後先を 越えた今から 永遠が。 アモン A003 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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さて、何日振りのアモン節だろうか?

私は好んで難しい言葉を使うことは、おそらくないと思う。
では、その内容や論旨となると、実はそんなに簡単ではないかも知れない。

今日は特に、いつも以上にその危険性?が高い話になる。
もちろん、敢えて難しくするのではなく、題材そのものがという意味である。


そもそも[今]を語ること自体がタブーであり、ナンセンスであるという観点も考えられる。
私も通常はそうかも知れない。

ところが、この通常とは?
それは時間の概念の中の、一般的な日常だと私は捉えている。

つまり、過去は確かにあった、未来も突然無くならない。
その間に今日があり、そのすべての中心点として[今]がある…この概念が私に言わせたら、通常ということになる。

では、通常ではない、時間の概念を越えた[今]とは?

私は若い頃、かなり無謀な運転でバイクを乗り回していた過去もある。
時速150キロを越えるスピードで、予期せぬ何かに乗り上げた…。
しかもひとり、深夜の田んぼ道だった。

10メートル位は空中を飛んでいただろうか?
客観的に見れば二秒足らず。

ところが、私にとっては十秒以上と思えるほど、不思議な余裕があった。

このまま落ちたらバイクの下敷きになる…よし! このタイミングでバイクを蹴りながら手放そう!

一瞬、真っ暗闇や眩しい光を見たような記憶もあるが、とにかく私は怪我もなくバイクも無傷だった。

これも通常ではない[今]のひとつだろうと思うが、こんなに危険ではないアクセスもある。


それはなんと、般若心経の世界だと言えば驚くだろうか?

おそらくは、その存在なら誰でも知っているお経である。
このお経を写経したり、音楽のように聞いている人も少なくはない。

もちろん私も、それが悪いとは言わないが、実はその意味こそが人類の財産と言っても過言ではない。
私がこの場で全文を紹介、あるいは解説したら日が暮れる…いや、夜が明けることになる。

そこで、得意?の総論、極論、エッセンスのみとさせて頂くことにしたい。

一般的には難解とされる無、あるいは空に言及した記述の中で、最高峰と言える極めて貴重な文献である。

そもそも、これは仏陀が十大弟子の中でも、最も理解力があったとされるシャーリープートラだけに語ったものである。
難しいのは、当然だろうと思う。
では、何故難しいのかと言えば、実は簡単な話で、極めて深い瞑想状態でなければ体感することが出来ないからと言える。
通常の時間の概念の中の今や、永遠とは違うもうひとつ扉がある。

つまり、後や先を寄せ付けない[今]を体験する扉と言える。

瞑想歴は何十年になる私の示す内容が、難解な理由もここにあるかも知れない。

何はともあれ、そのもうひとつの扉が開いた瞬間、時間は消え失せる。

今という永遠を味わう…さあ、そろそろロジックの限界に達している。

老子が「知る者は言わず、言う者は知らず」と、敢えて関所を越えるために書き記した理由もここにある。

あなたがもしも、時間の壁を越えた[今]を体験したいのなら深い瞑想状態か、イエスのように無償の愛に身を投じる、、、、このふたつしかない。


久々のアモン節、堪能して頂けただろうか?



後先を

越えた今から

永遠が。