新世紀のキーワード「とことんで 筋金入りの 程々に」 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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中庸、バランス、程々・・・何事も偏らないことが大切だろうとは思います。

但し・・・若いうちから、そんなことばかり考えてはみ出さないように失敗しないように生きる、そんな人生もあまり感心はしません。

さぁ、今日のこの句はそんな生き方へのアンチテーゼでもあります。


とことんで 筋金入りの 程々に・・・


とことんと程々、似ても似つかぬものかも知れません。

ところが少なくとも私にとっては、この二つは相反するものではなく補完性さえ感じる、仲のいい関係と言えるものです。


程々だけを目指した人の程々と、様々な極端や失敗を経験して来た人の程々・・・果たして同じものでしょうか?

そのスケールにおいて、格段の差がある筈です。

中庸と言えば、あの仏陀の弓矢や弦楽器の喩えが有名です。

弛すぎれば弓矢は思うように飛ばず、張りすぎれば弦が切れます。

弦楽器にしても、弛すぎたらいい音色にはならず張りすぎたら、やはり切れてしまいます。

何事も適度、程々が大事という見事な喩えだろうと思います。

さぁ、ではその仏陀自身・・・初めから程々の人生を歩んで来た、はみ出さないタイプの人間だったでしょうか?

シャカ族の王子として生まれ、何不自由なくこの世の贅沢を味わいつくし・・・やがてそんな人生に絶望的な空しさを感じ、妻子も約束されている王位も何もかも捨てて、出家したことは誰もが知っている事実です。

これが極端でなくて、何を極端というべきでしょうか?


期待される人間像・・・私は若い頃からそんなことはお構い無しで自らの望む人生を生きて来ました。

人が誰かに期待する時、そこには何かしらの所有か依存があると思うのは私だけでしょうか?

私が提唱する分かち合いとは、そんな生易しいものではありません。

お互いに真の意味で自立していなければ、決してあり得ないほどの厳しいものだろうと思います。

イエスの言うところの悔い改めにしても、初めから程々に生きて来た人ではなく、失敗も後悔も体験した人にこそ向けられた言葉ではないでしょうか?

もの分かりが良さそうな常識的な程々の人に、人生の崖っぷちを生きて来た人の深い確信や、その言葉の真意が分かる保証はどこにもありません。

死ぬ気で求めない限り、とことんを越えて来た人の程々は浅いレベルでしか受け止められないのかも知れません。

もちろん、それを責めることも出来ないでしょうし・・・ただその時を待つしかない話です。

中庸、バランス、程々・・・その大切さを知る者こそ、数々のとことんと後悔も味わい尽くした人だろうと思います。

中庸への狭き門・・・それはとことんという全く正反対の要素ではないでしょうか?

それでは今日はこの辺で・・・程々に!?




とことんで


筋金入りの


程々に。





~アモンの哲句より~