アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
新 幸せになる勇気
愛 その2:親と子
人生における最大の選択は「愛」である。
【ほんとうの愛の理解と そして実践は、 ・・・生易しいものではない】
愛する人生を選べ(続き)
哲人 愛と自立の関係を考えるとき、 避けて通ることのできない課題が 親子関係です。
生まれて間もない子どもたちは、 自分の力で生きていくことができない。
(母)親という他者の、 絶え間ない献身があって ようやく命をつないでいく。
「わたし」の命は 親に握られていて、 親に見捨てられたら死んでしまうわけです。
したがって、親に依存しながら 生きていくしかありません。
【配偶者は選べるが、親子関係は選べない】
子どもたちは、 その状況を理解するに十分な知性を持っています。
そして あるとき、彼らは気づくでしょう。
「わたし」は、親から愛されてこそ【すなわち 他者・社会から承認されてこそ】
生きていくことができるのだと。
そして ある時期になると、
子どもたちは この状況を基にして 人生で最初のライフスタイルを選択します。
【岸見さんは10歳前後と言っているが、 アドラーは 4〜5才と考えていた。
多くの人は この時に選んだライフスタイルを基にして 自立し、社会に適応し
社会の中に 自分の居場所をつくり上げる。
しかし やがて そのライフスタイルでは 幸福感を得られないことに気づいて、
第二の ライフスタイルを 模索することになる(ミドル・パッセージ)
気づきもせず、したがって 模索することをしない人も 同じくらい大勢いるが…】
自分の生きるこの世界は どのような場所であり、
そこには どのような人々が暮らし、自分は どのような人間なのか。
そこで、どのような関係を築けばいいのか。
こういった人生の態度を【無意識であるにせよ】自分自身の意思(?)で 選択するわけです。
ですから、 わたしたちが 自らのライフスタイルを選択するとき、その目標は
「いかにすれば 愛されるか」に ならざるを得ないのです。
われわれは みな、 命に直結した 生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」 を選択するのです。
子どもは、非常に優れた観察者です。
自らの置かれた環境を考え、両親の性格・性向を見極め、
兄弟がいれば その位置関係を測り、 それぞれの性格を考慮し、
どんな「わたし」 であれば愛されるのかを 考えた【無意識に感じた】上で、
自みずからのライフスタイルを選択します。
たとえばここから、親の言いつけ(期待)に従順な「いい子」のライフスタイルを選ぶ子もいるでしょう。
【いい子には 二通りの問題が起こり得る。
親の期待にたやすく答えることができる「いい子」 は 社会に容易に適応していくが、
その後「過剰適応」に陥ることがある。
* 過剰適応は 多くの人の苦しみの元になっているが、それに気づくこと・対処することは 非常に難しい。
一方 なんとかやっと期待に応えることができ、(プライドを捨て)自らの意に反してまで ムリに
「いい子」 を演じざるを得なかった場合は、 途中で挫折し、 その後 「社会不適応」を 起こすことがある。
* いい意味の プライド(もっとも大事なもの)を捨てることで自分が傷つき、 自分を取り戻しづらい。
「引きこもり」 状態になってしまうことさえあり得る】
あるいは 逆に、 事あるごとに 反発し・拒絶し・反抗する
「わるい子」 の ライフスタイルを選ぶ子も いるでしょう。
【これは、親の期待に応えることができず「いい子」を演じることができなかった
(が プライドを捨てない)子どもの取るスタイル。
このような子どもたちは(狭義の)「愛されるためのライフスタイル」 を選択せず、
その後 「反社会的な存在」になることがある。
* いい意味の プライド(もっとも大事なもの)を捨てないことで 自分を取り戻しやすいが、
そうでない場合は 社会を傷つけてしまう】
青年 なぜです?
