リスの世界

リスの世界

️リスの世界へようこそ️️!感想と日常の想いを書いています。

Il faut cultiver notre jardin.

— Voltaire, Candide

リスです。
神社に行ったら、普段何を祈りますか?

 

日本では、願い事をする機会がけっこう多い。神社に行けば祈ったり、おみくじを引いたりする。七夕には短冊に願い事を書いて笹に掛ける。最近、伊右衛門っていうお茶をよく買うんだけど、ラベルの裏にもおみくじが書いてある。だるま、お守り、初詣、絵馬、流れ星もある。

 

願い事は、意外と力があるのかもしれない。願い続けてると、その願いに合わせて、自分の意思や行動も少しずつ変わっていく。今までした願いの中で、特によく覚えてるものが2つある。

 

1つ目は、去年の5月頃、箱根神社で願ったこと。「勇気がほしい」。第二言語で話すには、語彙だけじゃなくて、対人スキルも新たに身に付けないといけない。人と交流するには、もちろん言語能力が必要だ。でも、どれだけ力があっても、勇気がなかったら、そもそも会話が始まらない。この願いは、叶ったと思う。

 

箱根神社からの写真

 

2つ目は、今年の初め頃。福岡タワーに登ったら、なぜかそこにも願い事を書いて掛ける場所があった。僕が書いたのは、「たくさん友達ができますように」。春休みで、ちょっと寂しかったし、寮に新しい寮生がそろそろ来る。新しいバンドにも入った。修士課程もそろそろ始まる。色んな人に会いたい。

 

そして、この願いも叶った。同じ寮に住んでる短期留学生同士は、仲良くなるのが速い。いられる期間が短いし、コミュニティーも小さい。毎日のように顔を合わせて、遊んで、話して、気づいたらすごく大切な人になってる。

 

でも、その友達が帰国する日が来る。帰る日のカレンダーもあった。まるで、みんなの頭の上に時計が浮かんでるみたいだった。帰国する日まで、ずっとカウントダウンしてる。ただご飯を食べに行くだけなのに、それさえ重く感じる。何度も「最後の晩餐」が繰り返された。僕も留学生だけど、短期留学じゃないから、日本に残る。寮に最初に来て、最後に出る。だから、何度も見送る側になった。

 

まるでランプの魔人に願いを叶えてもらったみたいだった。欲しかったのは、ちゃんと手に入った。でも、その願いがどんな形で叶うのかまでは考えてなかった。それから、神社に行っても、何を願えばいいのかわからなくなった。

 

寮のさようならパーティで、短期留学をしたことある人が「留学ってこういうことだよね」って言ってた。まあ、これは留学の定番なんだろう。仕方ないと思ってた。バンドのみんなはまだいる。ここなら大丈夫だろうと思ってた。

 

でも、ある日バンドの人と話してたら、「来年、たぶん引退します」って言われた。その瞬間に、また時計が現れた。ああ、ここにもあるんだ。

 

引っ越さなくても、帰国しなくても、こういう日々はいつか終わる。今のメンバーで演奏することも、練習のあとにくだらない話をすることも、ずっと続くわけじゃない。やはり、儚い。

 

出会った人たちのおかげで、僕はたくさん成長した。相手は、自分が僕にどんな影響を与えたのか知らないかもしれない。でも、「出会えてよかった」って言い切るのは難しい。知れば知るほど、別れは痛くなる。それでも、もっと知りたい。もっと話したい。そう願ったら、また同じように別れが来る。どうすればいいんだろう。

 

こういう日々は、散る桜のように、綺麗で、儚い。「桜は儚いからこそ綺麗だ」って言われてる。でも、考えてみれば、桜だけじゃなくて、花には全部、散る時がある。あさがお、あじさい、ひまわり、菊。永遠に咲き続ける花なんてない。

 

あじさい

 

色んな花が咲く「庭」のことを考えてる。花そのものだけを見るんじゃなくて、その花が咲いてる場所のこと。もちろん、花は僕のために咲いてるわけじゃない。それぞれに自分の季節があって、自分の行き先がある。たまたま同じ庭で過ごせる時がある。石もある。虫もいる。何年もそこに立ってる頑丈な木もある。ほんの一度だけ立ち寄る渡り鳥もいる。

 

だから、この庭で過ごす時間を、もう少しちゃんと見てたい。これはだいぶ難しい。聞き取れないことまだ多い。母語で話すときでも、言いたいことをうまく言えなくて、台無しにするときもある。そもそも、言いたいことを言わないまま終わることも多い。あとになってから、「もっと話せばよかった」「もっと知りたかった」と思う。やらないほうがよかったことを、やってしまうこともある。

