蒼太 | 蒼空日記

蒼空日記

しあわせダイアリー

星の降り注ぐ夜に、蒼太は私たちのところに産まれてきてくれた。

どこか大人びた表情。
見透かす様な視線。

まだ見えない目で、
まっすぐ、まっすぐ、私を見つめた。

静かに、強く。
そして優しく何かを語りかけるように。

ただ、ただ、可愛かった。
いとおしくて、たまらなかった。

触れると壊れてしまいそうな小さな手が、
私の指を強く握った。

この手を離さない。
蒼太と生きていける歓びで、体中がこれ以上ない幸せに包まれていた。

$蒼空日記



産婦人科では、出産後の感動の余韻に浸る間もないほどの、時間にコントロールされたスケジュールをこなした。
ミルクも、決められた時間内で規定量を与えるまで、わりと厳しくチェックされた。

そんな中蒼太は、与えたミルクを吐くようになった。
飲めば少し吐くを繰り返す蒼太を見ていると、ミルクをあげる幸せなはずの時間が、苦痛に変わっていった。
周りに合わせ、取り残されないように必死だった。

一日に何度も何度も着替えをした。
夜中、静まり返るナースステーションの前で、
蒼太の汚れた服を握りしめてひとり立ちすくんだ。
とても孤独だった。
「ミルクの量や与えるペースが、蒼太に合っていないのか。それとも、蒼太の体の中で、普通でない何かが起きているのだろうか・・・。」
私は、言い表せない不安でいっぱいだった。

先生に時間をとってもらい、蒼太の状態を細かく話した。
蒼太は何かの病気ではないかとうったえた。
先生は笑顔で、
「赤ちゃんにはよくあることです。こんなに元気に泣いているじゃないですか!
しばらく様子を見ましょう。」
とだけ言った。

私は、「よくあること」という言葉に少し安心した。
心のどこかで、蒼太が普通ではないと認めたくない私は、
この時の先生の言葉を信じた。



産婦人科を退院する日。
この日、大量のミルクを看護師さんの服にぶちまけてしまった。
前日までの、垂れ流すような吐き方とはまるで違っていた。

すると、その看護師さんから、蒼太の様子をもう一日診たいとの申し出を受けた。
一気に、心の片隅に在る不安が現実になるかもしれないという恐怖が襲った。
(もう一度きちんと診断してもらい、蒼太の症状に合う病院を紹介してもらおう。)
そう思い、蒼太を預けた。
「まさか自分の子供が」といった昨日までの怠惰な感覚は無くなっていた。

蒼太を預けてから数時間後、産婦人科から、蒼太の様子がおかしいとの連絡を受けた。


産婦人科に到着して見た光景は、とてもすぐに受け入れられるものではなかった。

ついさっきまで穏やかだった蒼太が、絞り出すようなとても低い声で泣き狂っていた。

何かを欲している泣き声ではない。
蒼太は確かに、「助けて!」と叫んでいた。
全身を使って、苦しみをうったえていた。

お腹は風船の様に膨れ上がり、血管が浮き出て見えた。
呼吸困難に陥りながら、目を真っ赤に染め、大きく開いていた。
高く上げた腕と、しっかり開いた指は、
まるで何かを掴み取ろうとしている様だった。


「蒼太・・、蒼太・・」

抱きかかえた蒼太の体は、石の様に固く硬直していた。

「早く、早く何とかして!この子を助けてお願い助けて!!!!」


すぐさま蒼太は、産婦人科から大きな病院へと救急搬送された。

応急処置の間は、生死を彷徨う蒼太の手を握る事すら許されなかった。
産まれたばかりの我が子が苦しむ姿を、ただ見ている事しかできなかったのだ。


数日前、蒼太は私に必死にサインを送っていた。
なぜもっとしつこく先生に言及しなかったのか、なぜもっと早く他の病院で診てもらうようお願いしなかったのか。
なぜ、ちゃんと蒼太の声を聞いてあげられなかったのか。
とにかく自分を責めて、責めて、責めた。
母親としての、あまりの不甲斐なさに潰されそうだった。

