あけおめ。ことよろ。
元旦です。
めでたいです。
なんで、めでたいんでしょう。
一切の文献へ尋ねずに考えてみようと思いました。
ザックリというと新年の元旦って「生」だと感じるのです。
「なま」ではないです。
「せい」です。
けど、「しょう」と呼びたいところです。
「生死」の「生」です。
数え年では元旦に一歳づつ年をとりますしね。
卑小な自分の身で把握できる大きな「生死(しょうじ)」はまさに自分の一生です。
生まれて、死ぬまで。
対して把握できる小さな「生死」は「息」だと思います。
吸って、吐くの繰り返しはそのまま「生死」の繰り返しとも感じることが出来ます。
もう少し大きい「生死」は「一日」でしょうか。
寝て、起きての「生死」を繰り返し。
その中で「年が変わる」という新年は、自分で捉えることができる「生死」の中でほどよい「希少感」があるのだと思います。
そして今ある「生」の喜びがそのままめでたさを感じる理由なのではないのかと。
でも、ただめでたいめでたいと終わるようでは大変にもったいないことです。
元旦はこの繰り返しの「生死」をわかりやすい「希少感」で私に問うてくれます。
ただなんとなく「めでたい」というのではなく、この瞬間に「いのち」がある喜びをめでたいと味わう。
「生死」の繰り返しは日々の息のレベルで繰り返していることを感じ、その繰り返しの先にある世界に思いをはせる。
でも、吸った息をかならず吐くことが出来る保証はありません。
元旦は、いまこの瞬間に「生死」の繰り返しを止めるかもしれない我が身の「現実」も問うてきます。
初詣は「賽銭をいれて、我が身に都合の良い欲望を、仏に叶えさせる」場ではありません。
佛様の前にひれ伏し、我が身を見つめ直す場です。
見つめれば、見つめるほど、弱く、儚い我が身です。
そんなに儚い身であるのに日々の息すら大事に味わうことの出来ない驕った身です。
驕り高ぶる身であるがゆえに「生死いづべき道」を考える事のない日々です。
そのような日々を送る私の前におわします佛様は「そのままで来い」と呼びかけておられます。
いや、今この場に来た私に言うのではなく、その前から、そして私がどこ行こうとも私の傍にあり「そのままで来い」と呼びかけてくださいます。
元旦こそ、佛様にお参りし「南無阿彌陀佛」と味わう日でありたいと思うことであります。