「わるい子」になってしまったら、愛されるどころではなくなってしまうじゃありませんか。
哲人 泣き・怒り・叫んで反抗する子どもたちは、 感情をコントロールできないのではありません。
むしろ十分すぎるほど感情を【無意識的に】コントロールした結果、
それらの行動をとっているのです。
そこまでしなければ 親の愛と注目を得られない、 ひいては 自分の命が危うくなる、
と 直感でわかっているのです。
【 「わるい子」 の選択は、 「無条件に わたしを愛してくれ」 という シャドーの叫びだ。
自分自身を傷つけてしまう選択も 同様に、 別の形の シャドーの叫びである】
青年 それも 生存戦略だと?
哲人 その通りです。広い意味で(広義)の 「愛されるための ライフスタイル
【承認欲求的生き方】」 とは
いかにすれば 他人からの注目を集め、 いかにすれば「世界の中心」 に立てるかを模索する、
どこまでも 自己中心的な ライフスタイル【生存戦略】なのです。
青年 つまり わたしの生徒たちが様々な問題行動に出るのも、その自己中心性に基づいている。
彼らの問題行動は、 広義の 「愛されるためのライフスタイル」から生まれている
と、そういうことですね?
哲人 それだけでは ありません。 おそらく 気づいていないでしょうが、
今あなた自身が採用しているライフスタイルも、子ども時代の生存戦略に根ざした
「いかにすれば愛されるか」が基準になっているでしょう。
【つまり、同じライフスタイルを持つ者同士がぶつかり合っているという状況なのである。
しかし 多くの人たちが、 そのことに 気づいていない】
【この 親子関係が 上手く築かれないとき、 愛着障害という 心の傷を抱えることになる。
対人関係に問題がある人たちの多くに、 愛着障害がありそうだ。
ではその場合、愛着障害の責任は誰にあるのか? 親か? 自分か?
自分は小さく・弱く・何の力もなかったので、 やはり 親の責任か?
仮に 親の責任だとしよう。
では その親は なぜ「わたし」 を愛してくれなかったのか? なぜ 愛せなかったのか?
愛のために自立が必要ならば、 親は自立していなかったことになる。
では なぜ、自立できなかったのか?
それは、 親もまた その親から愛されなかったからだろう。
あなたの親も また、 サバイバルに必死で、 余裕がなかったのだ。
こうして、愛着障害の連鎖が続いていく。
でも これは、本当のことだろうか? この世の中に、 親から 完璧に愛された人がいるのか?
そして 親からまったく愛されなかった人などいるものなのか?
もし まったく愛されなかったとしたら、 あなたは「いまここ」にいないハズだ。
あなたの生存のためには、親の愛が不可欠なのだから。
とすれば、「いま」 あなたが 「ここ」 に生きているということは、
あなたは愛された ということだ。
「どのくらい」愛されたか、ということには何の意味もないだろう。
完璧に 愛された人などいないし、まったく 愛されなかった人もいない。
親であろうと どんな人にとっても、 サバイバルは「必要条件」だ。
「横の関係」で 親を一人の人間として見ることができれば、
それが 当たり前であることに気づくだろう。
誰もがサバイバルのために 「愛されるためのライフスタイル」 を選択せざるを得なかったのだ。
それが 「当たり前」 の真実である。
「五つの頃の 母と父」を 想像してみよう。「あなたの 五つの頃」と 同じだろう。
誰もがみな、生老病死の苦しみを共にする、(そして、楽しみも共にする)仲間なのだ。
みな同じだ。 同じ「普通の人」なのだ。 「特別な人」など、どこにもいない・・・
あなたは 確かに愛されていた。それで十分ではないか? それ以上 なにが必要なんだ?
