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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 6
ベッドの上での動きに、
気づきを添えていくのです
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「気づきある人は、勤勉である」
そうした ブッダの言葉があります。
体を 道具【気づきの杖・アンカー】として、
心を そこ【気づき】に向けていく。
それも 軽く気づいていくことです。
軽く体に気づくと 心も軽くなっていきます。
【「軽く」というのは 「気づき」の重要ポイント。
「いい加減に」 でなく
「広く 浅く」 全体に気づいていく。
そして そこが大切だ と思ったときは、
そこに 「集中して」 気づきを深めていく。
始めから最後まで 対象を固定する
集中の強すぎる瞑想トレーニングは、
「気づき」につながらない】
なぜなら、 【体の感覚に 意識を向けると】
思考に邪魔されることが
なくなってきますからね。
胸が重くなってくるような負担を感じる
というのは、 体のことではありませんよ。
思考【心:精神】の話なんですよ、 すべて。
【重く深刻になるのは、
考え過ぎの思考:不安(苦悩)の特徴】
思考が 勝手に起こってきて、
その思考が飾り立てられているにすぎません。
【想行識複合体を形成している】
【 「胸が重い・胸が苦しい・
息ができないように感じる」 というのは、
体の症状ではなく心の症状であることが多い。
心の症状を体の症状だと思い込んで
病院を受診する人が、たくさんいる。
いま自分が感じている症状は、
体のものか? 心のものか?
それを見分ける能力が 名色分離智。
それを 区別できるようになると、
何が リアル:現実で 何が 非リアル:幻想なのか、
だんだんと すぐに判断できるようになる。
すると、
(非リアルとは 脳が創りだしたものなので)
非リアルに対しては 自分でどうとでもなる
ことが 分かるようになる。
そして、
非リアルな不安から解放され、 自由になれる】
もし 体を知るならば、
【体の感覚に 正しく意識を向けれるならば】
【不安に駆られて】
思考が飾り立てられることはありません。
「気づきを高める」ということは、
静けさを求める【落ち着く】ために
行うのではありません。
【どちらかというと 集中力を高める瞑想が、
「静けさを求めて落ち着く」のに適している】
心を「目覚め」 させるのです。
いつも目覚めているように
心を起こしていくのです。
【 「目覚める」 とは、 心の状態を
非主体的で受動的な 反射反応的状態から
主体的で能動的な 選択状態に変えること。
そして「思考が飾り立てられる」 とは、
この反射反応的状態が
何重にもループしている様を 言い表している】
実際のところ 自分を感じるということは、
心を目覚めさせる【正念】だけではなく、
集中【正定】もその中にあるんです。
気づき【正念】あるところに、
集中【正定】もあります【正念正定】
【 「心を目覚めさせる」とは、非主体的に
「いつかどこか」 を彷徨さまよっている心を
「いまここ」 の体に戻すこと(正念:サティ)
「サマーディ」 とは、 集中することではなく、
ジャッジしないで ただ観ていること。
ありのままを 受け入れること(正定)
サマーディという言葉は 誤解を招きやすく、
この言葉の理解は
瞑想を理解する上で
非常に大きなポイントになる。
正しくは 上記のアンダーラインのように、
「集中」ではなく
「受容」であると理解す(訳す)べきだ。
「集中」 でなく、ただ音写されただけの
「三昧」 の日本語ニュアンスの方が、
伝えたいイメージを より正確に表している。
なぜなら、
リアルな対象(感覚)に集中することで
非リアルな判断を避け、
結果として 「受容」 が可能になるからだ。
判断させないために 集中する とも言える】
それが、ただただ知る ということ。
知ること 見ること【正念】
見えている【まま: 正定】ということ。
【 「見えている」だけで
ジャッジしないのが「正定」
ジャッジせず そのままにしておくのが、
受け入れること(受容)である。
見もしない(関心を持たない)で、
なんとなく 「それで いいんじゃないの」
と言うのを「受容」 とは言わない。
見たら 見たで、
わたしたちは あれは良い これは悪いと
何かにつけて評価:ジャッジし、
延々と尽きることなく文句を言い続けている】
この身に気づいている その瞬間に、
集中もあります。
【正定があれば】感情にはまり込んで、
【想行識を合形成して】
かき乱されるようなことは ありません。
【 「サマーディ」 を 「集中」 とすると、
「集中」 が途切れて ジャッジしてしまうと
「◯◯べき姿」 が想定され、
その姿との適合や乖離から
貪や瞋といった感情が引き出されて
しまうことになるが、
「サマーディ」 を 「受容」 とすれば、
「受容」 が そう簡単に 途切れることはなく
そんなことにはならないだろう】
正定【サマーディ】がもうすでにあるのです。
正定は、 蓋(瞑想修行中に起こってくる障害)に
しっかりと 対応することができます。
自分を感じていられる時、
その時は 心が目覚めています【正念】
そして 眠気は生じていません。
【五蓋の内容の】眠気やあくび・意気消沈・
飽き飽きすること・退屈さ、 などは
生じてくることができないのですね。
一人でいる時でも、
ちっとも寂しさは生じませんよ。
もし 「自分自身を感じる」 ことができればね。
【カンポンさんは そうやって
孤独を克服したのだろう】
