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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・

ひとりひとりがこの世界のどこかに生きる場所を持っており、好むと好まざるにかかわらず、何らかの点で重要な存在なのである。

私たちは、たいてい自分に嘘をついています。

それは他の人たちに認められることこそが、幸福に生きるために必要だと信じているからです。自分に正直になるよりも、他人に気に入られるようにすることが大事だと、小さい頃から思い込んできたのです。

誰からも好かれなくてはならないような気がして、相手に期待されていることを優先しようとします。

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それがみんなの幸せになるのだと、自分のしたいことから目をそらして、他の人から気に入られるような人間になろうと努力するのです。

それで、すべての問題が解決して、うまくいくと信じていたのです。

ところが、どんな嘘でも、嘘は問題を解決するどころか、かえって問題を大きくしてしまいます。

私たちは、嘘をつく人を信用するわけにはいきません。
だとしたら、自分が自分に嘘をついているとしたら、どうして自分を信じることができるのでしょうか。

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自分を信じられないから、余計に他の人に認めてもらおう、気に入られようというところにエネルギーを使ってしまいます。

これでは、とても自分の思い通りの生き方をする自由など持てません。いつもまわりの世界にコントロールされてしまい、自分に嘘をつくことは、幸福につながる道どころか、不安や苦悩という迷い道を歩いているようなものなのかも知れません。

そんな迷い道から抜け出るには、自分が自分に正直になることが必要です。他の人から認められるかどうかを気にするのではなく、自分が自分自身を認めてあげることが大切なのです。

to be continue・・・


「危機」危険な時期。きわめて危ない状態。
「機会」行動をするのに最もよい時。チャンス。

「危機」と「機会」はコインのように表裏一体のものなのです。

「危機」があるから「機会」もあり、「機会」も時によっては「危機」になると言えるのです。

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私たちは「危機」に出会ってはじめて、自分の安全圏から外へ出る必要に迫られ、人生を違った目で眺めるようになるのです。

「危機」を乗り越えるたびに、自分の限界を広げたり、自分の秘めた新しい可能性に気づくことになります。

それが大きな成長の「機会」になるのです。

でも、そのために私たちは、新しい自分に生まれ変わる「変化」を受け入れる覚悟が必要になります。

「change(変化)」も、一文字変えると「chance(チャンス)」になります。

「危機」に出会ったときには、自分の身を守ることも大切ですが、時にはそこから逃げないで立ち向かうことが大きな「変化」という成長の「機会」になるのです。

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そして、「危機」は、私たちがもっと大きく成長することを必要とする時に、目前に現れるのです。

あとは、私たちがそのコインの「危機」の面と「機会」の面の、どちらを選ぶかだけです。

何か困難な出来事に出会った時に、それを「重荷」と思えば「危機」になります。でも、その出来事から何かを学ぼう、それを乗り越えていこうと思えば「機会」になるのです。

      あるがままを受け止めると危機は機会になる。G


雨ならずして 花なお落つ 風なくして 絮自ずから飛ぶ

「絮」とは柳の木の花のことで、これを「わた」といいます。

雨は降らなくとも、やはり花は散っていきます。風は吹かなくとも、柳の絮は自然に飛んでいきます。咲いた花は、必ずしも雨や風のために散るとは限りません。咲いたからには、いつかは散らねばなりません。

この句は、そういう生あるものの定めを、花の散る風景に託して語っています。

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仏教では、諸行無常ということをよくいいます。「諸行」とは、存在する全てのものが移り変わること。「無常」とは、常のないこと、固定のないこと。

諸行無常とは、一切の万物はみな生滅を繰り返し、不変のものは何ひとつないことを意味します。「花なお落つ」「絮自ずから飛ぶ」無常の故に私たちは、そこに惜別の情が生じ、悲哀の情を禁じ得ないのです。

方丈記に、
朝顔の露に同じく、露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。花しぼみて露なお消えず。消えずといえども夕べを待つことなし。

と、無常の哀しさを語っています。

花の散り方にもいろいろあります。天災はもとより、事故や人災で死ぬ人もあります。あっけなく死んでいく人もあれば、悶え苦しんで死んでいく人もあります。
私たちも、いつどんな形で死がやってくるかもしれません。

人生といっても確実に把握できるのは、今、この場所、自分だけです。この一点に全力投球して生きていけば、たとえどんな死に方でも納得できるのではないでしょうか。つまり充実した人生を送ることが、風無きに絮飛び、雨ならざるに花の散る、至福の死に至るのです。

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「昨日」は既に飛び去った鳥である。くよくよ思い惑うまい。
「明日」はまだ捕えぬ鳥である。取りこし苦労はせぬがよい。
「今日」こそは確かに捕えた鳥である。捕えた鳥だ活かさにゃならぬ。
そうだ今日をトコトン活かせ。
己の使命を果し、今日のこの日を意義あらしめよ。
さすれば、今夜死んでも笑って死ねる。そうした価値ある今日たらしめよ。
一大事と申すは今日(こんにち)只今の心なり。

