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アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
「嫌われる勇気」第二夜 縦の関係
人生のタスクは人間関係 (生きる意味は 人間関係)
比較と競争の 縦の関係 (人間関係を壊す 縦の関係)
縦の関係の他者は 敵である のに対して、 横の関係の他者は味方である(仲間である)
仲間である意識が共同体感覚を生み出し、 共同体感覚によって居場所を見いだせる
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。
われわれは 「どう見ているか」 という主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています。
【すべてはわたしである】
だから問題は 世界がどうであるかではなく、 あなたがどうであるかなのです。
【わたししかいない】
あなたは 世界を、そして 自分自身を 直視することができるか。
あなたに その 「勇気」 があるか。
これは 「勇気」 の問題です。
まず 自分のライフスタイルが 「縦の関係」 であることを認めることが 「勇気」 の第一歩です。
人生から 逃避してはいけません。 人生とは (人間)関係のことです。
第二夜:
すべての悩みは対人関係 (すべての幸福も対人関係)
なぜ、自己受容できないのか
哲人 なぜ あなたは 自分が嫌いなのか?
なぜ ありのままの自分を受け入れられない【自己受容できない】のか?
それは あなたが「他者から嫌われ 対人関係の中で傷つく」 ことを過剰に怖れているからです。
あなたの 「目的」 は、 「他者との関係の中で傷つかないこと」 「不快な経験をしないこと」 「自己防衛」 「嫌われたくないこと」 です。
【防衛をやめる(逃げない)ことが 自己受容に繋がるとも言えるし、
自己受容できれば 防衛が不要になり、逃げないで 人生に立ち向かえるようになる。
これは 鶏と卵のような関係であるが、一体 どちらが先なのか?
自分を直視し、自分が何者でもないことを知れば、
何者かであると信じ込んでいる妄想を防衛する必要がなくなるのだが、
それまでは防衛が必要で、 嫌われたくないという気持ちは続く】
では どうやってその目的をかなえるのか?
自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、
対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。
そうやって自分の殻に閉じこもれば、誰とも関わらずにすむし、
かりに他者から拒絶されたときの理由づけにもなるでしょう。正当化ってやつですね。
【それが、劣等コンプレックス:劣等であることに(して、そこに)逃げ込むこと。
劣等コンプレックスとは、正当化を目的にして 自分にはできないと思い込むこと。
その結果 本当にできなくなってしまい、 その悪循環がどんどん進行してしまう。
劣等コンプレックスを利用していることは 逃げていることなので、
いつまで経っても 自己受容できない。
つまり 嫌われたくないと思っている限り、 いつまで経っても 自己受容できない。
でも そっちの方が、
ありのままの・何者でもない自分を認める不快を引き受けるよりは まだマシなのか?
つまり、何者でもない自分を認めたくないから自己受容できない というワケなのか?】
青年 ・・・ははっ、見事に喝破されましたね!
哲人 はぐらかしてはいけません。
短所だらけの「こんな自分」 でいることは、 あなたにとってかけがえのない 「善」
すなわち「ためになること」 「正当な理由・原因・手段」です。 【疾病利得と同じ原理】
対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にあり得ません。
対人関係に踏み出せば 大なり小なり傷つくものだし、 あなたも他の誰かを傷つけている。
当たり前のことです。
孤独【というよりは 孤立】を感じるのは、 あなたが 一人だからではありません。
あなたを取り巻く他者・社会・共同体 があり、
そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独【孤立】なのです。
関わりたいのに、 関わることを避けている。 つまり 逃げている【ヤマアラシのジレンマ】
アドラーは、
「人間の悩みは すべて対人関係の悩みである」 と断言します。
【対人関係の中で傷つくことを怖れるのは、
サバイバルのために上手く対人関係をこなすべきだと 過剰に信じ込んでしまったか、
過去に 受け入れられる(愛される)ことが 極端に少なかったためであろう。
ヤマアラシのジレンマを克服するためには、 他者との距離を 適切にとることが必要で、
そのために 自分を知り 他者との違いを理解して、課題を分離(第三夜 参照)すべきである。
このジレンマは、他者と関わりたいという根源的な(始めの自分:本質の)欲求を
自分は何者かでありたい(ねばならない)という(次の自分:要素の)欲求が邪魔しているという 構図である】
間違った劣等感【劣等コンプレックス・優越コンプレックス】
:他者との比較による間違った劣等感
哲人 劣等感とは、自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだといった感覚。
自らへの価値判断に関わる言葉であり、 他者との比較で生まれる 主観的な意味づけです。
われわれを苦しめる劣等感は、 「客観的な事実」 ではなく 「主観的な解釈」 です。
【同様に 優越感も主観的な解釈に過ぎない】
「主観」 であれば、自分の手で選択可能だということになります。
たとえば 自分の155cmしかない身長について、 (他人に威圧感を与えない)
長所と見るのか それとも短所と見るのか、 わたしは どちらを選ぶこともできます。
青年 ライフスタイルを選びなおす、という あの議論ですね?