 

でも、庭の中で育ってるのは、花だけじゃない。このリスも育ってる。時計はまだ見えてる。時計が進むのが怖い。でも、時間が進まないと、僕も育たない。まだ、美しい庭の作り方なんてわからない。でも、耕したい。

 

昨日、神社に行った。今までは、何を願えばいいのかわからなかった。でも、今回は決まってた。ちょっと欲張りだけど、もう迷わない。

 

「美しい庭ができますように」

リスです。

 

楽しい時間が終わったら、帰り道でなぜか非常に寂しくなる。帰りの電車に乗ると、数分前まであった友達の笑顔も、声も、存在そのものも、いきなり消える。代わりにいるのは、知らない乗客ばかりだ。さっきまで、近くの人たちにとって自分は確かに「大切な誰か」だったのに、いまはただの一人になってしまう。

楽しかったからこそ寂しくなるのだろうか。まるでカフェインの効果が切れるときみたいに、それとも二日酔いみたいに。社交の二日酔い?そんな言葉が浮かぶ。

そういう寂しい考えが浮かぶと、スマホの待ち受け画像を見る。学園祭の文字通り「後の祭り」だ。誰もいない。空っぽのテントはまだ片付けてない。あの夜の静けさも、夜空も、空気も、忘れられない。気づけば一年以上、待ち受けを変えていなかった。


祭りがあると、どうしても後の祭りも来る。
そう言い聞かせる。終わったあとに寂しくなるのは、たぶん普通のことなのだと。

でも、もし、あの写真を寂しさと結びつけるようになったからこそ寂しくなるのかもしれない。毎日何度も見るものだから、心にまで影響する。だから2週間前、変えてみようと思ってた。新しい待ち受け画像は、短冊がびっしり吊るされた七夕の笹だ。僕は書かなかったけど、みんなの短冊を見ると、「どれくらい叶ったのかな」と思う。

スマホを開くたびに、まだ少し驚く。新しい...

大事なのは「どの画像か」だけじゃないと思う。待ち受けを探して、入れ替えること。その動きそのものが大事なのかもしれない。何かを強く握りしめ続けると、そこに新しいものが入る余白がなくなる。思い出を捨てたいわけじゃない。でも、次の思い出のほうへ進んでいきたい。

何かが待ち受けていると思う。
次の楽しいこと、次の嬉しいこと、次の「またね」。

 

リスです。「天元突破グレンラガン」はもう最後まで見終わっているんだけど、これは第8話まで見た時点で書いた感想だ。ネタバレなし(テーマ的な話はする)

「お前を信じる俺を信じろ」ってセリフは前からよく聞いたから、このアニメを見たくなった。第1話にあのセリフが出た。あと、似た形でもう一つのバージョンも出た。「自分を信じる自分を信じろ」。どっちが正しいんだろう。

「俺」はずっと「お前」のそばにいられるとは限らない。でも「自分」はきっと最後まで「自分」のそばにいる。じゃあ、できれば後者のほうがいいんだろうか。そんなに簡単じゃないと思う。


人は、特に幼いころ、信頼している人の反応を借りる。もし幼い子どもが滑って転がっちゃったら、近くの親や信頼している大人の顔をうかがう。親の反応に合わせて、子どもも反応する。親が焦ったら子どもも慌てて泣いてしまうし、親がニコッと笑ったら、少し痛くても安心できる。幼いころから、信頼してる人の表情や反応を見て、それをなぞるように反応していく。


親は内心で心配しても、子どもに安心を伝えられる。
同じように、自分に自信や勇気がなくても、それを他人に伝えられると思う。
僕はただのリスだけど、なんとか勇気を渡したい。そうできたら、何よりだ。

「お前を信じる俺を信じろ」と「自分を信じる自分を信じろ」

たぶんこの二つのセリフは、どっちが正しいかを決めるものじゃない。
最初は誰かの「信じる」を借りて、いつか自分で自分を信じられるようになる。
成長の一つは、その変化そのものだと思う。

 

リスです。今日はバレンタインデーだから、ちょっと恋バナをしたいと思う。

初恋は中1の頃。それから今まで、好きになった人が6人いる。けど、彼女ができたことはない。理由はいろいろあるけど、その一つは好きになった瞬間に、その気持ちをすぐ捨ててきたからだ。

中学生の頃、ちょっとからかわれた。「リスくんはリスちゃんが好きなんだ~」って。本当は違ったのに、なぜかそれが妙に刺さった。それ以来、「好きになることは良くないこと」みたいに思い込んじゃった。