愛着障害というのも概念であり、幻想マーヤに過ぎない。
それが 十分でないというなら、愛のため・ 幸せのための 十分条件を見つければいい。
自分で それを見つければいいだけのこと。
あなたは いまでも 確かに 誰かに 愛されている。「大いなるもの」によって 確かに 愛されている。
「十分条件」とは、このことだ。
この十分条件を見つけるためには、 親も 他者も関係ない。 あなただ。
あなたが 見つけるのだ。 勇気があれば、 愛という 十分条件を見つけられるハズだ。
いつまでも 「愛されるためのライフスタイル」 に とどまっていてはいけない。
愛されることを 待つのでなく、 自みずから 進んで「愛する」 のだ】
【ここから再び 「男女の愛」 を提示しながら、 より 「普遍的な愛」 について 語られていく】
哲人 あなたは まだ、 誰のことも 愛していません。
【 「愛する」という決断をしていない。
「そのままでいい」 という 無条件の愛 を知るためには、 「いまのままではいけない」
「自我」 には 「愛する」 ことができないので、
誰かをほんとうに愛そうとするときに 初めて 「自我を超えるもの」が 立ち現れるだろう】
自立とは、経済上の問題でも 就労上の問題でもありません 【経済上・就労上の問題にとどまらず】
人生への態度・ライフスタイルの問題です。
この先あなたも、誰かのことを愛する決心が固まるときが来るでしょう。
それは、子ども時代のライフスタイルとの 決別を果たし、真の自立を果たすときです。
われわれは、 他者を愛することによって、 ようやく 大人になるのですから。
あなたは 承認欲求に搦めとられている。 どうすれば他者から愛されるのか、
どうすれば他者から認められるのか ばかりを考えて生きている。
自分で選んだはずの教育者という道さえも、 もしかすると
「他者から認められること」を目的とした、 「他者の望むわたし」の人生 かもしれない のです。
わたしたちは、 親から愛されることを 希求せざるをえない時代に、
自らのライフスタイルを選択しています。
しかも、 その 「愛されるライフスタイル」 を強化しながら年齢を重ね、 大人になっていくのです。
【親からの愛 を求めることは 社会から 認められようとすることにつながり、
「〇〇ねばならない」 という承認欲求を引き起こす。
そして 社会から認められようとする生き方は、 愛されるライフスタイルを強化してしまう。
それは、生育過程のどこかで 「たまたま」 創りあげてしまった
愛されるためには 「〇〇でなくてはならない」
認められるためには 「〇〇でなくてはならない」 という「当たり前のこと」 と思っている
「〇〇に違いない」 という思い込み つまり 「洗脳」に基づいているだけのことなのに…
そして 承認欲求は 「誰かの役に立ちたい」 という気持ちを創りあげ、
「誰かの役に立ってこそ 自分(人間)の 生きる意味がある」と錯覚させて、
「役に立たない人間」を否定してしまうことにさえなり得る。 それは、
もともと心の座にある「他者貢献欲求」 と とてもよく似ていて、 非常に 紛らわしい。
承認欲求に基づく 「他者貢献」 では、 「課題を分離する」ことが できていない。
承認欲求に基づく他者貢献は 他者の課題(欲求)がベースであるのに対して、
心の座(本当のわたし)の他者貢献こそが わたしの欲求をベースにしたものなのである】
「与えられる愛」 の支配から抜け出すには、 「自みずからの愛」 を持つ以外にありません。
愛されることを望むのでなく 愛することです。
愛されるのを 待つのではなく、 運命を待つのでもなく、 自らの意志で誰かを愛すること。
それしかない のです。
青年 いつもは 「勇気」 を口にするあなたが、
今度はすべてを 「愛」 で片づけようというわけですか。
哲人 あなたは まだ、 愛を 知らない。 愛を 恐れ、 愛を ためらっている。
それゆえ、子ども時代のライフスタイルにとどまっている。
愛に飛び込む勇気が足りていないのです。
【ほんとうの愛を知るためには、
ほんとうの自分(無我:自我を超えるもの)を知らなくてはならない。 しかし
ほんとうの自分を知る(自分に向き合う:心の奥底の 隠れ家から出てくる)ことは
とてつもない恐怖だ。 影シャドーを知る という過程を経ることでしか、
ほんとうの自分を知ることはできないのだから・・・
その恐怖に打ち勝つことで、愛を知る。 愛ゆえに その恐怖に打ち勝つことができる。
だから、勇気(とマインドフルネス)が必要なのだ】
たとえば、 相手の好意をなんとなく察知した瞬間、 その人のことが気になり、
やがて好きになっていく。こういうことがよくありますね。
青年 ええ、ほとんどの恋愛は そうでしょう。
哲人 これは、 たとえ 自分の勘違い だったとしても、
なんとなく「愛される保証」が確保できた状態です。
「あの人はきっと自分のことが好きなのだ」 「自分の好意を拒絶したりはしないはずだ」
という 担保のようなものを感じている。
そして われわれは、 この担保を頼りに、 より深く愛していくことができるわけです。
【自我は いつも 生存戦略として、 100%の安全という安心 を求めていて 心配性だ】
ほんとうに愛することは、 そのような担保を一切設けません。
相手が自分のことをどう思っているかなど 関係なしに、ただ愛するのです。
どうして 人は、愛に担保を求めるのか。 お分かりになりますか?
