「人間は嘘(うそ)をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである」。今日、『斜陽(太宰治著)』この言葉に翼が生えたように多くの人に伝染しているのではないでしょうか。体裁をばかりを取り繕う姿が、広く多く見られます。

 日曜日、マンションではペットオーナー会が開催されました。ペットを飼育している住人たちによる、ペット苦情の対策を講じる会として発足されました。マンションの規約には飼育許可項目が設けられており、飼い主のマナー違反が問題視されています。
例えば、「共用部分ではペットを抱く」「抱けないペットは口輪をする」「糞尿を放置しない」、至極当たり前のことです。一部の心ない飼い主以外にとっては。

全12世帯中、会に出席したのは8世帯。ここで問題が生じます。会の発足のための集いである以上、全世帯参加が必須といえます。とはいえ、人にはそれぞれ生活があるので、不参加も仕方ないでしょう。
 ですが参加者の一部は「この会に参加している方々は、ペット飼育上でのルールは守っていると思います。守っているからこのような場に出てこれるのでしょう。ですが不参加の方々は守っていないから出席できないのでしょう」

口は話す時に開く。あたしは、言葉もなく咥内が乾燥しました。お茶ってこんなにおいしかったっけ。

ここから先は参加者たちの言いたい放題。共用部分でも、「ロビーの出口までを抱きかかえることにして、そこから先(共用部分)はペットを歩かせてもいいのではないか」「うちのペットは大きいから道路まで抱えていくのは無理だ」「うちは二匹だから」……などなど。
終いには、「マナー違反をしている人物は分かっている」などと言い始めました。溺れた犬は棒で叩け、かのように「こういうことは人間性の問題だ」と言い出す始末。

おどろくべきことに、個人権利を主張するばかりで、ルールをさらに緩いものにしようとしています。饒舌です。唾の飛距離を競っているかごとく、まじめな面構えです。まあ、これらこそ人間性なので、あたしは黙していろんな方がいらっしゃるのだなと観察していました。

そもそも、会を発足させてルールを明確にする、このことでペットを飼育していない世帯に理解を求めることが、その意義ではないのでしょうか。

意見を求められたので「共用部分でのペット歩行を禁じるのは、区分所有者にとって正統な権利の主張であるから、そのあたりの定義を明確にするべきだと思います」とだけ答えました。

その後、会の長と副会長を選出するこになりました。するとどうでしょう、先ほどまで唾飛距離選手権の日本代表の選手団が、一斉に沈黙を貫きはじめました。これに困惑した理事会は、あみだくじで選ぼうと提案し、賛同をえました。

結果、会長・副会長が決定されるやいなや「いや、うちは猫だけだから」「うちのわんちゃんを、共用部分に一歩も出したことがない」とこぼれた水をお盆に返し始めました。人生の瀬戸際なのでしょうか、会の役割を担うことが。

たまりかねたあたしが会長になりました。賃貸でいつ引っ越すかわからないのに、みなさんは安堵の笑みです。素晴らしき高齢者、一日の長です。
普段はペットを家族だと真面目な顔をしていう。家族なら守るべき対象であり、その役割を担うのは飼い主だ。役割を放棄して守ることはできない。

あたしがルール作りをするので、もちろん、ペットの飼い主にとって厳しいルールを設けてやるぞ、不真面目な顔をして。
とらえどころのない存在が、よりあなたを高貴に魅せる。ぬめぬめしたウナギは、掴もうとすればするりと逃れる。ウナギを食べる文化は新石器時代からみられたそうです。どうやって捕獲していたのだろうと考えましたが、旧石器時代には釣り針を用いて魚を捕獲していた跡が残っています。釣りの歴史は1万年以上前に始まったようです。

ウナギの価格高騰が鳴きやまない昨今、代替え品も多く流通するようになったのは人の欲か進展か。今月の1日から生食用の牛レバーの販売・取り扱いが禁止されました。米国・カリフォルニア州では同日にフォアグラが規制の対象となりました。フォアグラを採取するための飼育方法が残虐なためです。

