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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・

悟りの窓

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迷いの窓

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京都 泉涌寺にて



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2年ぶりに、妙心寺へ。

その時の厳しい参禅のトラウマか。。。

不整脈が出たあ~

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iPhoneからの投稿
飾らない自分を見つけることが「悟り」となる

「悟り」と聞けば、長きにわたる修行の末にようやく到達できる、特別な境地だと考えている人が多いのではないでしょうか。

しかし、禅語では「平常心是道」と教えます。 日々、当たり前のことを当たり前にやっている心こそ道であり、悟りもそこにある、という意味なのです。

茶人の千利休も、茶の湯について「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶をたてて飲むばかりなるものと知れ」という言葉を残しています。

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なにも道を究めようなどと、力むことはないのです。 ただ、今やるべきことを自分の命を込めて、当たり前にやっていればいい。命を込めるとは、ひたすら取り組むこと、といってもよいでしょう。

誰にでもその瞬間、瞬間になすべきことがあります。 それは仕事かもしれないし、勉強かもしれない。しかし何れにせよ、「何かのためにする」「これをすれば何かが得られる」などと、とらわれることなく、目の前のことに集中して自分を投げ込む。

そこに飾らない自分の姿があり、その心こそが「悟り」でもあるのです。


「禅 心の大そうじ」より


一生懸命になるためには、「捨てる」こと

何をしていても、つい余計なことを考えるのが人間です。せっかくの休日を家族で楽しんでいても、「明日の仕事の段取りは・・・」と考えてしまう。「楽しむこと」に徹しきれないのです。今、その瞬間以外のことは、放っておけばいいのに、過去に思いをめぐらせ、未来を考えずにはいられない・・・

禅では「放下着」  何もかも打ち捨てなさい、と教えます。手放せないから、とらわれるのです。 捨ててしまえば、今、その瞬間、瞬間に一生懸命になれるのです。

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一休禅師にこんな逸話があります。 弟子を連れて歩いていると、鰻を焼く匂いが漂ってきたので、「いい匂いだなあ」禅師は言ったのです。

それから、しばらく歩くうちに、今度は弟子が「さきほどの禅師の言葉は、仏さまに仕える身として不謹慎ではないでしょうか」と言いました。すると禅師はこれを一喝しました。「お前はまだ鰻のことを考えていたのか。そんなもの、わしは鰻屋の前に捨ててきたわぃ」と。

今やっていることが、一番大事なことなのです。 過去を引きずることはないし、未来を憂えても仕方がないのです。

目の前の「今」に打ち込むことが、ひとつの禅的な生き方なのです。


「禅 心の大そうじ」より




生まれて、死ぬ、ただ、それだけ。

生まれて、死ぬ  どんな人も、この摂理から逃れることはかないません。 だからこそ、少しでも長く生きることを願い、また死ぬことに対して、不安や恐れを抱くことにもなるのでしょう。

禅語に「不生不死」という言葉があります。生死は変えようのない絶対なるもの、というのがその意味です。ここに、生死をどう考えたらいいかのヒントがありそうです。

生も死も、私たちの手が及ばない絶対なるものなら、それについて思い悩んだりしたって仕方がないのです。摂理にまかせておくしかない、ということになりませんか。まかせきってしまえば、こだわる必要もなくなります。

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「こんなふうに生きなくちゃいけない」とか「死ぬまでに、これだけはしておかなくてはいけない」といった「縛り」が、心から消え去っていくのです。

今この瞬間、自分が生きている。「それだけで、すごいことじゃないか」と思える。その「すごい自分」を真剣に、そして、淡々と生きたらいいのです。 

禅の心にそった肩の力が抜けた生き方とは、きっとそのようなものだと思うのです。


「禅 心の大そうじ」より



「あまり難しいことは考えず、単純明快に生きていくのがいい」 禅はそう教えます。この精神をよく表わした言葉に「飢え来たらば飯を喫し 困来たらば即ち眠る」という禅語があります。

「お腹がすいたら、ご飯を食べればいいのです。疲れたら眠ればいいのです」という意味です。実に自然な生き方ですが、「現実は、そういうわけにはいかない」と思われるかもしれません。

たとえば、ダイエット中で食事制限をすることについて。確かに、食べ過ぎはよくありませんが、食べなさ過ぎも心身に毒です。極限まで我慢して、結局リバウンドというのは、よくある話です。

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眠くてたまらないけれど、明日の会議の資料を読んでおかなければ。けれど、眠い目をこすりながら読んでも、内容が頭に入るとは思えません。翌朝寝坊して、会議に遅刻したら、目もあてられません。すぐ眠りについて、朝早く起きて読めばいいのです。

もっと単純明快に考えて、したいことをして生きるほうが、人生はハッピーなのではないでしょうか。

なにかを成し遂げるためには、もちろん忍耐が必要です。けれど、食べたり寝たりといった健康維持のために必要不可欠なことは、やせ我慢をすれば、後でしっぺ返しがきます。無理に我慢しないほうがいいのです。


食べること、寝ることだけは、自然にままに


「いい事」が一杯起こる!禅の言葉より


いかに生きるべきか。
人生とはなにか。自分は、何者か。死とはなにか。
ギリシャが産んだ哲学者ソクラテスの時代から、現代に至るまで、西洋哲学はまさにこれらの主題を追い続けてきました。

そして、禅もまた、この人生の主題について、ある答えを出しています。

それが「生は下穿きをつけるが如く 死は袴を脱するが如し」です。
「下穿き」とは「下着」のこと、「袴」とは「ズボン」のようなもののことで、つまりは「この世に生まれ出でることは、下着をつけるようなものです。死ぬことは袴を脱ぐようなものです。」という意味です。