青年 傷つきたくない、 惨めな思いをしたくない。 そういうことでしょう。
哲人 違います。 そうではなく、 「傷つくに違いない」と思い、
「惨めな思いをするに違いない」と、 半ば 確信しているのです。
あなたはまだ、 自分のことを愛せていない。
自分のことを尊敬できていないし、 信頼(自己受容)できていない。
だから、愛の関係において 「傷つくに違いない」 と決めつけてしまう。
わたしは なんら優れたところのない人間だ。 だから 誰とも愛の関係を築くことができない。
だから 担保のない愛には踏み出せない。
・・・これは 典型的な劣等コンプレックスの発想です。
自らの劣等感を、 課題を解決しようとしない言い訳に使っているのですから。
課題を 分離するのです。 愛することは あなたの課題です。
しかし、相手があなたの愛にどう答えるか。
これは 他者の課題であって、 あなたに コントロールできるものではありません。
あなたに できることは、 課題を分離し、 自分から先に愛すること、 それだけです。
青年 じゃあ、どうすれば わたしの劣等感は払拭されるのか? 結論はひとつです。
「こんなわたし」を受け入れ、愛してくれる人と出会うことですよ!
そうでなければ、 自分を愛することなど できません!
哲人 また、「出会い」ですね。つまり あなたの立場は、
「あなたが愛してくれるなら、あなたのことを愛する(条件つきの愛)」 なのですね?
結局 あなたは、 「この人は わたしを愛してくれるのか?」としか 見ていないわけです。
相手のことを見ているようで、自分のことしか見ていない : self interest
そんな態度で待ち構えている あなたを、 誰が愛してくれるでしょうか?
あなたは 勇気を持って 自分の隠し持つ 子ども時代のライフスタイルを直視し、
それが どんなに辛くても 刷新しなければならない。
愛してくれる誰かが 現れるのを待っていてはいけません。
青年 ああ、完全に堂々巡りだ!
【 「堂々巡り」を止めるものも、 勇気と マインドフルネスだ。
だが「勇気」と言う言葉を、軽々しく口にしてはいけない。
「勇気」の何たるかを知って、ことに当たるべきだ】
わたし だって、 愛したいと 思っているのですよ! 「出会い」がないだけです。
哲人 真実の愛は、運命的な出会いから始まると?
それでは、 どのような人のことを 「運命の人」 と呼ぶのですか?
アドラーは、 恋愛にしろ 人生一般にしろ、 「運命の人」 を認めません。
「運命の人」 という言い方は、 すべての 候補者を排除するためだ、と断じます。
人はどうして、恋愛に 「運命」 などという ロマンティックな幻想を抱くのか?
「出会いがない」と嘆く人も、 実は 毎日のように誰かと出会っています。
しかし、 その ささやかな 「出会い」を 何かしらの「関係」に発展させるには、
一定の「勇気」が必要です。 声をかけたり 手紙を送ったり、とかね。
では そこで、 「関係」に踏み出す勇気を くじかれた人は 一体どうするのか?
「運命の人」 という 幻想にすがりつきます。
あれこれ 理由を並べて 「この人ではない」と退け、
「もっと完璧な、 もっと運命的な出会いが あるはずだ」と 他を探す。
そうやって 合理化し、 あらゆる候補者を 排除していくのです。
そうやって、 可能性(夢・希望・幻想)の中に生きている。
幸せは、向こうから訪れるものだ と思っている。
「運命の人に 出会えさえすれば、すべてが 上手くいくはずだ」と。
青年 じゃあ、「対象」は誰でもいいんですか?