搬送先で、看護師さんが涙をためて私の手を握ってくれた時
錯乱状態の心が少し癒され、
同時に蒼太に申し訳なくなった。


蒼太は、たった一人で闘っている。
温もりも慰めも届かない暗闇で、ただただ、生きたいと声を上げているのだ。

「蒼太!蒼太!」

私はガラス越しの蒼太に叫び続けた。

あの時できる事は、私の、お母さんの声を届ける事だけだった。



蒼太はそこから更に、重病の子供のみが集まる病院へ搬送され、緊急手術となった。

苦しみ始めてから、9時間が経っていた。

蒼太の体力が心配だった。
呼吸もできないほど苦しんでいる赤ちゃんが、今からお腹を開くのだ。
とても冷静ではいられなかった。

手術を待つ間、泣く事以外どの様に過ごしたかは覚えていない。
思い出すのは、窓の外の美しいはずの夜景が、とてつもなく悲しく映っていたことだ。


三時間半。
蒼太は、戻ってきた。


$蒼空日記


「蒼太は、お腹にいるときから胃の一部が薄く、そこから飲んだミルクが漏れ、腸を腐らせているのではないか。
この時点では、蒼太の体力を考えても胃の縫合が精一杯で、腸全体を確認できるまで開腹する事はできない。
容態が落ち着いたら、腸の腐った部分を切り取る手術を行うが、その手術の前に菌が体中に回れば、呼吸困難に陥り死に至る。
次の手術までは、抗生物質で菌が暴れるのを抑えるが、命の保証はできない。」

これが、その時の先生の見解であり、蒼太の体に起きている紛れもない事実だった。

蒼太のお腹の中は、産まれて数日の間に取り返しのつかないものになっていた。

私が与えたミルクが、蒼太をここまで酷い状態にまで追いやった。
私はこの手で、我が子を傷だらけにし、命の危機に追いやったのだ。
自分が、両足で立っていられる事が不思議だった。
いや、自分が平然と生きている事が無性に腹立たしかった。


蒼太の、柔らかく小さな口と鼻からは管が入り、手足には何本もの針が刺さっていた。
お腹には大きな傷跡と、中から繋がるチューブが2本むき出しに飛び出していた。
傷口を覆うガーゼには、血が滲んでいた。
痰を吸い出す作業はいつもカーテンが閉められ外で待たされた。
そっと覗くと、体をのけ反ってもがく蒼太の姿があった。

それでも、
真っ暗闇の中でも、
いくら痛くても、寂しくても、
蒼太はこの世界にに留まろうと、必死に息をしていた。

涙はこんなにも出るものなのか。
この世には、こんなにも悲しい出来事があるものなのか。

ちいさなちいさな手を握り、
私の命と交換してくださいと、祈り続けた。


二週間。
先生方の懸命な治療と、蒼太の生きたいという強い思いで、
腐った腸の一部分を切り取るという手術の日を迎えることができた。


私は蒼太に語りかけた。
「蒼太、もう二度と痛い思いはさせないからね。痛い事は今日でおしまい。
ここまで頑張ったのも奇跡的だって先生達言ってるじゃない。
蒼太なら大丈夫。
早く治して家に帰ろう。
針と管を抜いて、抱っこしよう。
たくさん、たくさん、お母さんの温もりを感じてほしい。
あったかいお風呂に入ろう。
お風呂から出たら、おなかいっぱいミルクを飲もう。
そして、かわいい服を着て
オルゴールを聴きながら、ふかふかのお布団で、眠ろう。
お母さんと一緒に眠ろう。
あたりまえのことを、しよう。
そう、きっと蒼太は、一生分の苦しみを今まとめて味わっているだけ。
蒼太、残りの長い長い人生は楽しくて嬉しくて幸せなことばかりが待ってる。
お腹の傷だって、男の勲章だなんて、笑いながら友達に自慢する日がくるの。
いってらっしゃい。
ここからが、あなたのスタートだよ。」

手術室の入り口で、腕の中の蒼太を先生に託し、扉が閉まると大量の涙が溢れた。

蒼太が、一歩ずつ、前へ進んでいる気がした。



しかしすぐに、先生が戻ってきた。

「結論から言うと、手術は不可能です。」


蒼太はまだ手術室で、お腹を開かれたままの状態で眠っていた。

別室の映像に映し出された蒼太の腸は、真っ黒な色をしていた。

蒼太のお腹の中は、先生の予想をはるかに超える救いようのない状態だった。

蒼太は腸を失った。

開きかけていた未来への扉が、バタンと閉じる音を聞いた。

先生が続ける。
「命をつなぎ止めるには、この真っ黒に腐った腸をとにかく早く体内から取り出す事です。
しかしそれを行うには、腸が固まるのをひたすら待たなければなりません。」

何も出来ないまま、蒼太のお腹は閉じられた。

麻酔の影響で、蒼太の顔や体は浮腫みを超えて膨れ上がっていた。
私は、あまりの痛々しい蒼太の姿を直視することができなかった。


何度も、何度も、説明を受けた。
どれも最終的には、腐った腸が固まるまでの最低一ヶ月、蒼太の命はもたないという結論で終わるものだった。

蒼太にはあまり時間が残されていないからと、少しでも傍にいるよう促された。

テレビでよく目にしていたスーパーマンの様な先生が、
うつむき加減に、弱々しくお話されているのを見た私は、
最先端の医療が受けられるはずのこの病院でも、蒼太に治療法が残されていない事実を受け入れざるを得なかった。

