新「幸せになる勇気」1 愛・男と女 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
新 幸せになる勇気

愛 その1:女と男

  人生における最大の選択はである
ほんとうの愛の理解と そして実践は、                       ・・・生易しいものではない】


哲人 わたし、 絶対不変の真理として アドラーを語っているのではありません

  いわば、 眼鏡のレンズ処方しているようなものです。  

  このレンズによって、 視界が開ける人多くいるでしょう。

  一方、  余計に目が曇るという人だっているでしょう。


  アドラー心理学ほど、誤解が容易で 理解が難しい思想はありません。

「自分はアドラーを知っている」と語る人の大半は、その教えを誤解しています。

  真の理解に近づく勇気を持ち合わせておらず、  真理の向こうに広がる景色を 直視しようとしないのです。


  もしもアドラー思想に触れ即座に感激し、  「生きることが楽になった」言っている人がいれば、

  その人アドラーを大きく誤解しています。

  ほんとうの理解であれば その厳しさに身を震わせることになるはずだからです。


  アドラー心理学を ほんとうに理解して、 生き方まで変わるようになるには、

「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、言われています。

【ほんとうに理解するのも難しいが、   理解だけではダメだ。
  実践し、生き方を変えなくてはアドレリアンとは言えない。

  実践すること、 行動すること、 生きること。

  実践を伴う理解、 頭でなく腹の理解、 言葉でなく沈黙の理解、

  論理でなく感覚の理解ことをほんとうの理解と呼ぶ


  生き方を変えるのに長い年月がかかるのは、   ニューロン回路の書き換えが必要だから】


青年 わたしも 誤解していると?
哲人 そう思います。

  でもこれは あなただけの話ではありません。

  多くのアドレリアン(アドラー心理学の実践者)は、  誤解を入り口にして 理解の階段を登ります。


【自分をたどる 長い旅に出る際も、        「瞑想」 「悟り」対する誤解から出発する。

  そして  誤解したまま、自分自身に  たどり着けない人たちが大勢いる。

  その誤解を解くものは、 アドラーの処方の実践に必要なものと同じだ。


「瞑想」 「悟り」 も、 たぶん あなたが思っているような特別なことではない。
悟りって、実はを知って 実践することなんだ!】


哲人 若き日のわたしも、 すぐに階段を見つけたわけではありません。

青年 ほお、先生も 迷った時期があったと?   それで どうやって、  その階段を見つけたのですか


哲人 わたしは幸運でした。アドラーを知ったとき、ちょうど主夫として 幼い子どもを育てていましたから。

  子どもを通じて アドラーを学び、子どもとともに アドラーを実践し

  理解を深め確証を得ていったのです。

【哲人は、世の多くの賢明な母親たちと同じように 子どもたちのケアという実践を通して

  愛を学んだ 「 、 もっとも身近な人からしか学べないものだ。


  その たった一人の人と 「横の関係」 を築けたら

  そこからスタートして その関係を「すべて(全体)に広げることが可能になる


青年 なにを 学び、どんな 確信を得たのですか?

哲人 ひと言でいうなら、「愛」です。

  子育てに関わることで を学ぶことができました


  そして、 アドラーの語る愛ほど  厳しく、  勇気を試される課題はありません


  あなたは、アドラーの思想を 魔法のようなものだと感じたのかもしれません。

  その杖を振れば、たちまち すべての願いがかなうような。

  だとすれば、 あなたが抱いてきた    誤ったアドラー像を捨て、

  ほんとうのアドラーを知るべきです。

青年 でも あなたは以前に、

「人は誰でもいまこの瞬間から幸せなれる」  とおっしゃったではないですか?