哲人 そうです。われわれは、客観的な事実を動かすことはできませんが、
主観的解釈は いくらでも動かすことができます。
短所のように思えることをキッカケに、 努力することもできます。
青年 劣等感をバネにするのですね?
哲人 そうです、それが正しい態度です。
ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、
「状況は 現実的な努力によって変えられる」 という事実を受け入れられない人がいます。
何もしないうちから(or してもすぐに)
「どうせ自分なんて」 「どうせ頑張ってみたところで」 と、あきらめてしまう人たちです。
これは 歪められ 間違った劣等感であり、 劣等コンプレックスと呼ばれます。
たとえば 学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから「わたしは学歴が低い。
だからこそ他人の何倍も努力しよう」 と決心するのだとしたら、望ましい話です。
劣等コンプレックスとは、
自らの劣等性を ある種の言い訳(正当化:逃避)に使いはじめた状態のことをさします。
具体的には 「わたしは 学歴が低いから、 成功できない」 というような
「Aであるから、Bできない」 という論理を振りかざす態度です。
正当化のために、無理やり勝手な因果関係を引き出してきます。
これが、「原因論」 がおちいる罠です。
【都合のいい原因論が、 容易に 劣等コンプレックスを導きだすことになる】
青年 それでも 現実問題として、
高い学歴を持っていたほうが 社会的な成功を手に入れやすいですよね?
哲人 問題は、 そうした現実に どう立ち向かうかです。
何が 与えられているか ではなく、それを どう使うかなのです。
都合のいい因果関係を持ち出す人は、単純に 一歩前に踏み出すことが怖い。
また、現実的な努力をしたくない。
「不満」 はあるものの 一度確立してしまった生き方(ライフスタイル)のままの方が、
「安心」 で 「楽」 なのです。
ライフスタイルを変える勇気がないのです。
「わたしは 学歴が低いから 成功できない」 という考えは、逆にいうと、
「学歴さえ高ければ、わたしは成功できるのだ」 という理屈になります。
【と言いながら、逃げてばかりいる】
この心理状態は 容易に優越コンプレックスに転換します。
青年 それはなんですか?
哲人 強い劣等感に苦しみながらも、努力によって克服する勇気がない。
かといって、劣等コンプレックスのままも我慢できない。
できない自分を 受け入れられない。すると 人は、 もっと安直な手段を使います。
それが優越コンプレックスで、
あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
【ブランド好きは 優越コンプレックス】
たとえば 自分が権力者と懇意であることを、 ことさらアピールする。
「わたし」 が優れている訳ではありませんが、 権威と結びつくことによって、
あたかも「わたし」が優れているかのように見せかける。
権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、他人が自分をどう見るのかにだけ関心があり、
結局 他者の価値観に生き、他者の人生を生きているのです【承認欲求の生き方と同じ】
【そうやって、 劣等コンプレックスや 優越コンプレックスの中に逃げてばかりいないで、
他者のためではなく自分自身の幸せのために 人生に立ち向かうことが 自己受容に繋がる】
(向上の動機づけになる)正しい劣等感
優越性の追求は 他者との競争ではない 【優越性を追求し その成長を喜びとする】
:自分との比較による正しい劣等感
青年 でも 人は誰でも、自分の中の不十分なところを改善しようとしますよね。
それは、優越性の追求【向上しようとすること】でしたよね? それはいいんですか?
