開戦時の駐日米大使グル―がアメリカで吹かせた神風とは!! | 里永尚太郎のココロ想うままに!!

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憲法・安全保障問題と島興志(地域活性化事業)への取組みを中心に書いていきます。

 米国政府に影響力がある親日派の存在が、日本国の進路にとっていかに影響を与えるかを物語るエピソードが日本国憲法の草案時の米国政府内にもみられる。親日派を大切にしないといけないことがよく理解できる。

 今や唯一の派遣国家となったアメリカとどのように付き合うかという、今日にも通じるテーマにもヒントを与えてくれているような気がする。

 非常に興味深い部分ですので、下記に引用する。


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 国務省、陸軍省の対日政策立案の動きを受けた、アメリカ政府の意思決定機関である国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が発足するのは1944年の12月である。


 その間をつなぐ、重要な役割を演ずる人物がいた。『滞日十年』(1948年 毎日新聞社)の名著で知られる、開戦時の駐日大使ジョセフ・グル―である。


 半世紀以上経った今日、日本占領政策の立案過程を結果から逆にたどってみると、実にうまく物語が推移しているように見える。しかし、現実はもちろんそれほど簡単な半紙ではなかった。まして血を流して戦っている仇敵なのだ。「日本を抹殺してしまえ!」とか、「農業国家に追い落としてしまえ!」というモーゲンソーらタカ派の声が主流と考えた方がよい状況であった。


 グル―は、1942年に交換船でアメリカに戻ったあと、国務長官特別補佐官としてアメリカ全土を250回(/1年)も講演して回った。(交換船というのは、開戦の翌年、一般市民や外交官をそれぞれの国から本国に送り返すために特別に仕立てた船で、マダカスカルでお互いに乗船客を交換した。)


 はじめは、アメリカ国内のムードに会わせて、日本人の好戦性や、侵略への強い意思、団結力などをアピールする内容の講演であった。それが、1943年の夏ころから、日本国民と軍部を区別して、「悪いのは軍国主義者である」というように変わる。そして、日本国民も米国民同様に日本軍閥の被害者であり、天皇も戦争を望んでいなかったと、敵国への慈愛に満ちた論調に変化していく。

 

 日本の占領政策の立案がTシリーズからCACへと変わっていくころである。グル―の論調は、そういった知日派によって作られつつあった。草案とほとんど同じ内容であった。しかし、その講演の内容にジャーナリズムの矛先は鋭かった。グル―は「利的行為」を責められ、しばしば窮地に陥った。


 その後、グル―は、日本との和平のために働けるならと、彼にとっては格下げにも等しい国務省の極東局長を務め、ブレークスリー、ボートンらの主張を政府の中枢に取次ぐ役割につく。


 運命という神は、歴史の曲がり角で不思議な悪戯をするものらしい。

 戦況がほぼ決定しつつあった1944年の暮れ、開戦のきっかけとなった最後通牒、ハル・ノートを突きつけたハル国務長官が病に倒れる。

 後任の長官に次官のスティティニアスが昇格することに伴い、国務省内の大規模な人事移動が行われ、そしてグル―が次官に就任することになったのである。


 グル―はその人事権をフルに利用して、国務省内に知日派を迎え入れた。駐日大使館の部下であったジョセフ・バランタインを極東局長に据え、同じく大使館員だったユージン・ドーマンを国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の責任者につけた。


 そして翌1945年、今度はグル―自身が、スティティニアス国務長官が国際連合を創設するために4月から6月の間ワシントンを留守にしたことから、国務長官代理を務めることになる。こうして、知日派の集団は、ブレークスリー、ボートンの起案作業のワーキング・グループをベースに、バランタイン、ドーマンの政策形成の実務レベル、グル―の政策決定レベルへと一貫した布陣を敷くことになった。


 その上に4月12日に、ルーズベルト大統領が死亡するとういドラマティックな出来事まで起こる。日本に対して恨み骨髄に達していたルーズベルトの死は、知日派グループにとって最も巨大な目の上のコブがなくなったことを意味した。そして5月、ドイツが崩壊する。


 一方、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の実務を行う下部機構、極東委員会は、1945年の2月に入って、初期対日占領政策をはじめとするさまざまな戦後計画の立案をボートンらに命じていた。そこに上がってきたのが、あの「軍国主義の排除と民主的過程の強化」などの一連の文書である。


 さらに問題点の検討が行われ、6月11日「対日初期方針」を扱った、前述のSWNCC-150が完成する。1942年に国務省の片隅でスタートした極東班の草案が、3年近くの歳月と紆余曲折を経て、アメリカの国家方針にまで登りつめたのである。そしてそれは、憲法草案の指針となったSWNCC-228へとつながっていくが、そのSWNCC-228を書いた人物もヒュー・ボートンなのである。


 歴史には、派手な表舞台があれば、その裏には滔々と流れる伏流水もある。日本の戦後史を形成している占領政策は、終戦という区切りで伏流水が地表に現れたものといえよう。民政局の憲法草案作成作業は、その地下の水が短時間に吹き出た噴水のような現象ではなかったろうか?もちろん、憲法草案作成作業はは、他にいくつもの知的な流れを巻き込んで豊かな水脈の上で進んでいく。


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 94-97ページ。)