一部の国内世論では、日本サッカー協会のとった措置が弱腰だと非難されています。もちろん、オリンピックのサッカーにおける、韓国選手がとった行動に対する表明です。この行動は、オリンピック精神に反していることは、世界中でも知られること。そしてなにより、調和を念頭おいた祭典がまったく理解されていないことに、まさに遺憾の意です。
 
 その後の処分は、IOCやFIFAが決定することなので、いつまでも騒ぐ必要はないと思います。ですが日本サッカー協会が韓国サッカー協会に送った文面が、対外的に問題だと言われています。ここで疑問なのですが、サッカー協会はいつから外務省の管轄になったのでしょうか。そして、対処が弱腰というのであれば、それこそオリンピック精神に反した意見だと言えます。弱腰だと非難している方は、オリンピックのサッカーを外交の一環として捉えているのでしょうか。

 嫌韓から反韓へと国内世論は転じているとも言われています。これは仕方のないことだと思います。友好的関係を築くため、維持するためにとっていた日本の行動はまったく無意味だとも言える動きが随所にみられるからです。大阪で生まれた大統領は、保身のためとはいえ限度を超える発言をしています。そしてそれを支持する人たち、オリンピック精神に反した行為をしたサッカー選手に対する好意的発言。あの国では、常にヒーローが必要なのでしょう、アメリカと同様で。

 ヒーローが必要な国民性。では、ヒーロー以外のその他の人たちは、現世であるその劇中において、どのような登場人物と考えれているのでしょうか。この点が謎です。
答えなどは、必ずしも明確である必要はないと思います。答えのないことを導き出せたのも、答えということができます。賛成でも反対でもない答えというものも存在すこともあります。昨今は、何かと明確化しようとする風潮があります、どのような場面においても。

一年ほど振りに、連絡を取り合えた子と飲みにいきました。彼女は、25歳ながらにして住むところさえ奪われるほどの苦しい生活を送っていました。そんな話をしたのは一年前で、どうしているのか心にぶら下がっていたところに連絡が繋がりました。

あたしの自転車と同じくらいみすぼらしい自転車で現れた彼女は、小麦色でした。大阪でゲリラ豪雨があった日に、淡路島へ泳ぎに行っていたとのことでした。天気はすこぶる良好だったのは焼け具合でよく分かります。

この一年間ほど、安易には想像できないほどの、余裕がない生活を過ごしていたようです。それもようやくここ最近になって、2週間に1度は休日がとれるようになったとのこと。
中途半端になる同情や情け、助けは、本人のためにならないであろうし、そのようなことは求めていないと思っていました。

彼女自身、結局は自分がどうするかということ、それに気づいたということでした。一年間、聞きたかった答えでした。そのせいか珍しく、26時過ぎまで飲んでいました。
sense of wonder.を思い出させてくれました。雨ってどこから降って、どこへ行くのだろう、と。

正しいとされる真実の答えが必ずしも必要とは限らない。事実もまた、答えのひとつとして存在している。
 機械の身体を手に入れるために銀河鉄道999で旅立った物語。今日をみれば、人間の身体が機械化しているといえると思います。それが始まったのは、人類だけが世界と分け隔てた日。人類としての進歩は、生物としての孤立。ヒトにだけあるとされている意識の発生は、生物としての有期を明確にしてしまった。だからこそ、一所懸命という概念があると感じます。

 一所懸命に取り組んで、結果を何より重視するオリンピック。参加することに意義がある、という明言は埃をかぶり、勝つことに意義を見いだすようになりました。その意義に特化していたといえる中国では、国内世論が燃えています。金メダルの数よりも、メジャースポーツでの優勝を、金メダルよりも国民生活の向上と安定を、と社会主義国家の殻が国民という体内から破られようとしています。

 あたしは個人的に、中国の方が好きです。というよりも、知り合いの中国人に悪いイメージがありません。オリンピックでは、バトミントンの無気力試合が波紋を呼んでいます。中国選手はその処分を粛々と受け入れていました。日本で広く認識されている国民性とは、相当乖離していると思いました。

 各国の代表がひとつの競技でナンバーワンを決める。それには、人体を機械化するほどの努力が費やされていると思います。ただ、それを観戦している人たちは勝敗だけではなく、スポーツ精神を通じて、国民性を感じます。国民性が高いということは、それだけでもその国の魅力となります。反対もしかり、特に酷いのは女子バスケでした。

 どの国が酷い印象であったかはあえて言いませんが、腹立たしいというよりも残念でなりません。いくら身体を機械化しても、精神まで機械化したのであれば、ヒトとして誰が応援するのでしょうか。スポーツとしての質の高さを観たいというだけでなく、国同士の闘いであれば国民性にも着目したいと思います。それが世界から、地球から孤立した存在となったヒトとして、せめてもの報いだと感じています。