「思考の世界から目覚める」 ことができれば、
思考が飾り立てられる・思考に踊らされる、
ということ【想行識複合体】がなくなりますよ。
【 「思考が飾り立てられる・
思考に踊らされる」とは、
本来 機能として 使うべき思考に
自分自身が「使われている」状態。
思考が 貪瞋という感情を呼びだし、
その感情がまた 思考を引き起こし、
悪循環し、キリがない状態。
思考 : 想と 感情 : 行と 自分 : 識が 一体化し、
複合体となっている】
そうした【複合体を脱して苦しみのなくなった】状態は、
本当に起こりえますよ。
しかし、
まだ それらは 流れを超えてはいません。
今は、ただ 見る。
ただ 見るということだけですね。
【苦しみはないが】まだ 流れを超えてはいません。
【 流れを超えるとは 真理を理解することであり、
苦しみがなくなって 初めて 真理が見え始める】
ただ、自分を感じる。
ただ 知る、ただ 見る、ただ 見る。
【ただ見る(正念正定)ことで
苦悩からは解放されるが、
まだ 流れを超える智慧には たどり着けない。
正念正定(マインドフルネス)は、 苦悩を滅し
法(真理:空:非二元)に 辿り着くための
技術・方法・手段に過ぎないものだ。
そして、いったん法を理解したとしても
その理解を維持深化し 実践し続けるために、
やはり マインドフルネスは必要である】
今ここにいることが、 より増えていきますよ。
今ここにいること【マインドフルネス】ができれば、
苦しみは生じません。
もし 今ここで【無意識の自動操縦から離れ
意識的に】自分を感じることができれば、
苦しみは生じないのです。
もし、
気づきを どんどん高めることができれば、
何度も何度も継続してね、
修行を続けていけば、
どんどん 前進していきますよ。
【苦しみの中にいる限り 前進できないので、
苦しみをコントロールする技術(正念正定
:マインドフルネス)を身につけて 前進する。
その技術なしには 前進できない。
そして 前進の先に やっと
「智慧:法」 が 観えてくる】
私は、 歩くことができません。
どこにも行くことができません。
横になって、
手を動かすことしかできません。
動ける範囲は、限られています。
そして 自分を感じています、
朝から晩まで【24時間 365日】
ベッドの上で、苦しみを 消していきます。
続いて また別の姿勢を伴って、
自分【の能動的 主体性】を感じることが
できるようになってきました。
ベッドの上だけで ですよ。
ベッドの上の動きに、
気づきを添えていきました。
【ベッドの上で横になっているだけでも
修行を続けていけば、前進し、
いずれ「智慧:真理」 に たどり着く】
私たちは 横になったら、
ずーっと横になっている。
実際は、そんなことはありませんよ。
体をね、 動かしていますよ。必ずね。
横になっていても、
体を 少し動かしたりするでしょう?
その動き、その動きに
気づきを添えていくのです。
一回一回の その動きにです。
その動きに、 気づきを向けていく。
左に体を ちょっと動かした。
そこに 気づきを向ける。
右に体を ちょっと動かした。
そこに 気づきを向ける。
うつ伏せになった。
そこに 気づきを向ける。
歯を 磨く。
その動き 一つ一つに 気づきを向ける。
顔を 洗う。
その一つ一つに 気づきを向ける。
水を 飲む。
その一つ一つの動きに気づきを向ける。
コップを 手に持つ、
コップが 落ちて割れちゃった。
それにも 気づきを向けていきます。
コップは 壊れちゃっても、
気づきは 壊れませんよ。
これですね。
こうやって私は、 【24時間 365日】
気づきのトレーニングを
していきましたよ。
うんちも おしっこも
私は ベッドの上でですよ(笑)
そして、
そのときも トレーニングなんです。
【これが カンポンさんの 型のない瞑想。
体の不自由なカンポンさんでも、
工夫次第で修行を続けることができた。
どんな人でも どんな方法でも、
気づきのトレーニングは可能だ。
そして 前進し、
「智慧」 に たどり着くことが可能なのだ】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
浦崎感想
ベッドの上に横になって、 体は動けない。
そう聞くと、 もうロボットのように
体が全く動かないようなイメージを
されるかもしれません。
しかし、
たとえ 動ける範囲は限られていても、
横になっていても、
「動く」ことは可能なんですね。
ずっと同じ姿勢だと床ずれが できるので、
意識的に動かれることもありましたが、
もちろん それだけではなく、
少しずつ動かせる部分を
気づきを持って動かしてみる。
そのようなチャレンジを ベッドの上で、
一人 続けられてきたのでした。
もちろん
無理して 一気にやるのではありません。
ほとんど動かなかった左手も、
少しずつ 少しずつ。
動きに気づきを向けていくうちに、
図らずも 「リハビリ」 をしていたんですね。
【ニューロン回路を書き換え 強化するために
少しずつの 継続的なトレーニングが必要】
動けるようになるために、
動かしていたわけではないのに、
副産物として 思った以上に動いちゃった。
【その結果を 期待していたわけではない。
結果を期待(に執着)すると、
トレーニングは上手くいかない】
そんな感じでいらっしゃいました。
リハビリしているつもりじゃないのに、
リハビリになっちゃうという。
今 この動きに気づくことを
積み重ねる・続けていくと、 結果的に
自分が予想もしない結果を得られる
可能性が開けてくるのですね。
【誰にでも、 同じようなことが起こり得る】
(最終改訂:2022年5月23日)