価値ある今日の一点の連続が一生を構成するのです。私たちも、花なお落ち、絮自ずから飛ぶ時節がやってくるかもしれません。その日がいつであろうと、今日只今を生きることです。

            禅語に学ぶ生き方より


たとえば、今、湖に映った自分の姿を見ていると思ってください。

風が吹いて湖面が揺らげば、自分の姿も揺らめいて見えます。嵐が湖を襲おうものなら、大きくゆがんでしまいます。夕陽に照らされれば赤く映りますし、夜になれば暗くて見えなくなります。

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自分の姿は、何も変わりはしないのに、湖面に映る姿は湖の状態によって、さまざまに変化します。

「何かがあれば」「こうなれば」と思うことは、本当の自分ではなく、湖に映る自分を見ているようなものなのではないでしょうか。

ちゃんと自分のことを見ているつもりでも、知らぬ間に外側の環境に左右されてしまっているのです。

本当に大切なものは、自分の外側のどこを探してもみつからないのです。外側の価値観や考え方に波うつ湖面をいくら見ても、本当の自分は見えてはこないのです。

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今、ここに生きているということに、満足することができた時、外に影響されることなく、湖は静かに澄んだものになるでしょう。

そして、ただありのままの自分でいることができるのではないでしょうか。本当の幸せとは、きっとそんな中にあるのではないでしょうかね。

       湖面の月を斬るGでした。。


私たちはついつい、自分がいいと思うことが、他の人にとってもいいことなんだ、と思ってしまいます。

考えてみれば、価値観や考え方は人それぞれで、何がその人にとって大切なのかということも、やっぱり人によって違うはずです。

それなのに、自分が思う価値観を人にも当てはめて、「お前は間違っている」などと相手を否定しまうのが普通ですね。

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これが人間関係のトラブルの原因という場合もよくあるのではないでしょうか。

さらによく見てみれば、自分が大切だと思っているものが、はたして本当にそうなのかということも、怪しくなってきます。

お金があれば、物をたくさん持っていれば、また人よりも優れていれば、社会的な地位があれば、私たちは、自分が幸せになれると信じていることが多いですね。

でも、はたして本当に何かを手に入れたり、相手との比較や競争に勝ったからといって、心からの幸せを感じることができるのでしょうか。

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何かを手に入れれば、それを失いやしないかと思えてきたり、もっと手に入れなければと、欲がでてきたりします。

他人と自分をいつも比べていれば、勝った負けたと心が安まる時もないでしょう。

たとえば、今、湖に映った自分の姿を見ていると思ってください。

to be continue・・・

原作が東野圭吾というので、始まったばかりのドラマ「新参者」見てみました。

いいです!俳優がやたらと多い(笑)けど個性派揃い。
音楽がいい!菅野祐悟。ハケンの品格、少林少女、容疑者Xの献身、SPなどで知られ私好みのサウンドで魅せてくれる。

そして何よりもストーリーが面白い。香川照之が悪役?と思いきや人情味の厚い保険屋さんの役で、1話の後味がよかったですね。

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黒木メイサも意味ありげな役で、阿部ちゃんとの関係が気になります。

とにかく登場人物が多彩で、連続ドラマなんだけど、毎回新鮮みたいな話になるんでしょうね。

東野作品では「容疑者Xの献身」でそのストーリーと底に流れるヒューマンドラマに惚れたんです。今回の新参者も原作本がミステリーNo.1というし、今後に充分期待がもてますね。これで日曜の夜の定番ができました。

あと、音楽♪これも必聴ですから。カットカットに流れるサウンドトラックが粋なんです。さすが菅野祐悟です。。。

                   日曜夜9時はTBS「新参者」ですよ。G

日本では親や先生が子供に、「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えますが、インドでは、「あなたたちは、他人に迷惑をかけているのです」と教えるそうです。

はじめは、「えっ」と思ってしまいますが、考えてみれば私たちは、ただ生きているというだけで地球上の酸素や食糧を消費しますし、入学試験や入社試験に、ひとりが合格するということは、必ず誰かが落ちています。

また、ひとりが出世すれば他の人は、そのポストにはつけません。 何をやっても結局は人に迷惑をかけることになるのです。

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もちろん、「人に迷惑をかけてはいけない」ということは正しいことですし、それを心がけることは大切でしょう。

でも、そこにこだわりが生まれると、ちょっとした失敗をしても、「まわりの期待に答えられなくて心苦しい」と必要以上に自分を責めてしまいます。

あるいは、他の人から受けるちょっとした迷惑も許せなくなってしまいます。

ひょっとしたら、それこそ私たちが、つまらないことで心を煩わせる原因なのではないでしょうか。

本当は、「自分は、人に迷惑をかけている」ということを、ちゃんとわかっていることの方が大切なのです。

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だからこそ、それを許されて生かされている自分の存在を、とても大切なものと受け取ることができますし、人から受けるちょっとした迷惑も、当たり前のものだと許すことができるでしょう。

