、 受け入れることが できるだろう。
受け入れることができたなら、それは 「悪」 などではなかったことを知るだろう。
起きた出来事自体でなく 出来事に対する解釈が、「幸 / 不幸」を決めている。
それが分かれば、二元的な 幸/不幸の視点を超えることができる。
二元的な視点を超えれば、受け入れることができる。
誰だって、 自分と世界は「善い人・善きもの」 であって欲しいと願っている。
自分と世界の中に 悪しきものなど あるはずがない、あってはいけない、
あったとしたらなくなって欲しい、 なくしたい・良きものに変えたいと欲している。
それが 幸せへの道だと思っている。それが 行の想い・願いだ。
トライするのは構わない。でも 無理なら諦めよう。そして よく考えてみよう。
「善い」と考えていたものは、本当の 本当に 「善い」 ものなのか?
それは、 単なるストーリー ではないのか?
あなたが 勝手に創りだした「意味」に過ぎない のではないか?
「全体という立場」 に立ったとき、 一方的に「善い」 とか 「悪い」 とか 言えるものだろうか?
「特定の限定された立場」 でのみ、「善い/悪い」 が成立するのではないか?
善いとか悪いというのは、「特定の限定された側面」 だけを見ているのではないのか?
思い出そう、「あるがままの全体」 に 意味などないのだ。
そして そのうちに、トライするのがバカバカしくなるだろう。
善きものに変わるものであれば 時が来れば 変わる。 変わるときには 変わる。
わたしたちの意図とは関係なく 流れの中で 変わる。 変わらないものは 変わらない。
流れを妨げない【無為】ことが肝心だ。
「全体」という立場に立ったとき、「受け入れる」ことも容易になる。
「不快」 を ありのままに受け入れてこそ、 「全体」 を 受け入れることができるのだ。
「全体」 を観る目 とは、あれかこれか 善か悪か 優か劣か という
二元の視点を持つ 自我を超える 「非二元・空くう」 の視点のことである。
この視点を得れば、心は いつも 「落ち着いて平穏で」 いられる。
(最終改訂:2022年11月14日)