クラシック音楽 女性作曲家列伝!! - その2 | 妄想印象派 自作のイラストや漫画、アニメ、音楽など

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クラシック音楽、女性作曲家列伝の第2弾となります。

前回の記事はこちら↓

クラシック音楽 女性作曲家列伝!! - その1

2015年07月25日


もう3年も前ですね。


前回の記事の後、新たに数多くの女性作曲家の存在を知り、

何回かに分けて紹介する必要性が出てきました。


ジャンルは、バロックから古典派、ロマン派の作曲家までおります。




エリザベト=クロード・ジャケ=ド=ラ=ゲール(1665-1729)

Élisabeth-Claude Jacquet de la Guerre


Élisabeth Jacquet de La Guerre.jpg


フランス・バロック音楽の作曲家ならびにクラヴサン奏者。


楽器職人の家系ジャケ家の出身で、

似たような生い立ちを持つオルガニスト、

クラヴサン奏者のマラン・ド=ラ=ゲール

(Marin de La Guerre、1656年 - 1704年)と結婚したため、

このように長い姓となった。


神童と持て囃されてルイ14世に御前演奏を行い、

それからヴィルトゥオーソとして、

またルイ14世の寵臣として活動を続ける。1684年に結婚。


ジャケ=ド=ラ=ゲールは、

当時の数少ない女性作曲家の一人であり、18世紀においては、

バッハの従兄ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターの力作

『音楽事典』(Musicalisches Lexicon)

においても評伝が載せられるほど名声があった。


彼女の《クラヴサン曲集》(1687年)は、

フランスで出版されたチェンバロ作品の初期の例に数えられる。


ジャケ=ド=ラ=ゲールの組曲は、

フランソワ・クープランらと違って標題を持たず、

また古風なプレリュード・ノン・ムジュレが開始楽章に置かれていること、

全般的にポリフォニックであることなど、

ルイ・クープランの作風にきわめて近い。


このような特色のため、

かつては「女だてらに衒学者」というレッテルが貼られたが、

近年の古楽器ブームによって

適切な演奏・解釈が試みられるようになった。


いっぽうジャケ=ド=ラ=ゲールは、

フランスにおける「イタリア趣味」の初期の受容者のひとりであり、

アルカンジェロ・コレッリの様式と

フランス人の音楽趣味を巧みに折衷して、

独自のトリオ・ソナタを残している

エリザベト・ジャケ=ド=ラ=ゲール - Wikipedia


悲歌劇『セファールとプロクリ』(1694年)

La tragédie lyrique Céphale et Procris




マリアンナ・マルティネス(1744-1812)

Marianna Martines


Marianna Martines.jpg


オーストリアの歌手、ピアニスト、古典派音楽の作曲家。


父方の祖父はスペイン人の兵士で、ナポリに移住。

父ニコロはそこで育ち、兵士として務めたあと、

オーストリアに移住し、教皇庁大使館に勤務。

イタリアの詩人ピエトロ・メタスタージオとは生涯の友となる。


オーストリア帝国への奉仕とその功績のため、

マルティネスの兄弟たちは1774年に貴族階級となる。


マルティネスは、幼いころから音楽だけでなく、

様々な国の言語の教育、文学を学び、

メタスタージオとは家族ぐるみの交流があった。


マルティネスの家族の住んでいた

ミヒャエル広場の共同住宅の最上階には若きハイドンが住んでおり、

マリアンナは彼から鍵盤演奏の手ほどきを受ける。


また、ニコラ・ポルポラからは声楽を、

ヨハン・アドルフ・ハッセからは作曲を学び、

17歳で作曲した作品はウィーン宮廷礼拝堂で上演された。


その後マリア・テレジアのための作曲家、鍵盤楽器奏者として活躍。


1773年にはボローニャのフィルハーモニー・アカデミー会員の試験で

「驚くべき作曲の精度」と高い評価を得た。


マリアンナとその妹による音楽会では、

ハイドンやアイルランドのテノール歌手マイケル・ケリーなど、

数多くの著名なゲストが呼ばれたが、モーツァルトも頻繁に通い、

彼女と演奏するための四手連弾ピアノ・ソナタを作曲している。


作品は、オラトリオ、ミサ曲、カンタータ、チェンバロソナタ、

チェンバロ協奏曲、シンフォニアなどを作曲。

ウィーン古典派の女性作曲家、マリアンナ・マルティネス|HMV&BOOKS

Marianna Martines - Wikipedia English

マリアンナ・マルチネス - クラシック音楽の風景


カンタータ『初恋』

Cantata Il Primo Amore




マリア・テレズィア・フォン・パラディス(1759-1824)

Maria Theresia von Paradies (Paradis)