哲人 あなたは「優越性の追求」 という言葉を、他者より優れていようとする欲求、
他者を蹴落してでも上に昇ろうとする欲求と思っているようですが、それは 違います。
「優越」 とは自分を超えるという意味であり、
他者よりも上をめざそうとする 競争の意志ではありません。
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。
他者と自分を 比較する必要はありません。
【過去の自分と比べて 「成長」 するという意味なので、 「優越」 より 「向上」 と言う方が適切だろう。
自分の 向上のため、そして 自分の 喜びのため にする努力が適切な努力であって、
他者と比べて勝とうとする努力は 苦しみを生みだす。
縦の関係における比較・競争の対象は 他者なのに対し、横の関係では 自分である。
マインドフルネスによって、
自分と他者の本質が それぞれに 「存在そのもの・全体」 であること、
同時に 他者もわたしも(生老病死の苦しみをともにする)仲間であることを知れば、
つまり、 わたしたちの構造が皆すべて等しく 「本質」 と 「自我 要素 」 からなることを理解し、
本質の部分は皆すべて等しいことを知れば、
他者との比較・競争は(要素 自我としての)表層的な事象に過ぎないことが分かり、
それらを 相対化できることになるだろう】
青年 いや それは無理でしょう。 他人と比べてしまうでしょう 【なぜ 無理なのか?】
劣等感は そこから生まれるのではないですか?
【劣等感と優越感は 縦の関係から生まれる】
哲人 健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、
理想の自分との比較から生まれるもので、 優越性の追求とは自分自身との競争なのです。
われわれは 誰もが違っています。
性別・ 年齢・ 外見・ 知識・ 経験・ 能力、 まったく同じ人間など どこにもいません。
他者との間に 違いはあります。 しかし われわれは、 「同じではないけれど対等」なのです。
その 「機能の違い」 を、 善悪や優劣などという 価値と混同してはいけないのです。
どんな違いがあろうとも、われわれは 対等なのです。
【部分としては 違うが、全体としては みな同じ。要素は みな違うが、本質は 全く同じ。
状況によって たまたま 「良い」 とか、たまたま 「悪い」 という 「違い」 はあるだろう。
その 「部分の 状況に条件づけされた違い」 を、 「全体の 価値の違い」 に変換してはいけない】
自分が 自分で【自分らしく】あろうとするとき、
【要素における 他者との】比較と競争は、 かならず邪魔をしてきます。
【優/劣というのは、限定されたある一つの価値軸においてのみ成立する。
その価値軸を提供する機能の要素において、 どんな人も 必ず劣った点を持っているが、
それを他者と比べるのでなく自分の問題とし、 もし その点においてより向上したいのなら
そうすればいいだけのことで、そのときに比べる対象は 超えるべき過去の自分である。
そう考えるなら 他者より劣っていることは まったく問題なく、 自分の成長だけを観て
それを喜びに変えることができるだろう。
全体としての人間が 全体として 優れているとか劣っているということは あり得ないので、
「人として」 の 優越感/劣等感は まったくの幻想に基づいている。
本来 自分が向上するための優越性の追求が 他者との競争と勘違いされてしまい、
それが 不幸の元になってしまったのだ。
正しい劣等感は 自分との比較によるものであり、 間違った劣等感は 他者との比較から生まれる】
【私の場合は、人間にとってもっとも大切である「愛する実践能力」 が劣っていたので、
この問題を克服することは 難しかったが、上記と同じように考えればいいんだと気づき、
そして 愛の実践能力も 脳に局在する機能の要素であることを知り、 少し心が軽くなった。
私は この要素を成長させて 向上させたいと願っており、 そして
この成長は年齢に関係ないと思われるので、 これを老後の主要なテーマとすることで、
まだまだ人間らしく 活き活きと暮らしていけるように感じれるようになった】
他者との 比較・競争が (縦の関係を作りだして)不幸を引き起こす
【他者との比較による劣等感・優越感が不幸(苦悩)の感覚を生みだしている】
:劣等感だけでなく 優越感も(時間を経て)不幸の元になる
青年 ところで、そもそもの「すべての悩みは対人関係の悩みである」 ということと
劣等感の話は どうつながるのですか?
【劣等感や優越感があるとき 良好な人間関係が生まれるハズがないだろう】
哲人 それは「比較・競争」 を介してつながります。
対人関係の軸に「競争」 があると、
人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができないのです。
青年 なぜ?
