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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 7
気づきを高めるのは、何のため?
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
うんちもおしっこも ベッドの上でですけれど、
その時間も 自分を感じています。
ただ ぼーっと
排泄しているわけではありませんよ。
何か 小さなものを動かしたり、
つまんだりすること。
それにも 気づきを向けています。
着替えるとき、毛布をたたむとき、
なるべく 自分でできる動きは
自分でやるようにしています。
動きが 多ければ多いほど、
自分を感じるチャンスが増えます。
ですから、一日中 【24時間 365日】
動きあることすべてに 気づきを向ける
よう つとめていきます。
何度も 何度も 気づいていって、
気づく頻度を多くしていく。
そうすることで、
気づき自体が どんどん 高まっていきます。
普通の気づき から、
大きな気づき(マハーサティ)にね、
なっていきます。
【大きな気づきとは、 智慧のこと】
知ることも また、 大きくなっていきますよ。
自分を感じることが
どんどん できるようになっていきます。
我を忘れてしまう、
はまりこんでしまうことがね、
だんだんと 少なくなっていきます。
そして 智慧が生じてきます。
気づきを高めるのは、 何のためにでしょうか?
それは、 【苦しみをなくして 前進し】
智慧を生じさせるためです。
【日常生活の型のない瞑想には、
二つの効果がある。
一つは 苦悩をなくすことであり、
これは 瞑想する その瞬間に もたらされる。
もう一つは 「智慧」 であり、 やがて
人間と世界の真理が理解できるようになる】
真実が 見えてきますよ。
基礎的な智慧:名色分離智として
ルーパ:色:形あるものと ナーム:名:形なきものが
しっかり見分けられるようになっていきます。
【名色分離智は、
瞑想を始めて 最初に現れる
もっとも基礎的な智慧】
気づきを高めていくこと。
これは ルーパを見ること・ナームを見ること、
これが 柱になってきますよ。
それが 見分けられるようになれば、
正しい道を歩んでいます。
体は 動きがありますね。 それが ルーパです。
ルーパ【体: リアル】を見ること。
そして ナーム【心:非リアル】を見ること、
この二つ【を 分けて観ること】です。
動きを伴いながら、自分を感じていくのです。
形あるもの色、形なきもの名を見ていきます。
内側を知り、外側の動きを知ります。
ルーパ(色、形あるもの、体)とね、
ナーム(名、形なきもの、心)
ルーパと ナームは ね、
自然に ここにあるんですよ。
【 「ここ」 とは、 五蘊(我:わたし)のこと。
ルーパもナームも、
ともに 五蘊の中の一要素。だが
ルーパは 自然と 強く 結びついているが、
ナームは 自分が 勝手に創りだしたもの】
同じところに あります。 一つ になってね。
【ルーパに 対して、
自分で創ったナームを くっつけて、
いっしょくたにしている】
しかし 自分を感じると、
【同じ場所にあるが】ルーパと ナームは 別物
と見えてきます。
【 リアルなルーパ:受に
非リアルなナーム:行を くっつけている
こと:渇愛に気づいて、 それを別物に分ける】
ルーパとナームを 見分ける【名色分離智慧】こと。
それが、智慧の基本【スタート】です。
【そして 智慧のゴールは、
般若という究極の智慧 の理解である】
智慧のスタートである 名色分離智とは、
現実と それを意味づけている概念は 別ものである
ということであり、
「現実」 には 善いも悪いもない
つまり 善/悪の概念は虚構である
ということである。
であれば 「人生は 善であるべき」
というのは たんなる思い込みであって、
人生に 「〜しなくてはならないこと」 はない
ということになるだろう。
(それでも「意味」 を求めて止まないのが
「人間という存在」であることに 変りないが)
したがって ゴールとしての 「究極の智慧」 は、
善くも悪くもない ありのままの現実は
概念による意味づけを外はずしてみれば
絶対的な意味として そして 意味を超えたものとして
「そのままでOKである」 ということになる。
「色即是空」とは つまりそういうことである。
言い換えれば、
どんな人の どんな人生も「それでいい」
ということだ。
つまり 般若(色即是空)という智慧は、
「どーでもいい」 ということの理解である。
この究極の智慧に 心の底から賛同するのは、
とても難しい(受け入れがたい)だろう。
そして
「どーでもいい」 ことは 「色即是空」 だが、
「どーでもいいわけではない」 ことが
(意味を求めざるを得ない 人間の存在の在り方が)
「空即是色」 だ。
「どーでもいい」 ことは 「色即是空」
でも 実際の個人の人生は
「どーでもいいわけではない:空即是色」
「色即是空」とは「理解」のことだが、
「空即是色」とは「実践」のことである。
「色即是空」という理解に裏づけられた
「空即是色」という実践はとても楽しい。
「どうでもいい」 と知りながら、
「どうでもいいわけではない」 自分らしさ
を追求するのは、 とても楽しい。
そして、「愛する」 ことは、
「どうでもいいことではない」
ことを知っている。
「色即是空」という
理解(智慧)だけで終わってはいけない。
「究極の智慧:理解」 を超えるものがある。
「初めの智慧 :名色分離智」
「究極の智慧 :色即是空」
「究極の智慧を超えるもの:空即是色」
(テーラワーダ仏教では
色即是空 が究極の智慧だが、
大乗仏教では
「色即是空即是色」 が究極の智慧である)
参考ブログ:初めの智慧と最後の気づき
(最終改訂:2024年5月31日)