今回のシリーズの最終章かどうかは、今のところ私にも分かりません。
まぁ、そのつもりで・・・ベストを尽くしてみようと思っているところです。
先ずは、本性の開花はそのまま現在ある様々な、具体的な職業という訳ではありません。
但し・・・大枠という意味では、ある程度その方向性だけは決まってきます。
例えば、格闘家としての資質に恵まれた人が・・・学者や医師にはあまり適性がないというようなものです。
では、この適性はと言えば・・・体質や気質はもちろんのこと、もっと簡単に言うならば好き嫌いや、どんな人の影響を受けたかも関係しています。
そんな様々なファクターを、細かく確認することはもちろん大変な作業です。
こんな時にこそ、内観や瞑想による究極の自分探しが役立つのではないでしょうか?
花や動物と違って、人間だけが本性を忘れたり思い出したりする生き物という話は、以前にも書いたとおりです。
桜は桜として咲き、向日葵は向日葵として咲く・・・それが本性であって何の問題もないのは当然のことです。
さぁ、ここで質問です!
桜は桜の満開に感動するでしょうか?
桜の花や動物も含めた自然界が、自然そのものに感動するでしょうか?
自然界に感動するのは、本性を忘れたり道に迷ったりする人間だけの可能性があります。
神、造物主、大いなるもの、ダルマ・・・何と名付けようと、その存在を認識したり感動するためには?
これは私の洞察ですが、失楽園というプロセスも一度楽園を追われない限り、その有り難さを感じることが出来ないから・・・そんな気がしてなりません。
さぁ、そろそろ結論です。
職業という意味での細かい適性よりも、先ずは人間として生まれたことの価値に・・・つまり、この自分自身の命の本性にめ覚めることの方が、遥かに先決ではないでしょうか?
私のような哲学に至るまでには、どうしても宗教的な・・・別の言い方をすれば、スピリチュアルなプロセスを通らざるを得ない理由もここにあります。
そして、自分自身の命の使い方・・・つまり使命さえ分かれば、職業が何であれ本性が適したところへ連れて行ってくれるものです。
私が早かれ遅かれ、今の環境から離れることになると思う理由も・・・実ははそんな本性からの目に見えない力が、ようやく働き始めているからです。
自分が何の花かが分かれば、例え今が蕾であろうと、あとはその咲く時期のために根からの養分を一滴も無駄にしないようにしなければなりません。
徹底的な自己観察こそが小さな自我をこえて、真我という本性の開花に繋がる唯一の道・・・というこのあたりで、そろそろ終わりにさせて頂きます。
それでは、それぞれの種の個性に乾杯!