里永尚太郎のココロ想うままに!! -2ページ目

里永尚太郎のココロ想うままに!!

憲法・安全保障問題と島興志(地域活性化事業)への取組みを中心に書いていきます。

 いよいよGHQ民生局の憲法草案作業の2日目に入る。1946年2月5日(2日目)。

日本国憲法はGHQ民政局数名でたった9日間で作成されたとされているが、それまでの蓄積(SWNCC-228等の文書)が大きな役割を果たしてきたことが明らかになっている。

 つまり、アメリカのシンクタンク、研究者等の研究の蓄積は、必要とあらばアメリカ政府の政策に強力に影響するということが下記の点からも確認される。

 

 日本国憲法を理解する上で、非常に興味深い部分を下記に引用する。このようなプロセスで日本国憲法が作成されて来たことは、今後、活性化すると思われる憲法論議を見据え、事実として共有しておく必要性を感じる。


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ケーディス大佐がまず口火を切る。

 「この会議の目的は、日本側の草案を論議するための日本側委員会との会合が開かれる前に、その基本方針を決定しておくことにある。」


 日本側草案というのは、松本烝治国務大臣を長とする政府の憲法問題調査会が書いた憲法草案のことである。また日本側委員会との会合というのは、2月12日に予定されていた日本政府との会合のこと。


 「我々の憲法草案を核に当たって、できる限り日本流の術語と形式を用いる。これは、昨日ホイットニー将軍も言っておられたように、この我々の草案は、日本政府によって書かれたものとして発表される。だから、彼らの表現を用いていなければ、疑いの眼を持たれるだろう・・・・・・」


 「それは、当然だ。占領軍が被占領軍の国内法を変えることは、国際法にもとることになるし・・・・・・」


 「しかし、民主主義についての用語や、人権に関する考え方は、日本にはない。意図するところを伝えるには、困難が多いのではないか?しかも我々にとって日本的表現は、あまり得意ではないが?」


 「確かにそうだ。アメリカ式文言を使った方が、我々の意図するところが明らかな場合は、日本式の形式を使わず、アメリカ式の用語を使うことにしよう。・・・・・」


 この日の会議では、SWNCC文書がそれぞれの小委員会の委員長に配布されたが、部数が足らず、他の委員たちはそれを覗き込みながら討論した。


 「ラウエル中佐は、法規課長として日本の民間研究者や政党の憲法草案に目を通していたし、アメリカ側の資料にも精通していましたが、私も含めてほとんどの民政局員は、大変な勉強からはじめなければなりませんでした。その意味でも、20日ほど前に届いていたSWNCC-228は、単なる<情報>ではなく、ずっと重みのあるものでした。各小委員会に、草案に書いた内容をこのSWNCC-228に照らして合わせて、矛盾がないようにチェックしておくよう注意しました」(ケーディス氏)


 SWNCC-228には、「日本の統治体制の変革」という文書名がついている。憲法改正が含めた、日本の占領政策に関する最終的な目的が、「合衆国太平洋総司令官」に宛ててきわめて丁寧に書かれた文書である。


 宛名が、「連合軍最高司令官」でなく、「合衆国太平洋総司令官」であること、それに「指令」ではなく「情報」としている点が非常に興味深い。連合軍の最高司令官の立場でなく、アメリカの国益に立った上での判断資料という意味なのだろう。


 文書は、最初に「結論」という見出しで指針を示し、次に問題点を12の条項に分けて論じ、最後にポツダム宣言の一部と8月11日の日本降伏に対する回答文、さらにアメリカ合衆国の占領目的を掲げて結んでいる。


◎選挙による国民の意思を代表する立法府が置かれ、その立法府に対して、行政府が責任をとる。

◎日本国民および日本の統治権の及ぶ範囲にある人に対し、基本的人権を保障する。

◎日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択する。

◎日本の最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定すべきだが、天皇制を現在の

 形態で継続することはできない。

◎日本国民が天皇制を必要としないと決定したときは、憲法は次の目的に沿って改正されなければならない。

 ○国民を代表する立法府の立法措置――憲法改正を含む――に関して、他の機関は、暫定的拒否権を有するに過ぎない。

 ○国務大臣は文民でなくてはならない。

◎日本人が、天皇制を廃止するか、民主主義的方向に改正するよう奨励しなければならない。日本人が天皇制を維持すると決定した時は、次の安全措置が必要である。

 ○国民を代表する立法府が選任した国務大臣が、立法府に連帯して責任を負う内閣を構成する。

 ○天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言に基づいてのみ行動するものとする。

 ○天皇は、憲法に規定されている軍事的権能をすべて剥奪される。

 ○内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとする。


 まさに、戦後日本のラフデザインが全て網羅されているが、その「結論」の最後に書かれた文章が面白い。


 <最高司令官が、さきに列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、前期諸改革が連合軍によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである。