哲人 競争の先には 勝者と敗者がいるし、
比較すれば 人間を優れた者と劣った者に 分けてしまうからです。
競争や勝ち負けを意識すると 必然的に生まれてくるのが【他者は敵という意識が隠された】
(他者との比較による)劣等感 / 優越感です。
常に 自分と他者とを引き比べ、あの人には勝った この人には負けたと考えているのですから。
さて、 このとき あなたにとっての他者とは、 どんな存在になると思いますか?
青年 さあ、ライバルですか?
哲人 いえ、単なるライバルではありません。 いつの間にか、
他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」 だと見なすようになるのです。
人々は いつも自分を小馬鹿にして せせら笑い、隙あらば攻撃し、
陥れようとしてくる油断のならない敵なのだ、世界は 怖ろしい場所なのだと。
だから、 自分を守ろうとします。 競争の怖ろしさは ここです。
たとえ敗者にならずとも、 たとえ勝ち続けていようとも、
競争の中に身を置いている人は 心の休まる暇がない。
敗者になりたくない。 そして敗者にならないためには、 常に 勝ち続けなければならない。
【常に 何者かであり続けなくてはならない】
他者を信じること(他者信頼)ができない。
社会的成功をおさめながら 幸せを実感できない人が多いのは、
彼らが 競争に生きている【優越感を感じているために何者かであり続けたい】からです。
彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。
【競争に生きているとは 縦関係の中で生きていることであり、
縦関係の中では 必然的に劣等感と優越感が生まれる。
そして 劣等感を感じているときは もちろん不幸だろうが、
勝ち続けて優越感を浸っているとき感じる快感覚も 本当の幸せからはほど遠いのだが、
競争に生きている人たちは、それを幸せであると 誤認している】
しかし 実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?
あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、
その機会を虎視眈々と窺っているものでしょうか? そんなことはないですよね。
では、 あなたが対人関係を「競争」 の軸で考えなかった場合、
人々は どんな存在になると思いますか?
そのとき人々は、「敵」 ではなく「仲間」 になっていくはずです。
「幸せそうにしている他者を 心から祝福することができない」 のは、
対人関係を競争で考え、 他者の幸福を 「私の負け」 であるかのように捉えているからです。
【というよりは、「自分が幸せでないから」 と言う方が分かりやすいだろう。
自分は不幸なのに他者が幸せなのは 自分が負けたことになるからである】
しかし、【マインドフルネスによって】一度 競争の図式から解放されれば、
誰かに勝つ必要などなくなります。「負けるかもしれない」 という恐怖から解放されます。
【何者かであり続ける必要も なくなります】
他者の幸せを心から祝福できるようになるし、
他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。
その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える。
それは、 あなたにとって 仲間と呼ぶべき存在です。
大切なのは ここからです。
「人々は わたしの仲間なのだ」 と実感できていれば、
世界の見え方は まったく違ったものになります。
世界を 危険な場所だ と思うこともなく、 不要な猜疑心に駆られることもなく、
世界は 安全で快適な 居心地のいい場所 : 自分が自分らしく居られる居場所になります。
対人関係の悩みだって激減するでしょう。
【劣等感や優越感を感じているということは、 人々と闘い 人々は敵だということになる。
比較・競争がなくなり 横の関係になれば、 「本当の愛」 がごく自然に湧き上がってくる】
競争を軸に対人関係をとらえていると、【縦の関係で対人関係をとらえているので】
【敵と認識した相手に対し】権力争いと怒りが発生する
哲人 ① 誰かが言いがかりをつけてきたとき、 その人の隠し持つ 目的を考えてみましょう。
相手の言動によって腹が立ったときには、
相手が「権力争い」 を挑んできているのだと考えてください。
【いつも そうとは限らないが…】
その目的は 「闘うこと」 そのものでしょう。
青年 闘って、何がしたいのですか?
哲人 勝ちたいのです。勝つことによって自らの力を証明し、優越感を感じたいのです。
対人関係において、自分が上であることを確認したいのです。それは「権力争い」 です。
権力争いを挑まれたときには 絶対に乗ってはいけません。
相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが 権力争いだと察知したら いち早く争いから降りる。
相手のアクションに対して リアクションを返さない。
われわれにできるのは、それだけです。
青年 どうやって 怒りをコントロールするのですか?