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これは「生まれることも、生きることも、死ぬことも、それほどたいした問題ではない、悩むことなどない」と教えているのです。
もしかしたら、本当に、人の生死とは、肉体という服を、着たり脱いだりするだけのことなのかもしれません。

「人生について、いくら悩んでも意味はない。人生とは、理屈で理解できるものではないのだ。生きるとは、食べて、歩いて、座って、寝るという、まさに生活そのもののこと。だから生活を通して人生を理解するしかない」というのが禅の考えなのです。結局は、一日一日をただ一生懸命に生きることが、人生の意味を知る唯一の方法。

この禅語は大きな安心感をもたらしてくれます。


一生懸命生きていれば、なにかが見えてくるもの


「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より


昔、中国には「闘鶏」という鶏同士を闘わせる遊びがありました。 

ある時、闘鶏用の強い鶏を育てる名人がいるという噂を聞きつけた王様が、その人を呼びつけ、自分のために強い鶏を育てるように命じました。王様は一日も速くその鶏を闘わせてみたくて、名人のもとを日々訪れては「もう闘わせてもよいのではないか?」と聞きますが、名人は「いいえ、まだです」と取り合いません。

その後、数十日が経って、ようやく名人は鶏を王様に献上しました。 「この鶏は、ほかの鶏を見ても決して興奮しなくなりました。まるで木彫りの鶏のように泰然としています」

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この逸話が教えてくれるのは「強い者とは、敵の前でも平常心を失わず、平然としている者である。大声で威嚇したり、脅したりと、いかにも強そうに振舞うのは、実は弱い者である証。人前で偉ぶったり、強そうに振舞ったりするのは本当の強さではない。悟りを得た高潔な人は、いつも穏やかに安らいだ様子でいるものだ」ということです。

ここから「木鶏(もっけい)子夜(しや)に鳴く」という禅語が生まれました。

また、この「子夜」とは、深夜零時のことで、「木鶏は誰も見ていないところ、人のわからないところで鳴く」という意味があり、「徳の高い人は、誰もみていないところで、努力している」という教えも含まれています。

弱点を指摘されたときに、怒ったり、不安になって動揺したり、自分の有能さをひけらかしたくなったりしたら、まだまだ、陰で努力を積んで実力を備えましょう。


何があっても平然と構えていられる境地を目指す

「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より


神様が現れ、「百の幸福を授けよう」といいました。
その時、Aさんは大変喜んで、百の幸福を受け取りました。
しかしBさんは、「私には、百の幸福など必要ありません。五十で十分です」と言って、幸福の半分を神様に返しました。

その後、この二人のどちらが、より幸福な人生を歩んでいけたと思いますか。普通ならAさんだと思うでしょう。しかし、「後々、幸福でいられるのはBさんのほう」と教えるのが禅なのです。

「福受け尽くすべからず」という禅語は、「与えられた幸福を、すべて受け取ってはいけません。自分にとって必要な分だけを取り、必要のない分は返しましょう」という意味です。

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「もし、すべての福を受け取ってしまったら、その後、真面目に努力するのが馬鹿らしくなり、怠けてしまって運勢を下げてしまう。慢心が生じれば、他人を見下すような態度をとって、嫌われ者になることもある。でも、全てを拒む必要はない。謙虚な気持ちで、必要な分だけを、ありがたく受け取ればいいのです」と教えているのです。

たとえば、仕事が忙しくて、てんてこまいのあなたに、同僚が「手伝おう」といってくれたら、全部ではなく半分だけお願いするという具合です。また仕事の手柄は、すべて自分のものにするのではなく、「あなたのお陰です」周囲に感謝を伝えます。

お金を儲けたときは、さらに投資などでふやそうとするのではなく、支えてくれた人にお礼の品を贈るとか、困っている人に寄付するという具合です。


努力する余地を残しておくほうが、幸せな人生になる


「いい事」が一杯起こる!禅の言葉より




友人の留守電にメッセージを残したのに、電話を折りかえしてくれない、恋人が、最近メールをくれない。また、上司に冷たくあしらわれたといって、イライラ、ヤキモキしている人がいます。そのイライラ、ヤキモキをなくすのに、役立つ言葉があります。

「実相無相」という禅語です。

「実相」とは、「物事の本質」という意味。「無相」とは、「そのようなものにとらわれては、いけません」という教えが含まれた言葉です。つまり、「悟りの境地です」という意味です。禅語独特の難解な言葉ですが、そのいおうとするところは、次のようなことだと思われます。

「恋人が最近、連絡をくれない」「職場の上司から冷たくあしらわれる」といった事象から、人はなぜ、そのようなことが起こるのだろうと理由を考えます。すなわち、物事の本質について、考えるのです。

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そこで、「恋人は自分のことを嫌いになった」「上司は、自分に不満を持っている」などと自分なりの結論を出すのですが、それはあくまでも推論。それが正しいとは、限りません。

実はたんに相手が二日酔いだったり、家族ともめて機嫌が悪かっただけかもしれないのです。いくつ推論を並べても、それは、「物事の本質」ではありません。妄想にとりつかれては、いけないのです。

「人間関係のちょっとしたすれ違いにヤキモキするより、今自分がすべきことをきちんとやるほうが大事だと知ることが、真に「物事の本質」をつかんだことになる」と、禅は教えています。


下手な妄想をふくらませて、ヤキモキしない


「いい事」が一杯起こる!禅の言葉より