Maria Theresia von Paradies or Paradis.png


オーストリアのピアニスト、歌手、作曲家。

幼時に失明した。


モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調』は

パラディスのために書かれたと言われている。


パラディスの父ヨーゼフ・パラディスは帝国商務省長官で

皇后マリア・テレジアの宮廷顧問官だった。

よく皇后が彼女の名付け親だと言われるが、事実ではないという。


パラディスが視力を失ったのは、2歳から5歳の間だった。


1766年の後半から1777年の中頃まで、

パラディスは高名なフランツ・アントン・メスメルの治療を受けた。

メスメルはパラディスの症状を一時的に回復させることができたが、

途中で治療を取りやめたため、生涯視力が失われたままとなった。


理由は、メスメルが催眠療法に用いていた謎の楽器

「グラス・ハーモニカ」が人を狂わせたり死に至らしめるという

世間の混乱によって禁止令が発令されたのにかかわらず、

メスメルは禁止令に反して不当にグラス・ハーモニカを

療法に使い続けたというスキャンダルとも、

パラディスの障害者年金の含み損とも言われる。


このため、メスメルはウィーンを追放される事になった。


パラディスの活動はウィーンだけに留まらず、

パリ、ロンドン、スイス、プラハ、ドイツ各地など演奏旅行を実施。


1785年に開校した、

ヴァランタン・アユイ(Valentin Haüy)による盲学校の設立を援助。


1808年に音楽学校を設立し、

パラディスが亡くなるまで授業を続けた。


後半生は、演奏よりも作曲活動の時間が増えており、

オペラ、メロドラマ、カンタータ、ピアノ協奏曲、ピアノ曲などを作曲したが、

オペラ、メロドラマ、ピアノ協奏曲など、現在失われているものが多い。


彼女の最もよく知られた作品『シチリアーノ』は、

その発見者とされるサミュエル・ドゥシュキンによる

贋作であるとの指摘がある。

マリア・テレジア・フォン・パラディス - Wikipedia


ヴァイオリンとピアノのためのシチリアーノ

Sicilienne für Violine und Klavier




カテリーナ・ツィビーニ=コツェルフ(コジェルフ)(1785-1858)

Catherina Cibbini-Kozeluch (Katerina Koželuh)


Catherina Cibbini-Kozeluch.png


ボヘミア系のオーストリア人ピアニスト、作曲家。

ベートーヴェンやシューベルトに影響を与えたといわれる、

作曲家のレオポルト・コジェルフの娘としてウィーンに生まれる。


父やムツィオ・クレメンティに音楽の手ほどきを受ける。

主に、ピアノ曲を作曲。

Catherina Cibbini-Kozeluch - Wikipedia English


ピアノのための6つの円舞曲

Six valses pour piano-forte, op. 6




マリー・キエーネ・ビゴー・ド・モローグ(1786-1820)

Marie Kiéné Bigot de Morogues


Marie Bigot.jpg


フランスはアルザス地方のコルマール生まれの、

ピアノ教師、作曲家。


M.ビゴーとの結婚後の1804年、

ウィーンに移り住んで5年をその地で過ごす。


彼女は鍵盤楽器の演奏に長けており、

ハイドンの前で演奏し、彼をしてこう言わしめた。

「おお、我がいとしき子、これは私が作曲した曲ではない。

作曲したのは君だ!」


そして彼女が演奏した楽譜にこう書き記した。

「1805年2月20日、ヨーゼフ・ハイドンは幸福であった。」

また、彼女はサリエリとも親交を結んでいる。


ビゴーの夫はアンドレイ・ラズモフスキー伯爵の司書を務めており、

その縁により彼女はベートーヴェンと親しくなる。


ベートーヴェンは彼女の演奏を評価しており、

2人の関係はビゴーが作曲されたばかりの

「熱情ソナタ」の原稿を見ながら、

それを初見で演奏してみせた逸話で知られる。


これにいたく感激したベートーヴェンは彼女にこう言った。

「私がこの曲で表現したかったことはそうではないのですが、

続けてください。完全に私の思ったとおりでない方が、

より良くなりそうですから。」

彼は熱情ソナタの草稿を彼女に捧げた。


1808年、ベートーヴェンが、マリーと、

3歳になる彼女の娘のカロリーヌ(Calorine)

を誘って行こうとしたのを誤解し、彼女がこれを拒絶した事に対し、

ベートーヴェンは彼女と彼女の夫に謝罪の手紙をしたためている。


ビゴー一家は1809年にパリへと戻った。

マリーは作曲、レッスンを行う傍ら、

ベートーヴェンの楽曲をパリの聴衆に紹介することに尽力した。


ビゴーは1816年には、

パリでファニーとフェリックス・メンデルスゾーンの兄妹にも教えている。


彼女はパリで結核のため34年の生涯を閉じた。

作曲家としてはソナタや練習曲が知られている。

マリー・ビゴー - Wikipedia


練習組曲

Suite d'etudes




マリア・シマノフスカ(1789-1831)