 日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受け容れるか否かによって、大きく左右されるのである。日本政府の改革に関する連合国の政策を実施する場合、連合国最高司令官は、前記の諸改革による日本における代表民主制の強化が永続することを確保するために、日本国民がこの変革を受け入れ易いような方法を考慮するとともに、変革の順序と時間の問題をも考慮されなかればならない。>


 民族自決の原則は守らねばならないという理念と、困難が予想される日本の民主化には力で臨まざるを得ないだろうという現実的な状況との間を、なんとか政治的配慮でうまくやりなさいというアドバイスであった。


 日本人にとって非常に好意的に感じられる指針だが、この「結論」の最後の部分には、「本文書は、公表されてはならない」と書かれており、いま読んでも衝撃的である。実際、憲法改正の裏にこうした極秘文書があったことを日本側が知るのは、ずいぶん後になってからのことである。


 (※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 100-108ページ。)


 米国政府に影響力がある親日派の存在が、日本国の進路にとっていかに影響を与えるかを物語るエピソードが日本国憲法の草案時の米国政府内にもみられる。親日派を大切にしないといけないことがよく理解できる。

 今や唯一の派遣国家となったアメリカとどのように付き合うかという、今日にも通じるテーマにもヒントを与えてくれているような気がする。

 非常に興味深い部分ですので、下記に引用する。


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 国務省、陸軍省の対日政策立案の動きを受けた、アメリカ政府の意思決定機関である国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が発足するのは1944年の12月である。


 その間をつなぐ、重要な役割を演ずる人物がいた。『滞日十年』(1948年 毎日新聞社)の名著で知られる、開戦時の駐日大使ジョセフ・グル―である。


 半世紀以上経った今日、日本占領政策の立案過程を結果から逆にたどってみると、実にうまく物語が推移しているように見える。しかし、現実はもちろんそれほど簡単な半紙ではなかった。まして血を流して戦っている仇敵なのだ。「日本を抹殺してしまえ!」とか、「農業国家に追い落としてしまえ!」というモーゲンソーらタカ派の声が主流と考えた方がよい状況であった。


 グル―は、1942年に交換船でアメリカに戻ったあと、国務長官特別補佐官としてアメリカ全土を250回(/1年)も講演して回った。(交換船というのは、開戦の翌年、一般市民や外交官をそれぞれの国から本国に送り返すために特別に仕立てた船で、マダカスカルでお互いに乗船客を交換した。)


 はじめは、アメリカ国内のムードに会わせて、日本人の好戦性や、侵略への強い意思、団結力などをアピールする内容の講演であった。それが、1943年の夏ころから、日本国民と軍部を区別して、「悪いのは軍国主義者である」というように変わる。そして、日本国民も米国民同様に日本軍閥の被害者であり、天皇も戦争を望んでいなかったと、敵国への慈愛に満ちた論調に変化していく。

 

 日本の占領政策の立案がTシリーズからCACへと変わっていくころである。グル―の論調は、そういった知日派によって作られつつあった。草案とほとんど同じ内容であった。しかし、その講演の内容にジャーナリズムの矛先は鋭かった。グル―は「利的行為」を責められ、しばしば窮地に陥った。


 その後、グル―は、日本との和平のために働けるならと、彼にとっては格下げにも等しい国務省の極東局長を務め、ブレークスリー、ボートンらの主張を政府の中枢に取次ぐ役割につく。


 運命という神は、歴史の曲がり角で不思議な悪戯をするものらしい。

 戦況がほぼ決定しつつあった1944年の暮れ、開戦のきっかけとなった最後通牒、ハル・ノートを突きつけたハル国務長官が病に倒れる。

 後任の長官に次官のスティティニアスが昇格することに伴い、国務省内の大規模な人事移動が行われ、そしてグル―が次官に就任することになったのである。


 グル―はその人事権をフルに利用して、国務省内に知日派を迎え入れた。駐日大使館の部下であったジョセフ・バランタインを極東局長に据え、同じく大使館員だったユージン・ドーマンを国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の責任者につけた。