哲人 そうです。あなたも、他のどんな人も、  幸福へと踏み出すことができます

  ただし 幸福とはその場に留まっていて享受できるものではありません。

  踏み出した道を 歩み(実践し)続けなければならないのです。

【まず踏み出す(決意する)そして 歩み続ける(実践を続ける)という 永遠に続くプロセスが    幸福であることの真実の在り方】


  あなたは 大きな一歩を踏み出したのに、    勇気をくじかれ、歩みを止め

  いま 引き返そうとしている。  なぜだか   お分かりですか?

青年  忍耐力がないからですか?

哲人 いいえ。

  あなたは まだ「人生における最大の選択  をしていない。  だからです。

人生における最大の選択 とは のことです。

  この人を愛する、そして すべてを愛する、   「決意」 することです。

  すべての問題は 「 のひと言に集約されていくでしょう。



愛する人生を選べ


青年 あなたが、そして アドラーが    語ろうとする愛とは、どんなものですか?

哲人 一般的には、観念的で崇高な 「神の愛」と、 性欲に駆られた 本能的な  「動物の愛」  ばかりが語られます。

  アドラーが語ろうとするのは、「人間の愛」です。


  人間にとっての愛は、運命によって定められるものでもなければ、

  自然発生的なものでない。つまり、愛に「落ちる」のではないということです。

青年 じゃあ、どんなものだと?

哲人 築き上げるものです。「落ちる」 だけの愛なら、 誰にでもできます。

  そんなもの人生のタスク呼ぶ値しない。   意志の力によって、

  なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。


【それは違う。  愛は ゼロからのスタートではない

  すでに遍く存在するそのままでいいんだという愛 に気づくか どうかだ

  それに気づくことが難しいから、愛タスクは困難なのだ。 愛は  自分の中から見つけるものだ


青年「落ちる恋」は確実に存在するし、それこそが「ほんとうの愛」でしょう!

哲人 あなたのいう「落ちる愛」と、突然 なにかのものが欲しくなるような、

  所有欲や征服欲となんら変わりありません。

  実際に手に入れてしまうと、半年としないうちに飽きてしまう

  それを獲得し、 所有し、 征服したかっただけです。

  本質的には、そのような物欲と同じです  【もちろん すべてそうとは限らないが…】


  あなたは、愛において二人が結ばれるまでの物語に注目している。

  一方 アドラーは、     二人が結ばれた後  「関係」に注目しています。

  激しい愛の末に結婚したとしても、それは愛のゴールではありません

  結婚は、  二人の愛が  ほんとうの意味で  試されるスタート地点です。


  もうひとつ アドラーが解き続けたのは、

  能動的な愛の技術、すなわち 他者を愛する技術でした。

  たしかに他者から愛されること【承認欲求に基づく愛】は難しい

  けれども、他者を愛すること【承認欲求を  超える愛】、 その何倍も難しい課題なのです。


【それは、どんな技術なのか
  技術1:価値観(世界の見方)を柔軟にすること。
  技術2:自分と他者の課題を分離すること。

  1:あの人の「こういうところや考え方」   がダメだから愛せない という場合がある。
  しかし「ダメ」 と判断するときの あなたの  価値観」 、本当に正しいのだろうか

  愛するためには、 まず自分の価値観を相対化して他者の価値観を受け入れ、 共有すること
  わたし の信じる価値観こそが  絶対だ と   思い続けるのでなく
  他の価値観もあるのだ気づき共有すること。 これによって  「愛するための条件
  を 不要とすることができる

2:さらには、 「結果という 「課題を 分離することで、 愛することにともなう どんな結果も
  受け入れることができるようになる。

(愛されることでなく)ほんとうに 「愛する」 ということは 生得的な 自明のことではなく、
  上記のように  意志と技術によって   自らの内から掘り起こすものなのである。


  そして、  他者から愛される「承認    他者を愛する「 似ているように見えるが、  実は  違う(似て非なるものだ

  人は愛を求めようとして(間違って)    承認を求めてしまう


  そもそも  愛は求めるものではなく、 ただ 

  本質として存在していて すでに与えられているものだ

  それに気づくか 気づかないかその上で   それを見える形」 にできるか どうかの違いだけがある】


青年 違うでしょ。

  むずかしいのは、愛されることですよ。

哲人 かつて はわたしも そう思っていました。

  しかし、アドラーを知り、子育てを通じて その思想を実践し、

  大きな愛の存在とはなにか】を知った現在、  まったく正反対の意見を持っています

青年 いいえ、

  愛するだけなら 誰にだってできます。

哲人 それではいま、あなたは 誰かを愛していますか?

