ここまで、支持できない政策ばかりの選挙戦も珍しかった。
と・・・・無効票を投じた私には言う資格なし。
でも、取りあえず 祝民主党崩壊!
いつ頃からだったでしょうか?
街にイルミネーションが増えたのは・・・・
私が住んでいる町に有名なイルミ屋敷があるそうで見物に行って来ました。

ド田舎の田んぼの中に忽然と姿を表す歌舞伎町の様な異様な光景・・・・
この光景は、どう見ても田舎のラブホテルですね(><)

噂には聞いていましたが・・・・
近くで見ると凄まじい。
しかも、点滅パターンが異常に多い・・・
点滅だけなら近くのパチンコ屋にも負けてない。
個人的に、かなり痛い・・・痛すぎる・・・激痛かも・・・orz

まあね
個人の勝手ですから
自分の家ですから
何やってもOKなんでしょう。
たぶん
全国には、もっと凄まじい家もあるんでしょう。
でもね
心底思いました。
こんな家の近所じゃなくて本当に良かったなと。
あまりの痛さに呆気に取られている横で、他の見物人の話し声が耳に入りました。
「うわ~!キレ~ッ!!」
「スッゴ~イ!!」
何と言う簡便な感嘆詞でしょう・・・orz
この人にとっては見物ではなく、「見学」なんでしょうね、きっと( ´艸`)
十人十色とは云いますが人間の感性って、こんなにも差があるもんなんですね。
個人差はもちろん性別でも感性には差異があり、女性と男性の目と脳は色調を見分ける構造も違うらしいです。
男性は基本的に三原色(赤・青・黄)を識別するのに対して、女性は三原色プラス一色を識別しているそうで、女性の方が色に対する感性が豊かであり、微妙な色調の変化にも敏感なので、イルミネーションなども男性より楽しめるんだとか。
これは人類が狩猟採集を行なっていた頃の名残りだそうで、男性は狩猟の為の動体視力を発達させ、女性は採集の為の近くの物体の色の識別能力を発達させた結果なんだそうです。
そう言えば、感嘆していたのは殆ど女性だった様な・・・
私は若い頃に仕事の関係で欧州に行く事が多かったのですが、さすがに欧州のイルミネーションは上品でお洒落だったのを覚えています。
なにしろ日本とはイルミネーションの歴史からして違いますし、日本人と外国人(特に白人)の光を識別する能力も違う様です。
オーストリア、ウィーンの市庁舎
あまりにも有名なパリのシャンゼリゼ通りのイルミネーション
個人的に思うのですが、イルミネーションは明と暗のコントラストと配色でセンスが問われると思います。
欧州のイルミと上記のイルミ屋敷では、こういう観点で見ると違いが良~く分かりますね。
日本には日本の「光飾」がある筈です。
個人的に素晴らしいと思うのは、栃木県の湯西川温泉の「かまくら祭り」の光飾です。
無数の小さな「かまくら」の中に灯されたロウソク。
どうです?
素晴らしいと思いませんか??
欧州のイルミネーションに通ずるセンスがあると思いませんか??
本当に素晴らしい。
幽玄かつ暖かで優しい光が何とも言えませんね。
しかも旧暦の正月の時期から点灯されると云うのも、風情があって良いですね。
私なら、こんな所で年末年始を過ごしたいな~
栃木県湯西川温泉
本日の教訓
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
兎にも角にも
あのイルミ屋敷の近所じゃなくて良かったなと・・・・ε-(´∀`*)ホッ
我が郷里、豊前小倉城下の紫川河畔のイルミネーション。
紫川なんで紫の電飾なんでしょうが、もうちっと暖色系で纏めて欲しい・・・
お前は、おさるのジョージか?!(笑)
Uninvited feelings, they come without warning and they stay too long
紀州犬しろちゃんのブログより

ジムニーの車幅とほぼ同サイズのメス猪ですね。
屋久島犬・ライ、紀州犬・テツ、ライの娘・マルコの三頭で仕留めたそうです。
この手のサイズのメス猪は私の地元では「走り頃」と呼ばれ、犬に追われると「富嶽三十六景逃げるに如かず」てな感じで闇雲に遁走する事が多く、立ち止まって犬と格闘戦に持ち込む傾向の強いオス猪よりも止める事が難しいものです。
ライとテツのコンビで仕留めた模様で、マルコはまだ見習い段階と言ったところでしょうか?
屋久島犬・ライ

紀州犬・テツ(ジョーの同胎)