哲人 怒りをコントロールする、 とは 我慢することですよね?
そうではなく、怒りという感情を使わないで済む【怒らない】方法を学びましょう。
【それが 気づきの瞑想:マインドフルネス】
怒りとは、 コミュニケーションの一形態であり【いつも そうとは限らないが…】
なおかつ 怒りを使わないコミュニケーションも可能です。
われわれは 怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、
自分を受け入れてもらうことも可能です。
それが 【マインドフルネスで】 経験的に分かってくれば、 自然と怒りの感情も出なくなります。
怒りという道具に頼る必要がなくなります。
【なぜ、 あなたは 「比較・競争」 に囚われてしまうのか?
その理由(わけ)は、社会を生き延びるために 「有利」 な立場になるためには
他者との 「比較・競争」 が避けられなかったからである。
このために 家庭でも学校でも社会でも、 比較・競争の価値観の強化が推進された。
そこでの 「比較・競争」 は 本来 社会で必要とされる 「機能」 に限定されるハズなのに、
それが 「人間としての優劣」 であるかのように 誤解してしまったからである。
それは 人間の「全体」をありのままに見ることなしに、
特定の 「良い」 と思われる 「部分」 の価値だけにしか注目していないからである。
「全体」 を「良いもの」 と 「悪いもの」 に勝手に分割・分離し、 「良いもの」 だけを追い求め、
「悪いもの」 を追い払おうとしているからである。
あなたが勝手に 「悪いもの」 としたものは、 本当の本当に 「悪いもの」 なのか?】
哲人 ② 権力争いについて もうひとつ。
いくら自分が正しいと思えた場合であっても、 それを理由に相手を非難しない ようにしましょう。
ここは多くの人が陥る、 対人関係の罠です。
人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、
権力争いにまで踏み込んでしまいがちです。
わたしは正しい。すなわち 相手は間違っている。
そう思った瞬間に、「正しさ」が「勝ち負け」 「競争における優劣」に変換されてしまいます。
「主張の正しさ」 が 「対人関係のあり方」に移ってしまいます。
【正義は 暴力とともに、 人類が攻撃と防衛のためにしばしば利用する 最強の武器である】
【どんなときに 怒りが発生するのか? 怒りには三つのパターンがある。
1. 自分が優位に立とうとして、それができなかったとき:これは 上記①が失敗したとき。
2. 自分が尊重されず、劣位に立たされそうになったとき:これは 上記①の受け手側の例。
3. そして 自分の価値観に従わない、 つまり 間違っていると思う人や状況に対したとき。
:これが 上記②の例】
【縦の関係における問題は、
「幸せになる勇気」 の第2部の(縦の関係をつくる)賞罰を否定する の中の
5つの問題行動として 詳細に説明される】
人生のタスク
哲人 どうして、 あなたが 他者を 「敵」 だと見なし、「仲間」 だと思えないのか?
