色即是空 (8)全体を観る目(PC版) | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

「全体」を観る目


  快という 一方だけを経験し、不快という もう一方を経験しない、
                                                                       ということは 本来あり得ない。
  快と不快の 両方が揃っているのが、「全体である
  いつも全体を意識し、  「鳥の目」 のように高いところから全体を観ていよう。

  全体を観る目(マクロで 非二元の視点)が必要だ。
                         「識(自我:エゴ)」 には、断片(部分しか見えていない

  コインの表が見えているとき、隠された裏が見えていない。
           瞑想的な意識(マインドフルネス)だけが全体を観ることができる

  それは、月に行った アポロの宇宙飛行士たちが
               青く丸い地球の全体の姿 を見たときのような視点のことである。

「わたし」にとっての快/不快が  「他者」にとっても 快/不快であるとは限らない。

「わたし」 が好ましいと感じることものを、他者に押しつけてはいけない。
「わたし」正しい信じていることも、 所詮 わたし好み:快感覚 過ぎない
  だから、他者に押しつけてはいけない。

  他人ひとは ひと、  自分は じぶん。    家族でも 他人はひと、  自分では ない。

  わたしと他者の両方を含めた全体を、いつでも 意識しているようにしよう


  快と不快を 等価に味わう(中道)のが、(本来の)生きるという経験である
(一時的)苦しみ(苦)もあり、(一時的)喜びもあるのが人生であるが、
                                                                       「苦悩」 をなくすことはできる

  苦しみを避け 喜びに向うのも自然であるが、
  それに価値判断を加えて 囚われて 否定と追求を循環させて 執着する
                                                          ということがなくなれば  苦悩はなくなる

全体を生きることができれば、そこには「苦悩は 存在しない


  悟った生き方とは 不快(/快)な経験がなくなることではなく、
                                              不快(/快)な経験をしながらも ただそれを感じ、
「否定(/追求)の循環」という反応につなげない、
                                                                「苦悩」 の存在しない生き方である。

全体を観ることができれば、無理に または 過剰に 
  不快(という部分)を否定したり 快(という部分)を追求したり する 
                                   「(反射的な反応 がなくなるので  苦悩はなくなる

「苦」 である不快な経験を避けようとすることが 「苦悩」 を創りだすメカニズムだと知っていて、
  不快な経験自体(の意味)も 本来は ニュートラルで 「空」 であることも知っているので、
  経験に対する解釈(ジャッジ)を 変える保留するしないことで、反応しないでいられる。
全体」 が観えれば、  「解釈」 は自由自在になる

「全体」が観えれば、世界の見え方が変わり、  対処の仕方も変わる。
  そして、「現実の見え方 は 自分で変えることができる と知ることが目覚めである。

  目覚めると、見える現実の範囲が 全体に向かって広がり、
                                                        意味づけが 柔軟になり  世界の見え方が 変わる

  ものごとに動じるか 動じないかの違いは、この見え方次第だ。
      この見え方をコントロールできれば、 心は いつも 落ち着いて平穏で いられる

  解釈が「不快を悪」と決めつけ 否定の気持ち)を生み、
                                                 それが苦悩を引きおこして 永続(循環)させている
  目覚めると、その解釈が変わる。

「不快」 を 「悪」に変換することで、
              直面しなくてはならない 不快な経験【苦】から逃げ続けていてはいけない

不快」 もまた 当たり前な 「全体の一部」 であり
     一時的なものであることを 知っていれば、  受け入れることが できるだろう。
       受け入れることができたなら、それは 「悪」 などではなかったことを知るだろう。

  起きた出来事自体でなく   出来事に対する解釈が、「幸 不幸を決めている
  それが分かれば、二元的な 幸/不幸の視点を超えることができる。
                                         二元的な視点を超えれば受け入れることができる


  誰だって、   自分と世界は「善い人・きもの」 であって欲しいと願っている。
  自分と世界の中に   悪しきものなど あるはずがない、あってはいけない、
  あったとしたらなくなってしい、 なくしたい良きものに変えたいと欲している。

  それが 幸せへの道だと思っているそれが 行の想い・願いだ。

  トライするのは構わない。でも 無理なら諦めよう。そして よく考えてみよう。
「善い」と考えていたものは、本当の 本当に 「善い」 ものなのか? 
  それは、  単なるストーリー ではないのか? 
                         あなたが 勝手に創りだした意味」に過ぎない のではないか?


「全体という立場」 に立ったとき、 一方的に「善い」 とか 「悪い」 とか  言えるものだろうか? 
                            「特定の限定された立場」 でのみ、「善い/悪い」 が成立するのではないか? 

  善いとか悪いというのは、「特定の限定された側面」 だけを見ているのではないのか?  
                                              思い出そう、「あるがままの全体」 に 意味などないのだ。

  そして そのうちに、トライするのがバカバカしくなるだろう。
  善きものに変わるものであれば  時が来れば 変わる。  変わるときには      変わる
  わたしたちの意図とは関係なく  流れの中で 変わる。  変わらないものは  変わらない
  流れを妨げない【無為】ことが肝心だ。


 「全体という立場に立ったとき、「受け入れることも容易になる
 「不快」  を ありのままに受け入れてこそ、    「全体  を 受け入れることができるのだ。

全体」 を観る目 とは、あれかこれか 善か悪か 優か劣か という
                      二元の視点を持つ 自我を超える 「非二元・空くう」 の視点のことである
  この視点を得れば、心は いつも 「落ち着いて平穏で」 いられる



(最終改訂:2022年11月14日)