マルコの写真が見付からず・・・・割愛させて頂きます(><)
どの犬も怪我の無い様に今猟期を過ごして欲しいと思います。
テツ~ッ!頑張れよ~!!
銅像を見ていて佐々木巌流先生の「燕返し」なる技の技前に改めて興味が湧きました。
今までは、燕返しとは初太刀で斬り下げた刀を逆袈裟に斬り上げる技だと漠然と思い込んでいたのですが、此の銅像の巌流先生の柄握りを改めて観察すると右手を逆手に握っています。

直感的に、妙な握りだな~と感じます。
私が修行している二天一流や古流居合にも、こんな握りはありません。
普通に逆袈裟に斬り上げるのならば順手で握っているのが自然かなと思います。
何故に右手を逆手に握っているのか??想像が止めども無く膨らみます。
此の銅像の描写は、まさに燕返しで斬る直前の描写だと思われますが、一体どのように斬り上げるのか??道場に帰って実際に同様の動作を色々と検証してみたり、燕返しに関する文献を読んで検証してみたところ、私なりの一つの結論・・・いや推論に行き着きました。
燕返しの初太刀は、「順手握りによる上段の見せ太刀」で敵の斬り込みを誘った後、しゃがみ込み低い体勢を取りながら半身の状態で、敵から柄握りが見えない様に右手を逆手に握り替え、斬り込もうと接近して来た敵の足運びに合わせて逆手握りのまま切っ先を水平以下まで下げ回しながら、右手は逆手のまま空手の正拳突きの様な軌道で繰り出し、左手は順手握りのまま柄を保持し、動脈の急所がある敵の右内腿へ逆袈裟に近い鋭角度で斬り上げる技ではないだろうかと考えました。もしも内腿を斬れなくても、そのままの刀身の軌道で敵の内小手を切っ先で傷付ける程の長尺刀であったとすれば・・・その為には水平に近い操刀ではなく、感覚的には真上に斬り上げる様な動作が必要・・・・・想像は尽きません。
まさに物干し竿と呼ばれた三尺の長刀の利点を生かした恐ろしい技だと思います。
剣術を修行していると感じるのですが、オーソドックスな上段からの真っ向や袈裟での斬り込みは対処がしやすい反面、逆袈裟の斬り上げは非常に捌きにくく見切りも難しく感じます。
長刀での燕返しをやられると、敵は自分の間合いに入る前の遠い間合いのまま急所である動脈が通った内腿や手首の内側を斬られてしまうでしょう。動脈を傷付けられたら出血多量で間も無く戦闘不能に陥る事は明白です。
そして、此の燕返しを制す為に流租宮本武蔵先生は三尺より長い得物で挑まなければならなかった理由にも肯けます。小説に登場するような船の楷を削った木剣は飽くまでも小説上の脚色されたもので、実際は三尺より長い木剣を予め用意して決闘に臨んだと伝え聞いています。
決闘に敗れたとは言え、佐々木巌流先生も相当な使い手であった事でしょう。
巌流島には巌流先生を偲ぶ石碑があります。
最近の研究では、佐々木巌流先生の出身地は小説の記述された長州岩国ではなく、豊前国副田(福岡県添田町)である可能性もあるそうです。
当時の添田町には佐々木一族と云う強力な土豪が存在し、細川藩も制御しかねるほどの勢力を誇っていたそうで、巌流先生は其の佐々木一族の出自ではないかと云う事です。
巌流先生は細川藩の剣術指南役と云う役の上に、細川藩の目の上のタンコブであった佐々木一族の出自でもあり、藩の佐々木一族を押さえ込む謀略に巻き込まれた結末が巌流島の決闘であったと云う事にも十分に考えられるのでは無いでしょうか・・・・
いずれにせよ、どれを信じて良いのか解らぬ程の雑多な史実や史料が交錯している今となっては浪漫は大きく膨らむばかりですが、私は個人的に添田町出自説を信じる気持ちが働いてしまいます。
佐々木小次郎豊前添田説
全国的に狩猟シーズンに突入しましたね。
既に私の地元では11月1日から解禁されてますけど・・・
皆さん、今週末くらいが初出猟と云う感じでしょうか?
どうか御安全に狩猟期間を過ごして頂きたいと思います。
ところで、私は今年は休猟します・・・
休猟の理由は、父親の病状が優れないのと妻の出産が年明けに控えているからです。
山に入っている時に、身重の妻や病床の父に万一の事があったら、すぐに対応できないと思うので今年は出猟しません。理由は只それだけです。
日本人の狩猟観には、色々と迷信めいた地方独特の慣習のようなものもあります。例えば、妻が妊娠中に夫が狩猟で「殺生」をすれば、生まれて来る子の身体に障害が出るなどと昔から実しやかに言い伝えられていますが、はっきり言って私は此のような迷信めいた理論などは信じていません。妻が出産しない年は普通に出猟して明らかに殺生をしているわけで、その年だけは殺生をしなければ良しとする考え方自体、余りにも都合が良すぎると言うか不合理過ぎると思います。此れは一般的には日本人に宗教観念として深く浸透している「殺生は罪悪」と云う仏教戒律や「死は穢れであり、死に関わる肉食も穢れ」と云う神道思想によるところが大きいと思うのですが、古代国家が誕生した頃からの日本史を紐解いて見れば、仏教および神道思想と云う一言だけで単純に説明できない複雑な要因が垣間見えて来ます。
縄文時代までは、狩猟と漁労と採集が人間の生活手段の主体であったわけですが、いわゆる弥生時代頃に大陸から稲作が伝わり「米文化の形成」と「天皇制の形成」に拠る古代国家の成立に伴って天皇制を象徴する食べ物こそが米であると云う日本人の「米至上主義」に変遷して行った歴史は実に興味深いものがあります。