青年 いいえ。

哲人 なぜですか? 愛することは簡単なのでしょう?

青年 それは、  愛すべき人と 出会っていないからです。「出会い」が難しいのです。

哲人 愛は   わたしの技術の問題ではなく、  「あいてという条件の問題である という  ことですね。

【ほんとうの愛は無条件」なのに…

  そして 「問題、世界や他者の中ではなく  自分の中(奥底)こそあるものなのに…】


青年 当たり前です!

哲人 アドラーは こう言っています。

「われわれは、ひとりで成し遂げる課題自我の課題】  あるいは 20人で成し遂げる仕事自我の集まりとしての仲間の課題】については、 教育を受けている

  しかし、ふたりで成し遂げる課題【二つの自我ではなく自我を超えるものとして課題】については、  教育を受けていない」と。

【一般的な教育では 自我の確立を目標とし、

  自我の確立とは、  社会的 かつ 経済的に   自立することである】


  なにもできなかった赤ん坊が 成長するのは、  「ひとりで成し遂げる自我の課題」です。

  それに対して仕事は 「仲間たちと成し遂げる自我の課題」です。

  そして、「とは「ふたりで成し遂げる自我を超える課題」なのです。

  しかし われわれはそれを成し遂げるための  技術:マインドフルネス を学んでいないのです。


  愛されることでなく ほんとうに「愛することを現象化(具体的な目に見える形にするのは

  生得的に自明のことではなく、 意志と技術によって 自らの内から掘り起こすことである。

【 「愛する ことは   ただ心の中で想うだけ  でなく、

 具体的な行為を通して表現することである



哲人 人間にとって 愛とは何か。仕事の関係  また 交友の関係とは どこが違うのか。

  そして われわれはなぜ他者愛さなければならないのか。   一緒に考えましょう。

青年 いったい 「ふたり」 、     なにを 成し遂げるのです?