それは、勇気をくじかれたあなたが「人生のタスク」 から逃げているせいです。
子ども時代 われわれは親から守られ、とくに働かずとも生きていくことができます。
しかし、やがて 「自立」 するときがやってくる。
いつまでも親に依存し続けるのではなく、
精神的に自立するのはもちろん、社会的な意味でも(経済的に)自立し、
なにかしらの仕事に従事しなければなりません。
さらに、 成長していく過程でさまざまな交友関係を持ちます。
もちろん誰かと恋愛関係を結び、 それが結婚にまでつながることもあるでしょう。
そうなれば夫婦関係が始まりますし、 子どもを持てば 親子関係が始まるわけです。
アドラーは、
これらの過程で生まれる対人関係を、
「仕事のタスク・交友のタスク・愛のタスク」の3つに分け、
まとめて 「人生のタスク」 と呼びました。
これらは もっぱら関係を軸とした言葉です。
関係の距離と深さが違います。「3つの絆」 と言われることもあります。
ひとりの個人が 社会的な存在として生きていこうとするとき、
直面せざるをえない対人関係、それが 人生のタスクです。
【人間は 社会的な存在なので、対人関係が 最重要課題になる。
そして、この人生のタスクに踏みだそうとすれば、必然的に 縦の関係に気づき、
それを 横の関係に転換せざるを得ないことに気づかされるからである】
仕事のタスク。すべての仕事の場の関係。
これは広い意味で 他者との協力で成り立っています。
また、成果という共通の目標があります。
「利益」 を媒介に結ばれている 弱い絆関係であり、
その 「場」 がなくなれば 関係もなくなってしまいます。
経済的な自立を確立するための、もっとも浅い、ハードルの低い対人関係です。
そして、この初歩的な対人関係さえつくれなかったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。
交友のタスク。 仕事を離れた友人関係。
仕事のような強制力が働かず、学校や職場のような「場」 を超えた関係。
その人のあり方自体に惹かれるような関係。
「利益」 ではなく「共通の関心:interest」 を介して結ばれる対人関係です。
愛のタスク。 夫婦関係 と 親子関係。
人は、「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える:ありのままの自分でいられる」
と思えたとき、愛を実感できます。
それは たがいに相手を尊重・尊敬・信頼し、 感謝しているという
横の関係が成立していて、 対等の人格として接しているからです。
【全体と 全体の「対等」 な関係である 横の関係が成立している 愛を介して結ばれる関係。
このとき互いに防衛機構を解除できるので、 それが 「自由」 や 「愛」 を感じさせている。
とすれば、愛のタスクは 夫婦や親子の関係に限定されないことが理解できるだろう】
相手を束縛するのは、 愛ではありません。 束縛とは、【相手の主体性を尊重しない】
相手を支配せんとする心の表れであり、 不信感に基づいています。
それは「縦の関係」 です。
アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスク人間関係を回避しようとする態度を、
「人生の嘘【人生からの逃避】」 と呼びました。 厳しい言葉でしょう。
いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。
他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。
それは「嘘つき」 だ、と。
あなたのライフスタイルを決めたのは 他の誰でもない あなた自身である、 のですから。
【最初のライフスタイルを決めたのは 「自由意思」 であった とは言えないかも知れない。
それは、緊急避難的な・やむを得ないものであったのであろう。
しかし、 今 それを再選択しようとするのは、
まぎれもない あなたの自由意思であり、 あなたの勇気である。
あなたの自由意思で、 ライフスタイルを 再選択せよ】
青年 結局 最後は、「勇気」 の話ですか。
哲人 われわれは(幸福になるために)目的論の立場に立って、
自らの人生を、自らのライフスタイルを、
つまり 自らの価値観を、自分の手(自由意思)で選ぶのです。
青年 でも、 結局のところ 先生のお話は精神論ではありませんか?
お前は勇気がくじかれている。勇気を出せ、 と言っているにすぎない。
【その精神論を超えるためには「愛の力」 と その愛を導きだすマインドフルネスが必要】
哲人 では次に 精神論で済まさないために、
勇気ではなく、勇気を語る上で欠かせない 自由について議論しましょう。
【第三夜:課題の分離】
第二夜のまとめ:
「横の関係」 で 他者を「仲間」 とみなすべし
他者を「敵」と見なす 縦のライフスタイルでは、 つねに 他者と比較して 競争している。
本来は(見かけは違うが、存在としては)対等である他者を、
上下・優劣の 「縦の比較の関係」 で見ている。
「敵」 だらけの世界では 心休まるときがなく、
つねに 勝ち続けるための努力が課され、 劣等感や優越感に苛さいなまれる。
完全な勝利はあり得ず、いつまでも賞賛を要求し続け(承認欲求) 権力争いの日々が続く。
これこそが わたしが自分を好きになれない、 幸せを感じられない理由である。
他者・世界との 「横の対等な関係」 が築かれていてこそ、幸せを感じることができる。
人間の悩みはすべて対人関係の悩み だからである。
わたしは、何者かであろうとして 対人関係のなかで傷つくことを怖れていた。 しかし
傷つくことのない対人関係などあり得ない。
傷つく(嫌われる)ことを怖れていては、
他者を 「仲間」 と感じられる 横の対人関係をつくり出すことはできない。
【 「不快」 を避け続けていると、「快」 を得ることもできない】
与えられたものだけを使って、あるがままのわたしで、その一歩を踏み出すしかない。
そして、 人生のタスクに立ち向かうのだ。