里永尚太郎のココロ想うままに!! -3ページ目

里永尚太郎のココロ想うままに!!

憲法・安全保障問題と島興志(地域活性化事業)への取組みを中心に書いていきます。

 国務省も戦後日本をどうするかという要請を受けて組織が拡大していく。

 1944年2月には、戦後計画委員会(PWC)が置かれ、それまで下部のワーキング・グループと上部をつなぐ組織として、それなりに機能してきた「領土小委員会」は、極東での問題が大きくなるにつれて欧州担当と区別する必要が生じた。


 その結果「極東に関する部局間地域委員会」となって積極的に活動を開始する。このあたりの組織の変遷は、戦争の局面と呼応して実に複雑に変わっていく。


 極東班が極東局と変わり、特別政治局の地域調査部に属していたブレークスリー、ボートンの作成する文書も、内部の参考資料という段階を越え、重要な役割を果たすようになる。


 文書は、Tシリーズの内容を基礎に、「国と地域の諸委員会(CAC)」というクレジットのついた新しいシリーズに生まれ変わっていった。CACの文書は、占領政策に具体的に反映するという前提で、まず予備草案が書かれ、それが戦後計画委員会(PWC)で討議され、正式の文書に書き直されいる。


 数多い文書の中で最も注目されるのは、CAC116「米国の対日戦後目的」である。これはブレークスリー博士のT357「日本の戦後処理に適用すべき一般諸原則」が姿を変えたものだが、その格調高い文章のなかには、ポツダム宣言の重要な条項がほとんど網羅されている。


----------------------------------------------------------------------

米国の対日戦後目的 (CAC116=PWC108)1944年3月14日


1、領土的目的

日本は、、満州、委任統治諸島および軍事占領下の全地域より撤収する。朝鮮、台湾、および第一次大戦の開始後に獲得した全諸島を日本は奪われる。


2、軍事的目的

日本が米国および他の太平洋諸国に対する脅威となることを阻止する。この目的達成のため、武装解除、軍事的監視、経済活動の統制、および連合国が安全保障のため不可欠とみなす特定産業の長期的制限、などの措置をとる必要がある。


3、経済的・財政的目的

国際的安全保障上必要な制限の枠内で、また賠償問題を考慮しつつ、日本は非差別の原則にもとづく世界経済の発展に与えることを許され、徐々により高度な生活水準に向かうことができる。


4、政治的目的

他国の権利と国際的義務を尊重する政府を日本に樹立することが、アメリカの利益にかなう。それは、軍部支配から自由であり、平和の維持を望む文民によって支配される政府でなければならない。そのため、①陸海軍から政治的特権を剥奪すること、②新聞とラジオを通して、民主主義諸国との間に知的コミュニケーションの自由を確立すること、③日本の穏健派政治勢力を強化する措置をとること、が必要である。


5、終局的目的

太平洋地域における平和と安全の条件を高めるため、諸国民の家族のなかでの、完全にして平等なる一員として、友好的な日本を復興することが、米国の終局的な目的である。米国は、日本を含む世界の諸国民が、国内的・国際的生活に於いて、平和と協調と繁栄に向かうことを願うものである。


(五百旗頭真著『米国の日本占領政策』より)

-------------------------------------------------------------------------------


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 89-90ページ。)



 今年は、昨年、奄美地方を襲った2度の大型台風の影響で、タンカンオレンジは不作でしたが、無事、今年も完売御礼!!と相成りました。ヾ(@^▽^@)ノ

誠にありがとうございます。m(..)m

 しかしながら、毎年毎年、女性客を中心にリピート・ファンを獲得しているタンカンオレンジはマダマダ、広がりそうな気配だ。 


今年も、「もうそろそろタンカンの時期じゃないですか?」、「(今から)来年もよろしくお願いします。」、「(男性客から)美味しいのに、お店で売ってないから、是非、大規模販路に載せるべきだよ!」との問い合わせがある。


 今から、来年のタンカンオレンジの豊作を願ってやまない状況である・・・。「台風台風よ、今年は奄美地方に来るな~!!」と祈るしかない・・・。  ゚・゚*・(゚O゚(☆○=(`◇´*)o



里永尚太郎のココロ想うままに!!


 

 対日初期占領政策の策定や日本国憲法草案の作成に至るアメリカのインテリジェンスが、どんなものであったか、また、日本が戦争に明け暮れていた同じ時期に、アメリカ国内で、何が、どういう考え方で準備されていたのかを知っておく必要がある。


 まさに、米国は戦争の真最中に、同時に日本占領の準備も同時に始めていたのである。日本が戦局に一生懸命、精一杯、だった頃に・・・・。


↓非常に解り易いので、その部分を下記に引用する。

------------------------------------

 戦局が展開していくほどに、陸軍省の中にも占領地域の民政に関する準備が必要だとの声が出はじめる。すでに1942年5月に、シャーロットビルのバージニア大学の中に、陸軍軍政学校が置かれ、軍政官の教育が行われていた。


 しかし、広大な占領地域の民政を考えると膨大な要員が必要になる。占領後の日本の民政には、3,000人の将校と9,000人の民間人が必要と計算された。そのために、1943年からハーバード、スタンフォード、エールなどの主だった大学に軍事要員養成所を置き、大学の助教授クラスの人材を民政要員として養成した。あのドナルド・キーン教授、サイデンステッカー教授、オーティス・ケリー教授ら錚々たる日本研究者は、すべてこのコースで日本占領要員として日本語を鍛えられた人たちである。


 この人たちを教育するプログラムを作成するためにも、占領統治の技術や日本に関する基礎知識の整理と、戦後日本をどう処遇するかの基本がどうしても必要になった。


1943年4月に、陸軍省は民政部を置き、それら基本方針作成のための実務的な作業に乗り出した。しかし、武骨な軍人集団で、しかも現実に戦争を展開している統合参謀本部にとって、これは手に余る事柄であった。このような高度な政治問題は、ホワイトハウスか国務省に資料を用意してもらうしか方法はなかった。そして膨大な条項の質問が国務省に届けられた。


その内容は、

・「占領をどの範囲にするのか?」

・「それはアメリカだけが担当するのか?」

・「占領はいつまでなのか?」

といった原則的なことから、


・「日本政府の権限はどうなるのか?」

・「政党は解散すべきか?」

・「悪法は無効にすべきか?」

・「信教の自由に神道は含めるのか?」

・「天皇の地位はどうするのか?」

などなど、多岐にわたっていた。


これらの質問に答えることは、まさに日本をどう再生させるか、ひいてはその新しい憲法をデザインすることそのものだった。


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 86-87ページ。)