「できない」ことを何とか頑張って「できる」ようにしようとすることも大事ですが、「できない」ことは「できない」とちゃんと受けとめて、今、自分が「できる」ことを頑張ってみることの方がもっと大事なのではないでしょうか。

頑張ることは同じなのですが、気持ちの持ち方が全然違ってきますね。

        社長にも、できないことはできないと言うGでした(笑)


罪悪感とは、『自分自身を相手にした意味のない悲惨なゲーム』だと言った人がいます。

それは、自分自身をあるがままに受け入れることができずに、何かに強い信じ込みを持つところから生まれてきます。

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たとえば、「私は良い人だ」「私は清く正しい人間だ」もちろん自分自身に対して、こんな信じ込みや自己イメージを持つことは悪いことではなく、むしろ素晴らしいことです。でも、そのことにあまりに強いこだわりを持ってしまうとどうなるでしょう。

どんなに「良い人」でも、「清く正しい人間」でも、たまには気がゆるんだり、魔がさしてしまうこともあるのです。しかし、罪悪感の強い人の信じ込みは、それを許さないのです。

なぜなら、それを認めるということは、自分が「良い人」や「清く正しい人間」ではない、ということを認めるということになるからです。

だから、やってはいけないことをしてしまった自分を許そうとせずに、自分に怒りを感じ、自分を責め、苦しめるのです。

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そして、それをやってしまった自分に罪の意識を持つことによって、自分は「良い子」だということを証明しようとしているのではないでしょうか。

考えてみれば、こんな非生産的なことはありません。自分が、「よい人間だ」ということを、自分の中だけで証明できたからといって、いったい何になるのでしょう。

それよりも、たまには失敗したり、ついつい間違いもしてしまう、そんな自分を許して、もっと自由に生きることを楽しんでみる方がずっとよいのではないでしょうか。

あるがままの自分と仲良くなってはいかがですか?G

どうも私たちは、良いことでも悪いことでも、心がひっかかっていることを自分の現実として引き寄せてしまうようです。

今、自分が生きている世界は、結局は自分自身が創りあげた結果だと言ってもいいのです。

これは人間関係にも当てはまり、自分がまわりから受け取っているものは、やはり自分の心の反映なのだということです。

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たとえば「あなたはいつもセンスがいい洋服を着ていますね」などと、お世辞にでも人から言われたとしたら、それからもっと服装に気をつけてセンスを磨こうと思うでしょう。

「あなたはとても明るい人ですね。笑顔がとてもステキですよ」といわれれば、少々イヤなことがあったとしても、笑っていようと努力するのではないでしょうか。

逆に「お前は何て意地悪な奴なんだ」と言われたら、もっと意地悪をしてやろうと思うかも知れません。

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そんな言葉を口にしているかどうかは別として、そう意識していると、相手にそんな態度をとらせてしまっているのではないでしょうか。

人を信頼すれば、結局は自分も人から信頼されることになりますし、まわりに優しくしていれば、自分もまわりから親切にされるでしょう。

今の自分の環境も、自分自身が創りあげたものなのです。まわりに心を許せる人がいないと嘆いている人がいたとしたら、自分が心を許しているかどうか考えてみましょう。

                全ては、自分の心が引き寄せたもの。G

仏教では、「四苦」といって人間の大きな苦しみを「生・老・病・死」としています。この「四苦」とは、人間にとっては当たり前の生理現象なのです。

「生」きている人は、誰だって歳を取って「老い」ます。ときには「病」を患うこともあります。そして、どんな人でも、いつかは必ず「死」を迎えるのです。

そこから逃れることができる人など、いないということは、疑いもないでしょう。

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それが「苦」になるのは、私たちが、そんな当たり前のことを、自分で作りあげた『ものさし』を使って測っているから「苦」になるのです。

釈迦によると、その『ものさし』は、次の4つになるのだそうです。

「常」:この世には、何ひとつ変わらずに存在するものなどないのに、いつまでも同じでありたいと思う『ものさし』です。いつまでも若くありたい、いつまでも生きていたいと思うからこそ、「老」や「死」が苦しみになるのです。

「楽」:楽をするためには苦しいことも経験してはじめてバランスが取れるのが、この世の法則なのに、「楽」だけを追い求める『ものさし』です。

「我」:自分がいつも中心であらねばならないという『ものさし』で、無視されたり軽んじられたりすると深く悲しみます。

「浄」:自分や自分に属するものだけがキレイで正しいことであり、非難されるものは何も無いと思い込んでいる『ものさし』です。外側を着飾って満足していても、虚しいだけだということに気がつかないのです。

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このようなものさしで測っているとしたら、いつまでたっても心からの満足を感じたり、幸せを味わうことはできないでしょう。

「あるがまま、ありのままをうけとめる」この境地にたどりつくことは難しくとも、自らのものさしについて考えてみることも、その一歩かと思います。G