哲人自我を超える幸福です。対極を持たない絶対的な幸福なる生成し遂げるのです


  幸福になるためには、対人関係の中に 踏み出さなければならない。

  人間の幸福は、 すべて 対人関係の幸福【愛】だからです。


【 「幸福なる生」 を成し遂げるための 「  知るためにまず仕事の関係から交友の関係

  そして 「愛の関係」 へと  順番に考察していこう


  われわれは みな、 「誰かの役に立っている  と思えたときにだけ 自らの価値を実感し

ここにいてもいいという所属感【全体の中の一部であるという感覚共同体感覚】を得て

  幸福を感じることができます


「誰かの役に立っている」 というのは、 客観的な事実である必要はなく【他者からの承認は必要なく】

  主観的な感覚である貢献感【自分の課題としての感じ方】があればいい

  貢献感のなかに   幸せを見出し、    喜びを見出しましょう。


【では その貢献感を軸にして、  誰に対する貢献感なのか と考えてみよう】


  仕事の関係を通して【も】  そして   交友の関係を通じて【も】

  貢献感【のようなもの】を見出しましょう。      幸せは そこ(貢献感のなか)にあります


  ところで、仕事の関係を成り立たせている   分業の根底に流れていたのは

「わたしの幸せ」    つまり  利己心自我でした

わたしの幸せを追求すると、結果として  誰かの幸せにつながっていく


  一方、 交友の関係を成立させるものは、   「あなたとわたしの それぞれの自我幸せ」 です。

  わたしだけでなく あなたの、そして あなただけでなく わたしの 「幸せ追求しながら

  他者の視点にも配慮して信頼を寄せていく


  つまり われわれは「わたし自我幸せ  を追求することで 分業の関係を築き

「あなたとわたしそれぞれの自我幸せ  バランスをとりながら追求することで

  交友の関係を築いていく


  だとしたら、愛の関係とは なにを追求した結果、成立するのか


「わたしの幸せ」でも 「それぞれの幸せ」でもなく、  不可分になる 「自我を超えるわたしたちの幸せ

  を築きあげることそれが 愛です。        「わたし」「あなた」という自我よりも上位ものとして  「自我を超えるわたしたち を掲げる

  人生のすべての選択について、その順序を貫く。


【 「誰かとは自我としての誰かではなく、  自我を超える誰か という意味であった

  だから「愛の関係自我を超えるものを追求することで得られるのである】


「わたしたち」 ふたりが ともに同時に 幸せでなければ 意味がない。

「ふたりで成し遂げる 自我を超える課題」 とは、  そういうことです。


  人生の主語が

わたしからわたしたち変わるのです


【(自我という)

  要素のレベルだけで「幸せ」を判断しないで

自我の基底にあって それを支えている・観ている

  たましいのレベルの「幸せ」を追求する


わたしとあなた自我の二元の片方の)幸せ

            VS

  「わたしたち自我を超える非二元的な)幸せ


  仕事や交友を通じても 「貢献感のようなもの」  を感じることはできるが、

  ほんとうの貢献感は  愛を通して感じるものである


  主語が「わたしたち」になれば、「わたし」  と 「あなた」 に観えている個別の世界が統合され、  もっと 大きなものに変わる

「わたし」 には観えていない世界があることに気づくことで 初めて、

あなた」 の世界を 認めて 受け入れ  それを取り込むことができるようになり

  世界を  「大いなるもの」 に向けて拡大し、  自我を超越していくことが可能になる。


  わたしたちのそれぞれ と考えるのでなく   わたしたちがとも       と考えることで、

自我を超えたものに出会う


人生の主語が わたしたちに  変わることで、  自我を超えることができる


 哲人 われわれは 生まれたあと ずっと、     「わたし」 目で世界を眺め、 

「わたし」 耳で音を聞き、「わたし幸せを求めて 人生を歩みます。 

  すべての人が そのように強いられます

【だから 「自己中心的」 なのは当然だし、     自我を自分だと錯覚するのも仕方ない】


  しかし  ほんとうの愛 を知ったとき、     

わたし」 だった人生の主語は わたしたち変わります

  まったく新しい指針自我を超える「大いなるもの」 の下に生きることになるのです。


青年 それでは、

「わたし」が消えてなくなるのですか?

哲人 まさに。

  幸福なる生を手に入れるために、「わたし  は消えてなくなるべきなのです。


自我は 自分ではなかったこと    つまり  無我  とは何かに気づき

  わたしかあなたかあれかこれか、 苦か楽か、  善か悪かという

  対極の価値を持つ二元的な視点から          対極を持たない非二元へシフトする



  では、 なぜ  愛は幸福につながるのか?  

