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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 5
思考によって、
教え込ませようとしないことです
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
動きを伴って、体を知ることです。
何度も 何度も、知る【感じる】こと。
続けていくことが大切です。 心に、
気づき【主体性】ってこういうものだよ
と教えていくような感じでね。
別に「思考」は 必要ではありません。
思考で 教え込ませようとする
のではありません。
本当のことを言うと、「感じること」 を
教え込ませようとする必要はありません。
【 「感じる」 ことは、 元々の 「座」 の機能 】
【気づくことと思考は まったく別もの。
余計なことを考えずに、 ただひたすら
修行(瞑想と学び)を 続けていたら、
あるときフッと 気づきが訪れる。
気づこう気づこうと 頭で考えるのは、
まったくのナンセンスだ】
心には、【感じて】知るという 主体的な
性質が もともと備わっているのですから。
心【の座】は【すでに】知っているんです。
【 心の 知る性質とは、 心の「座」 の機能。
一方 思考という性質は、 「自我」 の機能。
瞑想トレーニングによって
主体性の元になる 「気づく」 という
心の知る・感じる性質を再生させることで、
「座」 を 「自我」 より優勢にさせる】
しかし、 知る【感じる】ことを気まぐれに、
あるいは
適当に(ボーッと)しちゃってるんですね。
【 心の座の特性は 「観て 知る」 という
能動的(主体的)機能であるが、
自我が優勢のときは、座の機能は低下して
ボーッとしてる(受動的になっている)】
外側のことばっかり を知る【理解する】
【内側の自分のことは、何にも知らない】
【 外側のことを 見て(処理して)いるのは、
座の上の要素である自我の方 】
あの人 のことや、この人 のこと。
形、音、匂い、味、、、
外側のことは 知っ【理解し】ている。
でも 自分自身のことは、
知ろうとし【感じ】たことすらない。
【 外側を 気にして 見ているのは、 「自我」
その外側だけでなく 自我のある内側も
ぜんぶ 観ているのが、 「座」 】
「外側のことを知る」 ことにかけては
すごくても、 あるいは とても賢くても、
自分自身のことに対して 賢くない
人もいますよ。
【自我が優勢のとき、外側は見えているが
自分のことが観えていない。
(自分が観えない)自我が優勢な人は、
自分自身については 賢くない。
「自分は 何ものかである」 と思っていて、
自分は 何ものでもない ことを 知らない】
ですからね、 新しく 自分の心に
「今ここに戻る」 ことを教えていくわけです。
体の動きを伴ってね、 知っていく。
ここを 知る【感じる】んですよ。
【心が
「いまここ」 にある体に戻れば(三昧のとき)
「座」 が立ち現れてくる。
心の 「座」 の方を優勢にするための技術。
「座」 が優勢になれば
自分自身のことが分かってきて、
自分は 何ものでもない ことを知る】
【過去という】思考に はまり込まないこと。
なぜなら、 もう これまでの人生【過去】は
過ぎてしまったこと【幻想】ですからね。
【過ぎた人生を振り返って
思考に はまり込んでいるのは、
多くの場合 後悔しているとき。
だから、ネガティブな感情なしに
ただ 「想い出に浸る」 ことは 特に問題ない。
だが、ポジティブな感情に引きずられて
「楽しかった過去を もう一度 再現したい」
と願うことには「問題がある」
「いまここ」 でない
「過去」 にはまり込んでいるとき、
「座」 は 完全に姿を消し
「自我」 だけに なっている】
思考によって知るということ ばっかりを
私たちは 長い間 ずっとやってきたのです。
感じることによって知る ということを知らずに
ここまで きちゃったのです。
【 「思考によって知る」 とは、
優勢な自我により
頭だけで知識や情報として知るということ。
一方「感じて知る」 とは、
座が優勢になることで
「リアルで豊かな感覚」 を伴って理解したり、
もともと 自分(座)が知っていたことを
ハッキリと思い出すこと。
「そうだったのか〜」と、 実感として、
「目からウロコ的な感じ」 で知ること】
普通に生活していると、
学ぶことすらなかったのです。
気づきを高めること、 感じることを通して、
心に 気づきを教えていきましょう。
そうしていくと、【主体的な座が優勢になり】
だんだんと 心が整っていきますよ。
この身をもって知る【感じる・気づく】
ということがわかってきます。
心は 何度も何度も 教えられていくと、
だんだん 慣れ親しんできますよ。
お猿さんが 芸を教えこまれるようにね。
最初は お猿さんは紐に繋がれるのがイヤで
逃げよう逃げよう とするでしょうね。
でも 何度も 何度も 教えてもらううちに、
もう 逃げ出さなくなります。
【カンポンさんは、
この状態になることを 「待つ」 と表現した。
「待つ」=「忍耐」=「正精進」
何度も繰り返すうちに、
神経接続(シナプス結合)の様相が 変わり
神経回路が書き換わるので、
それまで 「待つ」 必要がある】
心も 同じですよ。
心に 何度も何度も 教えこませていく。
自分自身に気づくということが、
たやすくなっていきますよ。
そして、
はまり込むことが 難しくなっていきます。
だんだん 慣れてくるとね、
気づきの柱ができてきます。
【はじめの頃は 強い意志が必要だったが】
もう、自分を感じよう 気づいていよう
という 強い意志を持たなくても、
自然と 気づきが高まっていきます。
ただ 今ここの 自分を感じること、
その原因を作っていくことだけで、
いいんです。
もう 自ずから知る様になります。
そして そのごとくになっていきます。
【ただ「感じるぞ」と
心に無理やり命じるのでなく、
感じれる状況(原因)を作ってやる。
動きを利用することで、
感じやすくなる状況を作ってやる】
勤勉さが生じてきたら、それも知る。
時折、知ろうと思わなくても もう、
それが 見えるようになっていきます。
これが 自分自身を感じることを通して
気づきを高める練習をする、
ということです。
【そうやって
自分自身の 「本当の姿」を知れば、
他人に対しても「ああだ・こうだ」 と
批判がましいことは 言えなくなる】
(最終改訂:2024年5月14日)