ポール・ラッシュ
~戦後の日本で、青年の教育とアメリカンフットボールの発展に尽力した人物~
〈キープへの道 ROAD to KEEP〉
神は時として、この世界に、時代や場所が必要とする傑出した人物を与えてくれます。
ポール・ラッシュこそ、戦前戦後の日本のための人物だと言えます。
米国インディアナ州フェアマウントで生まれ、ケンタッキー州で育ったポールは、1925年、関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館再建委員の一人として初来日。
任務を終え、帰国の船便まで予約したポールに、「残って、立教大学で教えてくれないか」と説得したのは、当時、立教学院理事長だったJ.マキム主教でした。
ポールには故郷で待つ婚約者もいましたが、主教の熱心な説得に、「1年だけなら」と承諾し教師生活が始まりました。
最初、布教に消極的だったポールも、自分に信頼を寄せる教え子たちの熱心さに考えを変え、彼らの支えになろうと真剣に考え始めたのでした。
BSA(聖徒アンデレ同胞会)に出会って深い感銘を受け、1927年に米国BSAの日本支部を発足させました。
ポールは30歳でした。
翌年、大震災で破壊されたままになっていた聖路加国際病院再建のため、請われてトイスラー博士とともに募金に当りました。
このときに博士から、募金のテクニックを受け継ぎました。
ポールが日本のために全生涯をかける決意を固めたのもこのころでした。
日本へ戻ったポールは、新たな事業に着手。
その一つは、BSAの本部会館と指導者訓練キャンプ場の建設でした。
1938年、多くの人々の支援を得て、待望の指導者訓練キャンプ場が完成し、「清泉寮」と名づけられました。
その頃、時勢は太平洋戦争へと進み、殆どの米国宣教師が離日したあとも、最後まで残っていたポールも1942年にやむなく帰米。
母国で陸軍日本語学校に配属された彼は、そこでも米国日系人を助けるために尽力しました。
1945年にGHQ将校として、壊滅状態の東京に戻ったポールは、民主主義に根ざした戦後日本の復興のためには、国土の大部分を占める山間部の開拓と農村の復興が先決と考え、富士山を望む美しい八ヶ岳山麓で新しい事業に取り組みました。
清泉寮を拠点にしたモデル農村センターの建設です。
こうして「清里教育実験計画(KEEP)」が生まれました。
KEEPは八ヶ岳地域開発の要になっただけでなく、戦後日本の農村復興のモデルとなりました。
清里寮のシンボル聖アンデレクロス
アメリカンフットボール復活試合でのキックオフ
〈フットボールの父 FATHER OF FOOTBALL〉
ポール・ラッシュの功績の中で、スポーツ、とくにアメリカン・フットボールの普及は欠かせません。
日本では明治時代に、ほとんどの近代スポーツが紹介されたにもかかわらず、アメリカンフットボールだけはなぜか知られていませんでした。
ポールが立教大学勤務の頃日本の大学に居た海外からの留学生は、生活環境や、習慣の違いなどに苦労していました。
ポールは彼らを元気づけるために、アメフトの普及を思いつき、率先して防具などを準備し、東京学生アメリカンフットボール連盟を設立。
1934年11月29日、明治神宮外苑競技場で日本初の公開試合を開催し、日本のアメフトを正式に誕生させました。
観客はおよそ1万5千人以上と、予想をはるかに上回り、本場米国の試合さながら、バンドの演奏やチアリーダーの応援で、ひじょうに盛り上がりました。
この前年、日本は国際連盟を脱退し、中国での軍事行動を拡大しており、太平洋上の雲行きもしだいに怪しくなっていたところでした。
ポールはこの初試合に、スポーツを通じた日米青年の親善とともに、平和への願いを重ねていたに違いありません。
日米開戦後、「敵性スポーツ」であるとして廃止されたアメフトを、戦後、ポールの呼びかけで復活します。
関西、続いて関東のアメフト連盟が発足し、装備も米軍の寄贈などで揃えられました。
当初、個別に競技会を開いていましたが、1948年1月17日、宿願の全日本(東西選抜)大会が明治神宮競技場で、約6千人の観衆を集めて開催されたのです。
始球式は、ポールが軍服姿で行いました。この大会は、日本人の主食にちなんで「ライスボール」と名づけられました。
ポールはアメフトだけでなく、スポーツ全体の復活・振興にも尽力しました。
戦後初の全国中学校野球大会(現在の全国高校野球大会)には主賓として招かれ、祝辞を述べています。
スポーツを通して、日本の若者たちの健全でたくましい成長を願ったポールの幅広い貢献には敬服するばかりです。
1961年、日本アメリカンフットボール協会はポールに、「フットボールの父」の称号を贈りました。
またアメフト誕生50年を記念した1984年の第1回全日本選手権大会から「ポール・ラッシュ杯」が設けられ、最高殊勲選手に贈られています。
〈最善を尽くせ、しかも一流であれ Do Your best、and it must be first class〉