  それは、  愛が  わたしからの解放   【無我→解脱】だからです。


  この世に生を受けた当初、   われわれは   世界の中心」 に君臨しています

  周囲の誰もが 「わたし」 を気にかけ、世話をしてくれます。

  己の「弱さによって大人たちを支配しているのです。

「弱さ」 とは、 対人関係において    恐ろしく強力な武器になります。


「弱さ」 によって他者を支配しようとする生き方を選ぶのは、子どもだけに限りません。

  そのライフスタイルを持ち越す、    多くの大人たちがいます。   彼らもまた、

  自分の弱さや不幸・傷・不遇なる環境、      そして トラウマを「武器」として、

  他者をコントロールしようと目論みます

  心配させ、 言動を束縛し、 支配しようとするのです。

【弱さを武器として、他者に依存している  他者をコントロールしようとするのは  依存  である


  そんな いまだに自立していない大人たちを アドラーは「甘やかされた子ども」と断じ、

  そのライフスタイル【生きる態度世界観】を厳しく批判しました。


  人間の場合、 身体的劣等生を持った新生児は 自活することができない。

  したがって、生きる【サバイバルの】ためには   世界の中心」 に君臨せざるを得ないのです。


  すべての人間は 過剰なほどの 自己中心性」  から出発する

  そうでなくては   生きていけ【サバイバルでき】ない

  しかしながらいつまでも世界の中心  に君臨することはできない

  世界と和解し、自分は 世界の一部【であり、  同時に世界全体でもある】なのだ了解しなければならない


【弱ければ弱いほど、自己中心性が強まる。

  だから わたし」 から解放されるためには、  まず 社会的・経済的に 強くならなくてはならない

  そして そのような 自我の自立だけでなく  自我を超えるものとしても 自立しなくてはならない


哲人 ・・・であれば、

真の自立の意味が見えてくるでしょう。


【アドラーの説く自立とは、たんに自我としての自立だけではなく、

  自我を超えるものとしての自立も含んでいる】


青年 自立の意味?

哲人 なぜ 教育の目標は自立なのか。

  どうして アドラー心理学は、教育を 最重要課題のひとつとして考えるのか。

自立という言葉にはどんな意味が込められているのか。 

真の自立 とは、 「自己中心性からの脱却なのです


一般的な教育は、  社会人としての 自我の確立(自立)を目標としているが、

  アドラーの説く教育は、それだけでなく   自我を超えるものの確立(自立)を目標としている。

  同じ自立という言葉に、 二つの意味がある】


  だからこそ アドラーは、共同体感覚のことを  social interest と呼び、

  社会への関心、 他者への関心と呼んだのです

【そこが 愛のスタート地点】 


  われわれは   頑迷なる自己中心性から 抜け出し、

世界の中心」 であることを  止めなければならない

わたし」 から  脱却しなければならない

  甘やかされた    子供時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。


【真の大人になり、本当に自立する、   とはそういうこと。

  たんなる 経済的なものでなく、  心理的・精神的 かつ たましいの自立

  それをもたらすものが イニシエーション。

  現代のわれわれにとってイニシエーションとは 何だろう?】


青年 自己中心性から脱却できたときようやく  われわれは 真の自立を果たす、と?

哲人 その通りです。   人間は  変わることができます

  そのライフスタイルを世界観や人生観を  変えることができます

  そして 愛は、わたし【部分】だった人生の主語を わたしたち【全体】変えます

  われわれは 愛によって「わたし」から解放され、真の自立を果たし、

  ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。

青年 世界を受け入れる?