日本書紀や古事記に記されている神話などを読んでみても、そこには稲作を中心とした思想で占められていますが、古代の天皇制に於いて「狩猟は重要な儀礼」の一つであり肉食も禁忌されていたわけでは無かった様です。神話の世界の登場人物では無い実在の人間としての天皇が出現した時代である675年に、当時の民衆にまで対して歴史上初めての「肉食禁止令」が天武天皇により発令されています。しかし此の肉食禁止令には禁止となる対象獣と期間が定められており、農耕用の牛馬と家畜である犬と鶏と、そして猿と云う「五畜」を食べる事が禁止されただけで狩猟獣である猪や鹿や熊などは除外されていたのです。除外されていたと云う事は、狩猟で捕獲され食べられていたと考える方が自然であり、完全な肉食禁止の思想では無かったわけですね。
天武天皇と云う御方は仏教を厚遇し、自らの葬儀に際し僧による読経などの仏教的な儀式を取り入れた最初の天皇だったそうです。そして時代は下がり、中世から近世へと仏教的な肉食と殺生の禁忌と云う戒律観念と仏教と融合した神道思想に於いても「肉食は穢れ」と云う観念を日本人に広く深く浸透させ、米と云う国家的食料を頂点にした権力を手中にしたい為政者によって挙国生産体制としての稲作を推進させて行ったと云うところが日本の本当の歴史でしょう。
定住して稲作を行う民以外の定住しない或いは定住出来ない人々は定住農耕を営む人々から蔑視され、やがて様々な差別を受ける穢多などと呼ばれる被差別階級が形成されて行ったのでしょう。そして此の中には獲物を追って定住しない狩猟民も含まれていた事は間違い無いと思われます。穢多と云う呼称は神道で言うところの「穢れ」と云う語字を使用しています。つまり「穢れが多い」と云う意味でしょうね。そして死に関わる肉食は穢れとみなされ一般大衆はおろか為政者にまで時代が下がる程に肉食禁忌思想と穢多などの被差別階級に対する差別意識に拍車が掛かったのです。其の差別意識は為政者にとっても民衆の不満を自身へ向けないようにする格好の材料でもあり、禁断の美味である肉食を行う為に不可欠な殺生を被差別民に肩代わりさせる目的もあったのです。男女を問わず一般的に現代日本人の多くが狩猟を嫌うのは、中世以降の日本人の脳に刷り込まれた無意識下・・・いや意識下の卑賎思想に拠るものだと思います。
ところが古代から現代に及ぶまで肉食は連綿と行われて来ました。様々な抜け道的な考え方を無理矢理にこじつけて、猪を「山鯨」と呼んで食したり兎を「一羽二羽」と数えて四足では無い様にこじつけて食して来たのです。それは何故か?単純に「肉は美味しい!」からなのです。強欲な人間の事ですから、米食や菜食だけで満足する筈がありませんよね。人間とは本当に強欲で勝手の良いものです。現代の多くの人々はスーパーでパック詰めされた肉を、何の心の咎めも無く買い求め嬉々として美味そうに貪り食っていますが、もちろん肉は最初からパック詰めされて此の世の中に魔法の様に現れた訳では無いのです。其の肉は元々は生きていた動物の肉であり、自分達の目に見えない場所で誰かが動物を屠殺し血を抜き皮を剥ぎ解体して食肉へと加工したものなのです。そんな簡単な事も自身の心に留め置かずに肉を貪り食らう人々から狩猟を批判されたり、眉を顰められたり、挙句の果てには何の根拠も無い迷信を押し付けられる筋合いは無いのです。中世以来、人間の卑しい食欲の本音と宗教的な建前の上に罷り通った肉食禁止令は、西暦1871年である明治4年に解除されていますが、140年経った今でも現代日本人の卑賎観念は大して変化していない様です(苦笑)
以上な訳で、妻の出産に関する迷信などは全く信じていませんし信じる気にもなりません。
飽くまでも深山に居る際に、家族の一大時に緊急対応が出来ないと言う事が休猟の理由です。
しかしながら、かく言う私も猟師として色々な験担ぎの様なものは信じていますし、大地や山の神に感謝する観念は間違い無く持ち合わせています。此れは同じモンゴロイドであるネイティブアメリカンの人々の「グレートスピリッツ信仰」に非常に良く似た観念であり興味深いものです。此の辺のところは、またいつか掘り下げてみたいと思います。
ああでも無い、こうでも無いとグダグダ書いてしまいましたが・・・・
チビッ子ボウハンターとアメリカンシシイヌは絶好調の様ですな(´0ノ`*)
Hey, boy.
Enjoy your hunting season!
幸せは空の上に
悲しみは星の影に
悲しみは月の影に
思い出は涙の中に
思い出は胸の中に
覚悟していた事とは言え・・・
遂に来るべき日が来てしまいました。
我が一門の大先生が10月27日早朝、九十三歳の天寿を全うし逝去されました。
ほんの数日前の事です。
巌流島の決闘から四百周年を記念し同島にて10月28日に開催される演武大会に参加する為の稽古に励んでいた26日の夜半、御長男である現宗家から大先生が倒れられたとの報を受けた道場内の一同に大きな動揺が広がりました。
大先生は呼吸停止の状態でケアハウスのベッドから落ちて救急車で救急病院へと搬送された後、直ちに人工呼吸器を装着されて一時的には血圧も上昇し持ち直されたかの様に見えたものの脳死状態のまま翌27日の早朝、たった一夜を駆け抜けるように息を引き取られたのです。
午前中に一門全員に訃報が伝えられ、其の夕刻、師範代以下の一門要人が招集され翌日の演武大会への対応と葬送の段を相談。参加予定であった宗家・師範代は当然不参加を決定するも、一門を代表して私とS先輩の二名のみで演武に参加せよとの命を受けました。正直なところ私も参加を見送りたかったのですが、主催する同門支部の先生方の御立場を深慮のうえ二名にて参加と決定しました。
関門海峡にて巌流島を遠望