生涯、独身を貫き、「祈りと奉仕」を理念とするBSAを土台にして、日本のため、清里のために全精力を傾けたポール・ラッシュがたびたび困難に直面したとき、彼を支えたのは、彼のキリスト教信仰と、周りにいた人々でした。
太平洋戦争勃発直前に米国聖公会伝道局からの指示で、宣教師が次々に引き上げた後、日本人を信じて、たった一人、残ったポールを助けたのは、以前から交友関係にあった日本の外交官たちでした。
1955年、財団法人キープ協会としてスタートを切ろうとしていた矢先に起こった清泉寮焼失の際にも、傷心のポールを励ましたのは、地域の農民や子どもたちであり、米国中にいる彼の友人でした。
次々に膨らむ構想を実現するために莫大な資金が必要でしたが、在米後援会やロックフェラーなど各界の有力者がポールの事業を支持し、資金を提供してくれました。
その中には、米国の名も知らない人々の無償援助も多くありました。
キリスト教の隣人愛とともに、ポール・ラッシュの類い希な魅力と熱意が彼らの多くを動かしたのでした。
ポールは疑いもなく、偉大なリーダーでしたが、同時に、普通の人間でもありました。
ポールは、気さくで人なつこく、暖かい人だった、満面の笑みが印象的だった、お茶目な反面、涙もろい人だったようです。
平均的アメリカ人より背が低かったため、日本人にとってもポールにとっても、お互いに親しみやすかったのかもしれません。
Do Your best、and it must be first class.(最善を尽くせ、しかも一流であれ)
これは、ポールがもっとも尊敬する聖路加国際病院設立者でもある、トイスラー博士から伝授された思想です。
トイスラー博士はポールに、「もしキリストの名のもとに何かしようと思ったら、人々が目標としてまねのできる本物を示せ。
しかもそれは一流のものでなければならない」と教えました。
ポールはこの教えを忠実に守ったのです。
教え子を導くために最善を尽くして清里を開拓し、人々に希望を与え、日米の友好にも人力しました。
1979年冬、ポールは聖路加国際病院のベッドで永遠の眠りにつきました。
ポール・ラッシュ 享年82歳。
日本の青年教育とアメリカンフットボールの発展に尽力した人物の静かな眠りでした・・・。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
ポール・ラッシュの歩み
1897 ● 米国に生まれる
1925 ● 東京と横浜のYMCA会館再建のために初来日
1926 ● 立教大学教授として残留
1927 ● 日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)を設立
1928 ● 日本聖路加国際病院建設のため米国で募金活動
1934 ● 日本にアメリカンフットボールを紹介
1938 ● 日米協会の青年活動およびBSA指導者訓練場として清泉寮を建設
1942 ● 日米開戦のため米国へ強制送還
1945 ● GHQ将校として再来日
1946 ● 清里農村センター(キープ)建設開始
1948 ● 清里聖アンデレ教会完成
1949 ● 高冷地実権農場開始
1950 ● 清里聖ルカ診療所開設
1957 ● 清泉寮再建 清里聖ヨハネ保育園開設
1963 ● 清里農業学校開設
1979 ● 12月12日 聖路加国際病院で逝去
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(清里観光振興会ホームページより)補足文:Noripyon
ブログネタ:年上と年下、どっちに見られる?
参加中
こんにちは。
年上と年下、どっちに見られますか?
僕は、どちらかと言えば童顔で、必ず数歳 下に見られますね~
だから、てっきり年上だと思って敬語で話してて、後で歳を聞いたら相手が自分より年下だったってことは当たり前にあったり・・・。
アメリカ生活時代は、バーでお酒を飲もうとしたら、IDを見せてって・・・未成年扱いでした><
学生時代は、若く見られるのって嫌だったけど。
今は、いいかもって思ってます 笑
アグレッシブな人は実年齢より下に見られるかもね!
見た目だけじゃなくて、性格的に落ち着いていたり、物腰の柔らかい人は実年齢より上にみられるのかな~
と、未だに落ち着きのないNoripyonです。
あなたは年上と年下、どっちに見られますか?
↓ポチっと押してみて下さいね^^ご協力ありがとうございます。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
『成功するための帝王学』
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
『摩天楼を夢みて』 バックナンバー
第1話~
第10話~
第20話~
第30話~
第40話~
第50話~
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─