それに、好きになるのって、怖いよね。
ダメだったら、気まずくなる?
ダメだったら、どれだけ心が痛む?
ダメだったら、親友を失う?
あれ、最悪だよ。そう思うたびに、「じゃあ最初から好きにならないほうがいい」ってことにしてきた。

でも最近、やっと気づいた。僕はずっと「気持ちを消す」癖があることに。きっかけは「沖ツラ」っていうラブコメからのセリフだった。

第1話で主人公がこんなことを言う。
「好きな子もできてしまった」。
その瞬間、一時停止して、巻き戻して、もう一回聞いた。

「好きな子ができた」って、なんて優しい言い方なんだろう。
「できる」っていいイメージだよね。
合格できる。うまくできる。リスを見ることができる。

なるほど。
誰かを好きになれたなら、呪いじゃなくて、恵みだと思った。

だって、身近に「こんなに優しい」「こんなに面白い」と思える人がいたら、それだけでもうラッキーだ。

だからこれから、他人への想いを大切にしたい。もう、気持ちを捨てたくない。
まだ告白する勇気なんてない。でも第一歩は、自分の気持ちを「悪いもの」として扱わないことだと思う。好きになることを許せたら、いつか勇気も湧いてくるかもしれない。

ミュージカル「Wicked」の「For Good」っていう曲のタイトルには、二重の意味がある。
「これからずっと」と、「良い方向に」。

恋人できるかどうかはわからない。
でも、好きになった時点で、もう何かが変わっている。
きっと、I have been changed for good.

僕の世界を少し変えてくれた人たち、ありがとう。

 

リスです。

昨日は雪が降っていた。窓の外を見なくても、雪が積もったことがわかる。目を閉じて耳を澄ますと、雪の日にしかない独特な静けさがある。鳥の気配が薄くて、車の音は遠く、いつもよりゆっくりだ。ふわふわの雪が音を吸い込んでいく。こういう静かな時間に、ふと「少女終末旅行」というマンガを思い出す。

チトとユーリが、崩壊した世界を二人で旅していく物語だ。ほとんど何も残っていないからこそ、世界は静かで、小さなものが大きく感じられる。雨の音、お風呂のぬくもり、新しい食べ物の味。僕らなら見過ごしてしまうような日常のことは、彼女たちにとっては大切な宝物になる。なぜか都市の上へ上へと進んでいくのに、作品の焦点はいつも「今、確かに、この瞬間」にある。素晴らしい物語というより、詩を読むような感触がある。

物語に比べると、詩の魅力はちょっとつかみにくい。けど、次の言葉を読んでから、ちょっとわかってきた。パーシー・ビッシュ・シェリーはこう言ったという。

詩は、世界の隠された美を明らかにして、慣れたものをまるで慣れていないかのように見せる。




「少女終末旅行」はそれをやってくる作品だと思う。新しいことに出会うと、チトとユーリが子どもみたいに素直に考えたり、問いかけたりする。それを通して、僕らも改めて考えさせられる。なぜ写真を撮るのか。なぜ日記をつけるのか。なぜ音楽を作るのか。

一番忘れがちなのは、一番慣れたものかもしれない。僕が育った場所では、雪は普通に降る。だから雪は、いつの間にか「ただの雪」になっていた。けど昨日は違った。みんなの送ってくれた雪の写真、笑顔、歩道のそばの雪だるま。みんなが雪をちゃんと楽しんでいた。きっと、雪はみんなの宝物なんだと思った。見ているうちに、僕にとっても雪が宝物になった。


「少女終末旅行」の各章もやっぱり短い詩みたいだ。一つの章で、一つの宝物に出会う。雨音、お風呂、音楽、写真、少しの食べ物。けどそれは「旅の休憩」じゃなくて、「旅の一部」だ。旅の核は、そういう瞬間にある。章を重ねるほど、世界の見え方が少しずつ変わっていく。最初は「もの」を見ているようで、いつの間にか「人生」を見ていることに気づく。さっきの言葉で言えば、世界の隠された美だけじゃなくて、人生の隠された美まで、明らかにしてくるみたいに。

宝物は遠くにあるんじゃない。見慣れた日常に、もう一度目を向けたときに生まれる。雪の静けさも、雪だるまも、写真も、そうだった。

雪はもうやんだ。僕の、そしてみんなの作った雪だるまが溶けていく。静けさも、そろそろ溶けていく。世界はまた、いつもどおりに戻る。次に雪が降ったら、「ただの雪」もまた宝物になる気がする。