 そして翌1945年、今度はグル―自身が、スティティニアス国務長官が国際連合を創設するために4月から6月の間ワシントンを留守にしたことから、国務長官代理を務めることになる。こうして、知日派の集団は、ブレークスリー、ボートンの起案作業のワーキング・グループをベースに、バランタイン、ドーマンの政策形成の実務レベル、グル―の政策決定レベルへと一貫した布陣を敷くことになった。


 その上に4月12日に、ルーズベルト大統領が死亡するとういドラマティックな出来事まで起こる。日本に対して恨み骨髄に達していたルーズベルトの死は、知日派グループにとって最も巨大な目の上のコブがなくなったことを意味した。そして5月、ドイツが崩壊する。


 一方、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の実務を行う下部機構、極東委員会は、1945年の2月に入って、初期対日占領政策をはじめとするさまざまな戦後計画の立案をボートンらに命じていた。そこに上がってきたのが、あの「軍国主義の排除と民主的過程の強化」などの一連の文書である。


 さらに問題点の検討が行われ、6月11日「対日初期方針」を扱った、前述のSWNCC-150が完成する。1942年に国務省の片隅でスタートした極東班の草案が、3年近くの歳月と紆余曲折を経て、アメリカの国家方針にまで登りつめたのである。そしてそれは、憲法草案の指針となったSWNCC-228へとつながっていくが、そのSWNCC-228を書いた人物もヒュー・ボートンなのである。


 歴史には、派手な表舞台があれば、その裏には滔々と流れる伏流水もある。日本の戦後史を形成している占領政策は、終戦という区切りで伏流水が地表に現れたものといえよう。民政局の憲法草案作成作業は、その地下の水が短時間に吹き出た噴水のような現象ではなかったろうか?もちろん、憲法草案作成作業はは、他にいくつもの知的な流れを巻き込んで豊かな水脈の上で進んでいく。


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 94-97ページ。)




 CAC185=PWC152b「軍国主義の排除と民主的過程の強化」の文書の中には、憲法草案の原型を発見するという意味から、が興味深い部分がある。


[1]問題

[2]軍事機構の破壊

[3]軍国主義の再興を阻止するための措置

[4]基本的政治改革の開始

[5]補完的要因


の5つのパラグラフから成っている。その内[3][4][5]が特に注目される箇所である。


[3]の必要条件として、治安維持法などの悪法の廃止と、大政翼賛会、黒竜会など超国家主義の根絶、それに民主主義発展の条件として、経済復興とリベラルな勢力の育成を掲げ、さらに具体的に、次のような措置を勧告している。


(1)新聞、ラジオ、映画の自由

(2)言論の自由

(3)自由主義的教育に対する統制の解除

(4)新聞、ラジオ、映画を通しての民主主義における個人的自由の意義の説明

(5)政党、労働組合、消費者団体等の奨励

(6)地方議会の拡充

(7)国民選挙その他の方途による将来の政治体制についての国民的意思の表明


 また、[4]基本的政治改革の開始については、さらに次のような4つの項目に分類して説明されている。


 第1に、衆議院の権限の乏しさを改め、首相と内閣が、予算面で国民に選ばれた代表機関である議会に完全に依存するよう変革するとshちえ、国会の権限強化を掲げている。

 第2には、「戦後日本に陸海軍を保持させるべきでないという、広汎な合意が現在存在してはいるが、それにも関わらず、もし日本が何らかの軍事機構を後に認められるに至るならば、その場合、軍部大臣の武官制も廃し、文民制を条件とすることが絶対に必要である。」

 第3は、基本的人権の強化と個人の地位の尊重。

 第4は、裁判所が司法大臣と警察に支配され過ぎていた弊を改め、自立した民主的な裁判制度を樹立する。


この文書は、1944年4月29日に作成されている。

[5]の補完的要因からは、ボートン博士の人柄を思わせるような、日本に対する暖かい配慮が読み取れる。


(1)諸国民の家族のなかの一員として、平和的な日本が責任を果たすことを認める(自律的に戦争の贖罪を行

ない、賠償などの責任をとること)という連合国の意図を、連合国の行動によって日本国民に確信させる必要がある。

(2)日本に世界経済への参加を保証し、将来に希望を持てるようにすること。「耐えがたい経済条件」は民主主義の発展を不可能にする。

(3)国際的安全保障体制や国際組織の樹立により、太平洋と極東の安全を計り、非軍事化される日本の不安を除かねばならない。


 要するに、日本が非軍事化と民主化を進めるにあたって、条件を整備してやらないと、日本は動きようがないと言っているのである。


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 91-94ページ。)