そして、蒼太の容態が急変した際も、延命の為の治療は行わないという同意書のサインを求められた。

悔しさで体は震え、涙で文字など見えやしなかった。



蒼太の所では泣かないと決めた。
帰れば長女が待っている。
両親にもこれ以上心配かけたくない。

病院と実家の往復三時間の車中が唯一自分をさらけ出せる場所だった。
海沿いをまっすぐ延びる国一で、
私はひたすら、声を出して泣いた。
口はふさがらず、よだれをたらしながら泣いた。
「ごめんね」を繰り返しながら泣いた。

我が子から当たり前の人生を奪ってしまった罪の意識と、
産まれてきたがために背負わされた息子の苦しみを変わってあげる事ができない、母親としてのあまりの無力さを責める毎日だった。

私は、何も口にする事ができずに病院で闘う蒼太を思うと、食事がとれなくなった。
体調を崩し、自分の運転で蒼太の待つ病院に向かう事ができなくなった。
とにかく情けなかった。
まるで自分に酔った悲劇のヒロインだ。

後悔ばかり口にし、許しを請うだけの母親など、今の蒼太が必要としてくれるはずもない。
蒼太の、生きるか死ぬかの闘いに、私の汚い涙など、何の役にも立たない。

闘い方を完全にはきちがえていた私は、気持ちと生活を立て直した。
病院のそばに家を借り、まだ病室への出入りが許されない娘を、保育園に預ける生活を始めた。

いつか蒼太が退院した時、蒼太と娘の生活の基盤は、病院の近くの方がいいと思ったからだ。

とにかく、前を見た。間違いなくそれは、蒼太も同じだった。
蒼太との未来を、揺るがなく思い描いた。

朝目覚めれば、今日という日を一緒に乗り越える気持ちの準備を整え、蒼太の所へ向う。
病院を出れば、より一層の不安で潰されそうになりながらも、一分、一秒を懸命に乗り越える蒼太と同じ気持ちで時を刻む。

毎日同じ繰り返しの様に見えてそれは壮絶な、かけがえのない命との闘いの毎日だった。


蒼太はPICUから一般病棟へ移り、腐った腸が固まるのを待つ事となった。

一秒先に容態が変わっても全くおかしくはない状態で、ただひたすら待つだけという日々はまるで、小さな体に、いつ爆発するか知れない爆弾をつけて、放っておくことと何ら変わりはなかった。


ただ、蒼太は穏やかだった。
そして、とても強かった。


色々な方向から入れられたメスの跡は生々しく、皮膚移植の話が出たが、
そんな話を聞いていたのか、お腹の傷跡はみるみるきれいに治っていった。
お腹の中から繋がるむき出しのチューブも、それから程なくして抜く事が出来た。

しばらくして、入浴の許可が出た。
待ちに待った瞬間だった。

点滴をしながらの危なっかしい沐浴も、蒼太はとても気持ちよさそうにしてくれた。
体を拭くときは、うっとりとした表情で、目を閉じていた。
あまりに穏やかで、愛しくて、鼻と鼻をくっつけたり、
残り香の漂うピンクのほっぺに何度もキスした。

お風呂上がりには、ほんの数滴のソリタ水を飲んだ。
口から入れられる栄養が無い蒼太にとって、この水は気休めでしかない。
それでも蒼太は、むせるほどの勢いで、飲み干した。
腕の中で勢いよく水を飲んでいる姿からは、蒼太の強い生命力を感じ取る事ができた。

水を欲する大きな泣き声は、「生きたい」という蒼太の叫びそのものだ。
お腹いっぱい飲ませてあげられない事に悲観的になるよりも、ただこの蒼太の叫びだけを聞き、自分を奮い立たせ、蒼太と同じ気持ちで前を向いた。
蒼太の頼もしさに、強さに、私の方が生きる力をもらっていた。


病室では、時間の許す限り、ひたすら蒼太を抱っこした。
それは、蒼太に甘えっぱなしのとことん頼りない私が、唯一母親らしくいられた時間だった。

ゆらゆら揺れる腕の中で、蒼太はよく眠った。
長いまつ毛が愛しい。
夢を見たのか、頭が動いて開いたお口が、なんとも間抜けで可愛かった。



腸が通じていないと言われながらも、便がよく出だした。
先生は、便ではなくお腹の中の汚れたものが排出されているだけだと言っていたが、
私は、固まり始めた腸を使って出た便だと思い込み、疑わなかった。
信じてさえいれば、それを現実にしていく力を、蒼太は持っていたからだ。

顔色もとても良くなった。
音楽を流すと、「アー、アー」と、リズムに合わせて歌うようになった。
絵本を読むと、私の顔を何度も何度も確認する仕草をし、
時折笑顔を見せてくれるようにもなった。
おもちゃをしっかりと握りしめ、音が鳴ると不思議そうにじっと眺めたりした。