【自己受容他者受容世界を受け入れる

  世界を受け入れることで、  やっと  世界の一員になれる】


哲人 ええ。    愛を知り

  人生の主語がわたしたちに変わること。


【人生の主語が 「わたしたち」 に変わるとは、  わたしたちのという価値観を共有すること。

  わたしの価値観を拡張し、 限りなく拡大すること

  そうすれば価値観:意味そのもの(価値観とは何か)が見えてくるだろう。


  価値観とは、 やって来ては去るものであり  対になる概念を持った 二元性のものであり

  非リアルな幻想であったことに気づく


  二元の 古い価値観 を超え、 非二元の 新しい価値観 を手に入れる】


  これは 人生の新たなスタートです。

  たった ふたりから始まった 「わたしたち」  は、やがて 共同体全体に、そして 

  人類全体にまで大いなるもの向かってその範囲が広がっていくでしょう


青年 それが・・・

哲人 共同体感覚【梵我一如:非二元:ワンネス】です。


共同体感覚とは 「横の関係でつながった仲間たちと共に生きているという感覚


  その感覚がないとき人は縦の関係のなかで 敵に囲まれ、

  比較と競争において優位に立つために 攻撃と防御を繰り返して、疲れ果てている

  そして、共同体感覚に代わるものとして

「分離して 切り離された個人として生きている」  という 孤立した感覚を持っている】


青年   愛 ・ 自立 ・ 共同体感覚、  すべてが  つながってくる



もっとも身近な人からしか  は  学べない


  その人は隠された「わたし」である 自我(エゴ)の影(シャドー)を映しだす 鏡 のような存在だ。

  その人と、   そのたった一人の人と  横の関係を築けたら

  そこからスタートして その関係を「すべて(全体)」 に広げることが 可能になる


[OSHO:

  いきなり〈全体〉とひとつになるのは難しそうだ

  少なくとも  誰かが  あなたを  受け入れてくれるだろう

  少なくとも一人の人間の扉から  あなたは そのギャップを埋めることができるだろう]


自己中心性からの解放とは

  自分が   特別な存在でないこと   何ものでもないこと  ただの人であること を知ること

普通であることの勇気を獲得すること


  自分は 世界の中心ではない と知ること。


  自己中心性こそが  煩悩:苦悩の本体であった

  自己中心性とは、自我(エゴ)の(負の側面)の叫びだ。

「ここから出たい!  わたしを受け入れて愛してくれーと大声で叫んでいる。


エゴ 、 もうすで受け入れられ 愛されていることを まだ知らない




愛とは  ふたりで成し遂げる課題 であり、

  そこでは「わたし」 の幸せでも「あなた」 の幸せでもなく、

わたしたち の幸せを 追い求めなければ  ならない。

  そのとき 初めて、 われわれは 「わたしから脱却できる


  ふたりとは、夫婦や親子であることが多いかもしれないが、

  夫婦や親子でない ふたりでも  「ふたりの課題」を成し遂げ、

「わたしたち」 を主語にすることは可能だ。


  子供時代のライフスタイルから脱却し、   「わたし」 という自己中心性から解放されて

  ほんとうの自立を果たすことができる。

  そのとき 初めて、「横の関係でつながった仲間たちと 共に生きている」 という    

  共同体感覚が手に入る



  (男性性) サバイバルのために 問題解決を主要課題とし

  (女性性) 子育てのために 仲間を作るための共感を大切に思っている


  だから、女性は  産み育てることによって  世界と関わり、

  子どもを通して  共同体感覚を手に入れる  ことができる


  だが  それができない男性は、 何かをなすこと(doing)で社会に関わり、

 (子どもに代わる)自らの業績という 「 を残すこと共同体感覚を得ようとする


  男性(性)の意識が 外へ、社会へ、そして 未知なるものへと 遠く広がるのに対し、

  女性(性)の意識は 家庭親族ご近所さんのような 身の回りの比較的 狭い範囲)や      日々の暮らしに向けられる

  女性(性)は 仲間意識を大切にし、日常(性)こそが 「生きる」 ことであるとみなす。


  夫は 妻の(ほんとうは 在り難い・奇跡のような)   その存在の在り方を 当たり前と見做みな

  意識は  妻だけでなく  その周りや  さらに  彼方に広がる世界に向かい、

  妻は その仲間共同体意識の強さゆえに、  夫が一番の仲間であること強く望んでいる。



  女と男は 仕事や生活の役割分担をすることにより、

  意識の在り方という 精神世界をも 「分業」 することになり、 「 分割されてしまった


  男にとって女は、そして 女にとって男は、 

  再び 完全なる魂(全体性)を取り戻すための魂の片割れ


  女性性(アニマ)と 男性性(アニムス)は   縦の糸と 横の糸のこと であり、   それぞれ

  単独では不完全な  二つの魂が合体し、      完全な存在になることを 「タントラと呼ぶ




(最終改訂:2023年2月10日)