哲人 究極的には、そうです。
わたしたちは、いかなる人も 愛することができるのです。
【自分の価値観を相対化して 他者の価値観を受け入れることができれば、 つまり
他者の目で見て 他者の耳で聞くことができれば、 どんな他者をも愛することができる】
もちろん 誰かとの出会いに 「運命」 を感じ、 その直感に従って 結婚を決意した、
という人は 多いでしょう。
しかし それは、 あらかじめ定められた 「運命だった」 のではなく、
「運命だと信じること」 を 決意しただけなのです。
アドラー心理学は、【自分が変わるために】あらゆる決定論を否定し 運命論を退けます。
われわれに 「運命の人」 などいないのだし、 その人が現れるのを待っていてはいけない。
待っていたのでは、何も変わらない。
しかし、 パートナーと一緒に歩んできた 長い年月を振り返ったとき、
そこに「運命的ななにか」を感じることは あるでしょう。
その場合の運命とは、 あらかじめ定められていたものではない。
偶然にできたものでもない。 二人の努力で 築きあげてきたものであるはずです。
運命とは、 自らの手で つくり上げるものなのです。
「わたしたち」という主語が つくり上げるものが「運命」なのです。
われわれは、 運命の下僕になってはいけない。 運命の主人であらねばならない。
運命の人を求めるのではなく、「わたしたち」で運命といえるだけの関係を築きあげるのです。
青年 でも、具体的にどうしろと?
哲人 踊るのです。
余計なことを 考えずに ただひたすら 「いま」をダンスする【三昧ざんまい】のです。
愛と 結婚は、 まさしく 二人で踊る ダンスのようなものでしょう。
どこへ行くのかなどと 考えることなく、 互いの手を取り合い、
今日という日の幸せ・今という瞬間だけを 直視して、くるくると踊り続ける。
あなたたちが 長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は「運命」と呼ぶでしょう。
あなたは いま、人生という ダンスホールの壁際に立って、
ただぼんやり 踊る人たちを傍観している。 やるべきことは 一つでしょう。
そばにいる人の 手を取り、 いまの自分にできる 精一杯のダンスを踊ってみる。
運命は、そこから始まるのです。
青年 わたしだって、 ダンスを 踊ろうとしたことはあります。
でも、結婚にはつながりませんでした。
幸せになりたいと願い 交際を始めたが、 うまくいかなかった。
哲人 あなたの願いは 「幸せになりたい」 ではなく、 もっと安直な「楽しくなりたい」
だった のではありませんか?
愛の関係に 待ち受けるのは、 楽しいこと ばかりではありませんよ。
引き受けなければならない責任は大きく、 辛いこと 予期しえぬ苦難もあるでしょう。
それでもなお、愛することができるか。
どんな困難に襲われようと この人を愛し、 共に歩むのだという決意・勇気を持っているか。
たとえば、 「花が好きだ」と言いながら、 すぐに枯らしてしまう人がいます。
水をやるのを忘れ、鉢の植え替えをせず、 日当たりのことも考えないで、
ただ 見栄えのいいところに鉢を置く。
たしかに その人も、花を眺めることが好きなのは事実なのでしょう。
しかし、「花を愛している」とは言えない。
愛は、もっと献身的な働きかけなのです。 あなたの場合も同じです。 あなたは、
愛するものが背負うべき 責任を回避し、 恋愛の果実だけをむさぼろうとしていた、
のではないですか?