Maria Szymanowska


Maria_Szymanowska.jpg


ポーランドの女性ピアニスト・作曲家。


とりわけ1820年代において、

ヨーロッパ全土で精力的な演奏旅行を行なった

19世紀のポーランド人ヴィルトゥオーゾの先駆者であった。


その後はサンクトペテルブルクに永住し、

ロシア宮廷のために演奏活動や作曲活動、

音楽教育に携わるかたわら、有力な文芸サロンを開いた。


ピアノのために演奏会用練習曲や夜想曲を作曲した

最初のポーランド人でもあり、

「ブリヤン様式( stile brillant )」による作品は、

ショパンを予告するものとなっている。


フランク派ユダヤ人をルーツに持つ家庭に、

マリアンナ・アガタ・ヴォウォフスカ(Marianna Agata Wołowska)

としてワルシャワに生まれる。


彼女の先祖には、ヤコプ・フランクの助手を務めたといわれる

サロモン・ベン・エリヤ(Salomon Ben Elijah)がいた。


幼年期や初期の音楽教育については何も知られていないが、

アントニ・リソフスキ(Antoni Lisowski)や

トマシュ・グレム(Tomasz Gremm)にピアノを、

フランチシェク・レッセル(Franciszek Lessel)と

ユゼフ・クサヴェリ・エルスネル(Józef Ksawery Elsner)、

カロル・クルピィンスキ(Karol Kurpiński)に作曲を師事したらしい。


1810年にワルシャワとパリで最初のリサイタルを開き、

同年にユゼフ・シマノフスキ(Józef Szymanowski)と結婚した。

1820年に夫と離縁するまでに3児を儲け、

その後はみな自分で引き取った。


シマノフスカがショパンに対して影響力があったのかについては、

研究者の間で意見が分かれるが、

シマノフスカの「演奏する作曲家」としての活動は、

ショパンのそれにはっきりと影を落としているだけでなく、

19世紀ヨーロッパの、

自分の演奏能力によって作曲能力に磨きをかけた、

ヴィルトゥオーゾ兼作曲家の幅広い流行のさきがけにもなっている。


シマノフスカは、演奏家としての地位や自分のサロンを通じて、

当時の高名な芸術家と強いつながりを持っていた。

たとえばルイジ・ケルビーニやジョアッキーノ・ロッシーニ、

ヨハン・ネポムク・フンメル、ジョン・フィールド、ピエール・バイヨ、

ジュディッタ・パスタ、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ、

アダム・ミツキェヴィチらと親交があった。


1831年死去。コレラによるものと思われる。


作品はピアノ独奏曲が数多いが、ほかに歌曲や室内楽曲もある。

マリア・シマノフスカ - Wikipedia


ポロネーズ へ短調

Polonez f-moll




アンナ・マリア・レオポルディーネ・ブラヘトカ(1809-1885)

Anna Maria Leopoldine Blahetka


Leopoldine_Blahetka.jpg


オーストリアの、ピアニスト、作曲家。

父は、数学と歴史の教師、

母は、フィスハルモニカ(Physharmonica)の奏者、母方の祖父は、

作曲家アンドレアス・トレーク(Andreas Traeg)であった。


母からピアノの手ほどきを受ける。


自作演奏会用の作品の最初の作曲は11歳の時だった。


ヨーゼフ・チェルニー(Joseph Czerny)に学んだあと、

フリードリヒ・カルクブレンナー(Friedrich Kalkbrenner)、

イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles)、

カタリーナ・ツィビーニ(Katharina Cibbini)にピアノを学ぶ。


16歳の時、ドイツで演奏旅行を行うが、

その演奏を聴いたロベルト・シューマンは非常に感銘を受けた。


1828年、ウィーンでのニッコロ・パガニーニの演奏会で演奏し、

彼から賞賛された。


1830年3月22日、

オペラ『強盗と歌手』(Die Räuber und der Sänger)が、

K・K・宮廷劇場(K. K. Hoftheater nächst der Burg)

(後のブルク劇場 Burgtheater)で初演された。


良い気候を求めてブローニュ=シュル=メールに移り住むが、

母を伴い演奏旅行を続けた。


作品には、オペラ、ピアノと管弦楽のための作品、

室内楽作品、ピアノ曲、歌曲などがある。

Leopoldine Blahetka - Wikipedia Deutsch


ポロネーズ

Polonaise op. 19