半年を過ぎても3kgに満たない体で、寝返りも打てるようになった。

時々許された長女との面会では、長女の顔を見つめ、語りかける声や歌にじっと耳を傾けた。蒼太がお姉ちゃんの存在を認識し、二人の空気を包み込んでいるかの様な、姉弟の、やわらかく優しい時間を過ごした。


蒼太は、病気と闘いながらもしっかりと成長していった。

大きな窓から見える景色に、差し込む光に、眩しそうな表情をしていたけれど、
ここから出て、あの眩しい世界に飛び込みたいと誰より強く思っていたのは、他の誰でもない蒼太自身だった。
蒼太に付けられた爆弾は、日に日に私の目には映らなくなっていった。


そして、死と隣り合わせの先が見えない毎日から一変、
「腐った腸が固まり、取り出せるかもしれない」と、先生からお話があった。
何も出来ずにお腹を閉じてから、何十日と待って、待って、待ち続けた瞬間だ。

その場にいた看護師さんと抱き合って喜んだ。
家族に連絡をとり、その旨を伝えた。
皆、涙して喜んでくれた。
周りの皆の思いに、蒼太は応えている。
生きてさえいてくれれば、どんな壁も、乗り越えてくれる気がした。

手術は、成功した。
蒼太は元気に戻ってきた。

腐って固まり始めた腸を取り出し、僅かに残る腸で裏表を縫い合わせ、つぎはぎの管をつくりだし、繋ぐという大手術だった。
先生への信頼は計り知れなかったが、この手術を終えた時は、まるで神様のように見えた。

ひたすら祈り続け、迎えられたこの瞬間は夢の様で、
蒼太の生命力は、希望に満ちた遥か未来を照らした。
私には確かに、その光が見えた。

蒼太は爆弾を体内から取り出し、残りの約10センチの管で、生きる準備を整えた。



先生は解っていたのかも知れない。
この体内の構造では長く生きる事が難しい事を。

ただ、私にとってはもう、医学的な事は関係なかった。
蒼太が持つ底知れぬ力を、信じたいと思った。

「今こうしていることが奇跡だ。」と口を揃える先生方。
「そうちゃんはすごいねえ、がんばりやだねえ。」と微笑む看護師さん達。

私は、声を大にして叫びたかった。
「あたりまえだ!私の自慢の息子なんだ!絶対死なせない!
ずっと、ずっと一緒に生きていくんだ!」

やわらかく息をし、私をきょとんと見つめる小さな赤ちゃんは、
どんなに苦しくても諦めようとしない、すさまじい気迫を内に秘めた、男の中の男だった。

$蒼空日記



先生が、蒼太と同じく短腸でも元気に生活している小学生の男の子の写真を見せてくださった。
口からの栄養では足りない為に点滴は欠かせないが、肉付きも良く、見た目ではとても難病とわからないという。
写真の中でお母さんと二人、彼は節句の衣装を着て微笑んでいた。

目を閉じて思い浮かべるのは、大きく成長した蒼太の元気な姿。
人生の節目にはたくさん写真を撮ろう。
スポーツだって思い切りやらせてあげたい。
蒼太が大きくなった頃には、医学がもっと進歩して、好物をお腹いっぱい食べる事がきっとできる。
その日まで、その日をひたすら信じて、一緒に歩いていこう。

彼の写真を見て彼の存在を知れた事は、とても励みになった。

私の思いに応える様に、蒼太の体重は少しずつ増え、
更に頬に丸みが出てきた。
点滴の栄養だけで、手足にほんのり肉もついてきた。
私のかける言葉を理解し、受け止めてくれているかの様に、
蒼太の頑張りは、休む事を知らなかった。

そんな時、病院にボランティアに来ていたアメリカ人の高校生、ケン君と出会った。
彼は将来医者になり、たくさんの命を救いたいと瞳を輝かせていた。
私が面会に行くと、よく蒼太を抱っこして待っていてくれた。
帰国の前日、
「アメリカに帰って、そうちゃんの事を思い出しながら勉強を頑張るよ!絶対に医者になって、たくさんの命を救うよ!」
と、蒼太に約束をしてくれた。
そして、
「またいつか絶対に会おう、その時はキャッチボールをしよう。」
そう言って、彼は蒼太に野球ボールをプレゼントしてくれた。
蒼太の闘う姿が、この純粋な少年の心に刻まれ、いつかそれが命を救う力に変わる日が来る事を、心から願った。
成長した二人が、楽しそうにキャッチボールをする姿を想像し、私からも伝えた。
「絶対に、また会おう!」


何もかもが、光射す方へ向かっていた。
そう、信じていた。