食べられないと規制されたら、手に入らない存在であればあるほど、人を魅了する、ようです。本来、ウナギなどは高級食材でありましたから、高くなることは仕方のないことだと思います。それ以前に、すべての食材が安価で購入できる現代の方が異常に感じます。食べたければ他のものを我慢すればよいわけですから。こうした一面からも、我慢するよりも、いかに安易に入手することができるかということに跋扈してきたかがよく分かります。大人が我慢しない社会で、子どもに耐えることを教えられるのだろうか。

この度は法により規制されましたが、タブー、禁忌を破ることへのハードルの低さが伺えます。法律で規制したということはそれこそ、その先は個人のいわゆる自己責任といったところでしょう。
「闇を覗く者は、また闇から覗かれている」
甘美は魅力的であり、代償的であり、といったとこでしょうか。

高価なものだからこそ魅力を感じ、また手に入れたことに対して満足を得ると思います。高嶺の花のマドンナも、付き合ってみればただの女性。ウナギはぬめぬめとしている通り、簡単に手に入らなくてよいのではないでしょうか。
 学校は密室であり、イジメによって自殺する被害者が現れた場合は、密室殺人事件である。
 そして密室は学校だけではない。「大津イジメ自殺事件」とようやく報じられるようになった。だが相も変わらず、個々を分立させ、それぞれを密室とする動きに歯止めがかからない。

 越直美市長は、大津自殺事件の後に就任した。遺族と和解したい、と発言。裁判による和解は、原告が敗訴した際、その内容を秘密裏にすることができる。
 
 大津市教育委員会は隠した。イジメと自殺の因果関係は立証されていない、というのが現在の姿勢。すなわち争ってもいいし、敗訴しないということ。
 
 大津警察署は被害届の不受理ではなく、被害者父の相談を受けただけと言っている。現在、捜査に乗り出している。
 
 川端総務大臣が、事件当時の文部科学省大臣。今現在、事件を文科省に報告していなかったとされている。また何らかの動きをみせる姿勢となった。

 校長は涙ながら、生徒へ箝口令。当時の担任は、未だ教壇で海を見渡している。

  警察は、加害者とされている人物を別件で確保することが可能だ。万引きの主犯格だからだ。泳がせなくても調査をすることはできる。

 権限の分立が三権分立で、その1つが行政。これら行政の立場のヤツラは、密室が大好物だ。広所恐怖症なんだろう。そして、これらバラバラに見える個々は、それぞれつながっている。そしてここに書いている以上のつながりがあり、民間企業や市民団体などが関連している。

 だが、この事実を公の場で明かす必要性は薄いと思う。事件の本質は、イジメによる自殺だからだ。
 越市長の猿芝居や、市教委の隠蔽体質、事件にならない案件は仕事ではないという警察の姿勢、そして大津市だけではなく、滋賀県の体質や知事と現正当とのつながり。また、加害者とされている人物の両親の所属団体やつながり。個人で調べれば十分把握できることばかりだ。なぜ隠蔽されてきたかが分かる。

 ひな壇コメンテーターは、このような事件は全国どこでも起こりうることで、その警告が必要だと唾を飛ばして躍起だ。事件の本質をぼやかそうとしている。こいつらはひな壇なので、話す内容が事前に決められているから当然だ。

 教壇に立っていると、クラスのことをすべて把握しているという感覚になるという話を聞いたことがある。これは錯覚以外の何ものでもないのは、昨今の教育現場事情をみれば明らかである。

 被害者とされている人物の姉は、イジメがあった当時、担任に相談したが口だけの対応に終わった。
 イジメはいつの時代もある。だが、被害者やその周辺が泣き寝入りすることなく、声をあげても現実はこうだ。

 イジメを受けた場合のための相談窓口がある。だがそれもしょせん行政。まともな対応を期待できるものではなく、密室にされるのが関の山だ。そんなところにわざわざ出向いたところで、問題の根本的解決に至るわけがない。

 根本的解決は現場でしか行うことができない。それを放棄したのが当時担任だった森山進。人権問題のプロらしいが、プロなら、自身の受け持つ教室という密室でイジメが行われていたことを見逃すはずがない。
 プロとして子どもを育てる資格は、森山進にはない。教室を密室にした主犯格だ。