弊ブログは、
『マイナーだけれど魅力的なものや印象深いもの』
を紹介するのを基本としております。
『歴史』についても例外ではありません。
歴史の常識に疑いの目を向けるという事の他に、
日本では余り、或いは殆ど知られていないけど、
何か凄いインパクトあるな、印象深いな、
という歴史的事件も紹介します。
今回は、チェコの或る歴史を取り上げます。
プラハ窓外投擲(抛擲)事件
チェコ語:Pražská defenestrace
ドイツ語:Prager Fenstersturz
この歴史的事件について初めて知ったのは、
旅行ガイドブック『地球の歩き方』シリーズの
『中欧』(2009~2010年版:ダイヤモンド社)によってです。
個人的にこの手の本を読むのが面白くて仕方が無いのですが、
各国の歴史についての概要も紹介されていて、
その中で件の事件について紹介されていたのです。
人を窓から突き落としたという事件です。
で、この事件がとても気になり、
ネットでも検索してみる事にしました。
すると、驚くべき事を知りました。
プラハ窓外投擲事件には、実は3種類もあったとのこと。
上述のガイドブックで紹介されていたのは、
『第二次プラハ窓外投擲事件』です。
〇第一次プラハ窓外投擲事件(1419年)
(První Pražská defenestrace)
1415年、宗教改革の先駆者である
ヤン・フス(Jan Hus)が火刑に処せられ、
ボヘミア人達が猛烈に抗議しました。
Wikipediaによれば、むしろそれよりも、
ヤコウベク・ゼ・ストシーブラ
(Jakoubek ze Stříbra, 1375-1429)
が始めた両形色拝領(聖体と看做したパンを
血と看做した葡萄酒に浸して食す聖餐の儀式)
が問題となったとのこと。
どういう事かというと、
カトリック教会による俗人の拝領は聖体であるパンで充分
という考えと対立するからとの事。
それに対し、カトリック教会が
『聖務停止』(Interdictum)で応じました。
1419年、国王ヴァーツラフ4世(Václav IV)は、
ローマ・カトリック教会との和解策を探り、
その甲斐あってプラハの殆ど全ての教会を
カトリック教会に復帰させる事になりましたが、
フス派優勢の新市街参事会を解散した後、
カトリック信徒だけの新しい新市街参事会を組織したため、
これに憤ったフス派勢力は、プラハ市庁舎を襲撃し、
ドイツ人市長や市参事会員らを窓の外へ突き落としたとの事。
下では武器を持った民衆が待ち構えており、
逃れる術は無かったようです。
これが、『第一次プラハ窓外投擲事件』です。
この話を聞いたヴァーツラフ4世は、
ショック死してしまったという。
これが切っ掛けで、所謂『フス戦争』が勃発しました。
フス戦争については、クラシック音楽ファンなら、
スメタナの交響詩『ターボル』や
『ブラニーク』等でお馴染みでしょう。
この件に関しては、
コチラがとても詳しく述べております。
(リンクさせていただきました)↓
ターボル戦記 第二部【窓外抛擲事件】 - バルカン半島、東欧、コーカサス諸国
↑アドルフ・リエプスヘル(リープシャー?)
(Adolf Liebscher)によるイメージ画
(追記:この絵を描いた人は名前の綴りからして
ドイツ系ではないかと思うのですが、
だとしたら「リープシャー」と発音します。
でもよく分からないので、
チェコ語とドイツ語の両方の発音を出しておきます。)
↑第一次プラハ窓外投擲事件590周年記念祭ポスター
(První Pražská defenestrace - 590 let výročí, 2009)
事件から590周年を記念したお祭です。
実際に人が窓から落とされ、マット上に落下した後、
偽物の剣を持った人物に刺される(振りをする)
というパフォーマンスを行いました。
何とも物騒なお祭です。
2019年は、600周年というとてもキリの良い年であるため、
恐らくもっと盛り上がるのかも知れません。
その様子↓
〇第二次プラハ窓外投擲事件(1618年)
(Druhá pražská defenestrace)
1617年、ハプスブルク家出身の、
熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派の
フェルディナント(Ferdinand)
(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)
がボヘミア王に即位し、
プロテスタントを迫害する政策を実行しようとした事に
プロテスタントのボヘミア貴族たちが猛反発。
彼を王として認めず、対立が深まっている最中の1618年、
憤った民衆によって国王顧問官2名と書記の3名が
窓から突き落とされる事件が発生。
これが、『第二次プラハ窓外投擲事件』です。
実は、突き落とされた5人の内3名は命を取りとめ、
フェルディナントのいるウィーンへ逃れ、
プラハでの反乱を報告。
カトリック対プロテスタントの30年戦争(1618-1648年)
の切っ掛けとなりました。
プロテスタント側は、
1620年のビーラー・ホラ(白山)の戦いで破れ、
処刑、財産没収、国外追放等の重い処分を受け、
それに対する反発によって1648年まで度々戦争が頻発、
国土が荒廃してしまいました。
ハプスブルク家のチェコ支配が更に強まり、
18-19世紀の民族主義運動勃興まで、
チェコの暗黒時代が続く事になりました。
ネットの質問コーナーで、
一体何階から落とされたのか?
という質問が出ていたので
リンクを貼っておきます。
(第二次)プラハ窓外投擲事件 | 歴史のQ&A 解決 - OKWave
↑カレル・スヴォボダ(Karel Svoboda)によるイメージ画
〇第三次プラハ窓外投擲事件(1948年)
Třetí pražská defenestrace
まさか、第三次が20世紀に入ってからだったとは・・・。
1948年に、チェコスロヴァキアの外相、
ヤン・マサリク(Jan Masaryk)が、
外務省の中庭で転落死体で発見されました。
初期の調査では”自殺”と発表されましたが、
彼の死には不自然な点が多く、1990年代以降は、
共産主義者によって窓から突き落とされたのではないか?
との説が有力視されているそうです。
彼は、共産主義政権成立後も外務大臣を留任していましたが、
その政権との関係に苦慮していたと言われています。
マサリクが殺害されたと見る人は、
この事件を『第三次プラハ窓外投擲事件』
と呼んでいるそうです。
【追記:2020/11/2】
3~7枚目の画像追加