青年 わかっていますよ。
わたしは 彼女のことを愛していなかった。 彼女の好意を 都合よく利用しただけです。
哲人 愛していなかった のではありません。
「愛する」ということが何なのか そして その技術を 知らなかったのです。
もしも知っていたなら、 あなたはその女性と運命の関係を築くことだってできたでしょう。
【愛するとは、(self interest ではなく) まず 相手に関心 : social interest を持ち、
横の関係で尊敬し、感謝できること。 そのままでいい、と受け入れること。
それが「愛する」ことであり、そのための技術がマインドフルネス】
あなたは愛する勇気を持てず、 子ども時代の愛されるライフスタイルにとどまろうとした。
ただ、それだけなのです。
愛する勇気とは、 すなわち それは 「 幸せになる勇気 」です。
わたしたちは 他者を愛することによってのみ、 自己中心性から 解放されます。
他者を愛することによってのみ 自立を 成し遂げます。
そして 他者を愛することによってのみ、 共同体感覚にたどり着くのです。
【 慈悲 → 無我 ・ 梵我一如 】
愛を知り、 「わたしたち」 を主語に 生きるようになれば、
「行為:doing」 ではなく、 自みずからの 「存在:being」 によって貢献することができます。
【生かされていること ・ 命の奇跡を 感じ、 感謝し、 世界と一体となり、
全体 : 縁起ネットワークの 何たるかを 知ることができれば、
自みずからが存在するだけで 他に貢献していることが 分かるようになる】
哲人 世界はシンプルであり、人生もまた同じである。
しかし シンプルであり続けることは難しい。
そこでは、 「なんでもない日々」 が試練となるのです。
【 「何でもない日々」は、 実は アドベンチャーの連続だ。 アドベンチャーを楽しもう!
シンプルであるとは、リアルな現実を 概念に変換してムダに複雑にすることなく、
そのまま ・ ありのままのリアルを 「ただ感じる」こと。
マインドフルネスで「感じ続け」れば、
なんでもない日々が 輝かしい奇跡の連続に変わり、些細なことに喜びを感じ、 楽しめるようになる。
[参考ブログ記事:喜びの感じ方]
「感じる」だけなら、シンプルだろう?】
アドラーを 知り、 アドラーに 同意し、 アドラーを受け入れるだけでは 人生は変わりません。
しばしば 人は、「最初の一歩」が 大切だ、 そこさえ乗り越えれば大丈夫だ と言います。
しかし実際の人生、 なんでもない日々という試練は、 「最初の一歩」 を踏み出した後 から始まります。
ほんとうに試されるのは、 歩み続けることの勇気なのです。
【理解だけではなく、実践が必要だ】
青年 わたしは 歩み続けたいと思いますが、 先生は これから どうされるのです?
哲人 また 同じように語り続けるだけです。
与えられた場で、 自分ができること、 なすべきと思うことを、淡々としていくだけです。
すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。
われわれは、別れるために出会うんです。 いつかかならず、別れることになります。
【無常】
だとすれば、 わたしたちにできることは 一つでしょう。
すべての出会いと すべての対人関係に おいて、
ただひたすら、「最良の別れ」に向けた不断の努力を続ける。 それだけです。
【メメントモリ】
わたしは、 あなたとの最良の別れのために、 ここまで話してきたのです。
いつか 別れる日がやってきたとき、
「この人と出会い この人と共に過ごした時間は、間違いじゃなかった」 と納得できるよう、
不断の努力を傾けるのです。
生徒たちとの関係においても、 ご両親との関係においても、
そして 愛する人との関係においても。
たとえば いま、 突然 ご両親との関係が終わってしまうとしたら、
生徒さんたちとの関係・友人たちとの関係が終わってしまうとしたら、 そして
配偶者や 子どもが いなくなってしまう としたなら、
あなたは それを「最良の別れ」として受け入れることができますか?
青年 い、いえ。とても・・・
哲人 では、そう思えるような関係をこれから築いていくしかないでしょう。
「いま、ここを【深刻でなく、踊るように】真剣に生きる」とは、そういう意味です。
【メメントモリ】
青年 まだ 間に合いますか? これから始めても?
哲人 間に合います。 その未来をつくるのはあなたです。 迷うことはありません。
われわれは未来が見えないからこそ、 運命の主人になれるのです。
【現代の、 そして 過去から未来に続く、 つまり いつの時代でも、
われわれの イニシエーションとは 「誰かを愛する」 という「決断」である。
そして その実践に必要なものも勇気なのだ。
そのイニシエーションを経て、 人生の初めに選択した
「愛されるためのライフスタイル」 を 「愛するためのライフスタイル」 に選択し直すのだ】
(最終改訂:2023年2月14日)