巌流島全景

演武終了後、蜻蛉返りで地元に戻り午後七時からの御通夜に参列。
数百名を超えた弔問客の受け付けと御案内に御返しの袋詰めなど、手伝わねばならない仕事が山盛りで涙の出る暇も無く、翌日の告別式でも同様の仕事に追い立てられました。
棺の中で安らかな御顔の大先生に生花を手向け、一門最敬礼で出棺を御見送りで、ようやく泣く事が出来た様な次第でした。

今はもう・・・
旅路の果てに宿の無い様な行き暮れた侘しさばかりの胸中です。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そ儚きものは此の世の始中終、幻の如くなる一期なり
以上、蓮如上人と云う浄土真宗の高僧が人生の儚さを切々たる無常観にて著した「白骨の御文章」と云う御文です。
私は全くもって熱心な仏教徒ではありませんし、特定の宗教を信仰している訳でもありません。神社にも詣れば仏壇にも手を合わせるごく普通の宗教観を持った日本人の一人だと思いますが、しかし此の御文は深く確かに心に響きます。大先生が現役を引退されてから僅か一年と三ヶ月余り、まさに、まさに、白骨の御文章を痛感せざるを得ない様な顛末でした。
二十年ほど前に刊行された写真集・「居合道」に登場する大先生の御姿は、私の心の中で何時までも色褪せる事は無いでしょう。
大先生、どうぞ、ごゆっくりと御休みください。
御冥福を心より御祈り申し上げます。
「The Gosho Ha Hyōhō Niten Ichi-ryū」
























